番外編:電波が混乱した日(2)
ずっと会っていなかったのに、まるで目が覚めるように思い出した。
2003年に出会った伊瀬の大人びた顔立ち。優しく諭すような話し方。怒った時の表情。たまに子供っぽく振る舞うところ。
そしてあの髪の色と、大きな手と、私の背を押してくれた笑顔。
全部、何もかもを覚えていた。
それにまだ、あの時のことも忘れていない。
伊瀬の部屋に入った私が、振り向けばもういなくなっていた。空っぽになった玄関と、そこに落ちていた鍵と、閉まらずにいたドア。夏の陽射しで焼きついたように思い出せる記憶だった。
あの時、伊瀬は帰ってしまったのだと思った。
どうか無事に帰って、2006年の未来に帰って、そして幸せになっていてくれたらいいと思っていた。私はずっと幸せだったけど、ただそれだけが心残りで、不安だった。私の背を押してくれた人が、私と同じように幸いであってくれたらいいと願っていた。
「ね、伊瀬――」
ようやく、確かめることができる。
そう思うと私の声は詰まって、呼びかけた後が続かない。涙が込み上げてくるのはどうしてだろう。
『キク、お前は幸せか?』
すると伊瀬が、先に尋ねてきた。
「う、うん。すごく幸せだよ。伊瀬も私も元気だし」
『そっか、よかった。何よりだ』
温かい言葉。
「伊瀬は? 伊瀬は元気なの? 幸せでいる?」
私が問い返すと、伊瀬は潜めるような笑声を立てた。
『まあな。無事帰れた。で、たまに喧嘩はするけどうまくやってる』
「あ……」
唐突にさっきの会話を思い出す。
伊瀬は私に何かを謝ろうとしていた。覚えていなかったとか、昔のことを覚えていないとか。あれは、あの話は何のことだったんだろう。
「伊瀬、さっきの」
私が聞こうとすると、伊瀬もすぐに言葉を続ける。
『帰った先が、ちょっと変わった未来でさ。帰ったらすぐにお前がいた』
「私?」
『ああ。すでに22歳になってるお前だよ』
それから彼は少しだけ寂しそうに語ってくれた。
『お前が傍にいるのはうれしかったよ。けどさ、どうして傍にいてくれんのか、俺はなんにも知らないんだ。お前と過ごした三年分の記憶が存在しないまま、ただ以前とは違う2006年に放り出されたんだ。もちろんそれ以外にも覚えてないこと――厳密には知るはずもないことが山ほどあって、まだ慣れた気がしねえよ』
急に何もかもが変わってしまったなんて、きっとタイムスリップすることくらい驚くことに違いないのに、伊瀬の口調はあくまでも何気なかった。
『でもいろいろ苦労しててもな、お前がいない未来よりましだし、幸せだ。おかげで必死にやれてるよ』
伊瀬はごく穏やかに言って、また笑った。
『でなきゃ、お前に未来を変えてもらった意味がねえだろ』
「うん」
私は泣くのをこらえるのに必死で、その後はもう何も続かなかった。
よかった。本当によかった。伊瀬は、あの時の伊瀬も幸せなんだ。
『キク、お前も幸せでいるんだな』
「うん」
『よかった。俺さ、それわかんないまま帰ったから、どうしてるか気になってて』
「うん」
『でもお前が幸せでいるなら、それだけでいいんだ』
「うん……」
幸せ。今の私は本当に、すごくすごく幸せなんだ。
それは伊瀬のおかげだから、心から感謝している。
もう会えないと思っていたから、せめて話せたことがうれしい。伊瀬も幸せでいるってことを確かめられて、うれしい。
『あの夏も、楽しかったな』
懐かしむような伊瀬の声に、もう私はうなづくことしかできなかった。
電話なんだから声に出さないと伝わらないのに。
『キク、泣くなよ』
ばれてた。
伊瀬に笑われた。
でも無理だ。泣かないでいるのなんて難しい。ずっと会いたかった人と話せて、その人が幸せでいてくれたなら、これ以上のうれしいことなんてないもの。
「ありがとう……」
ようやく、しゃくりあげながらもそれだけは、伝えた。
少し、電話の向こうでも沈黙が落ちた。ノイズが一度、ぶうんと膨れ上がるように響いた。
『いや、こっちこそ。本当に、あの時はありがとな』
「うん……」
込み上げてくる思いをどうにか落ち着かせながら、私は次の言葉を探した。
何を話そうか迷った。こっちにいる伊瀬のことか、あの夏が過ぎてからのことか、ちょうど今、2007年の春のことか。それとも――あの夏の思い出か。
ふと思いついて私は、
「あのね、伊瀬」
涙声でも構わず口を開いた。
だけどその時、突き刺さるような高い警告音が聞こえて。
「――え?」
直後、ふつっと電話が切れた。
あわてて覗き込んだ手元の携帯電話の画面が、今は真っ暗になっていた。
そういえば電池残量が少なかった。今になってそのことを思い出す。
電池、切れちゃったんだ。まだ話したいこと、たくさんあったのに。もう二度と話せないかもしれないのに。繋がらないかもしれないのに。
ちゃんと充電しておけばよかった。
でも不思議と、涙は止まってしまった。
エイプリルフールの嘘みたいな奇跡に、私はようやくあの夏の全てが片づいたことを知った。
本当に伊瀬は、すごい人だ。あの夏に過去まで来てくれたように、今日も何でもないことみたいに電話をかけてきてくれた。私のことを安心させて、幸せを噛み締める時間をくれた。
よかった。
本当に、話せてよかった。
幸せでいてくれてよかった。
あとはあの鍵のこと、話しておきたかったけど。忘れて行っちゃったでしょって言いたかったけど、でもきっと大丈夫だろうと思い直す。
伊瀬にも鍵を開けてくれる人がいたんだ。『私』がドアを開けて、ちゃんと待っててくれたんだ。だから鍵は必要なかったってことだろう。きっと。
携帯電話を充電器に置いて、少ししてから電源を入れた。
程なくしてもう一度着信があった。表示されたのは、さっきと同じように伊瀬の名前だ。
『お前、電源切ってた?』
繋がってすぐ、伊瀬はすねたような声を上げた。
『何度掛けても繋がんねえし。心配したんだぞ、マジで』
「ごめん、電池切れてたの」
私の涙はすっかり乾いてしまっていて、今は微笑んでいられた。
『ちゃんと充電しとけ、俺がやきもきするから』
むっつりと言った彼に、私はふと思い浮かんだ言葉をすぐに告げた。
「伊瀬。私、すごく幸せだから」
『え?』
返ってきたのは、ちょっと間の抜けた彼の声だ。
「伊瀬と一緒にいられて、幸せなの。だから、早く会いたいな」
『ああ……うん、まあ、そうだな。俺もそうだけど』
どこか動揺した様子で答えた伊瀬は、その後でちょっと笑った。
『俺も早くお前に会いたい。本当、お前の作ったオムライスが食べたくてしょうがなくってさ』
そっちで食べたご飯、おいしくなかったの?
そう聞いてみたら、なんでわかったんだと驚かれた。
だって、聞いたから。
伊瀬から聞いていたから、知ってたんだよ。




