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番外編:電波が混乱した日(1)

2007年エイプリルフールの話。前後編。

 夜、自分の部屋でのんびりしていたら、ふいに携帯電話が鳴った。

 かけてきた相手は『伊瀬』だ。

 彼が電話をくれるのは日課みたいなものだけど、今夜に限っては意外に思う。電話する暇あるんだろうか。


 この春に大学を卒業した伊瀬は、私たちの故郷にある企業に就職した。

 一昨日が入社式、昨日からは泊まりがけの研修に出ているはずで、朝夕みっちり勉強で夜は疲れて寝ちゃうだろうから、連絡はしなくていいよと言ってある。伊瀬も『電話する余裕ないかもな』とこぼしていた。

 それでもこうして連絡くれたということは、思っていたほど大変じゃなかったんだろうか。まさか泣き言が言いたくなったなんて電話じゃないといいけど――心配し過ぎか。

 私はちょっと笑って携帯の着信ボタンを押す。

 電池残量の少なさが気になったけど、そんなに長電話にはならないだろうし、いざとなったらコードに繋げばいいかと思い直す。


「もしもし?」

『――もしもし』

 呼びかけると、返ってきた伊瀬の声は暗かった。心なしか強張っているようにも聞こえたし、少しノイズが入って遠く感じられた。

 まさか本当に泣き言電話だろうか。まだ入社三日目だって言うのに、しょうがない。私でよければ存分に慰めてあげよう。

「伊瀬、電話くれないかと思った」

 私が言うと、電話の向こうでは微かに笑うのが聞こえる。

『いや、そこまで忙しくはねえよ』

「そっか。研修、どう?」

『まあまあ。飯はまずかった』

「贅沢言わないの」

『マジだって。お前来て食ってみろよ、本当に不味いから』

 さすがに違う会社の人間が研修先まで乗り込んでいくのは無理だ。

 私も笑って、ついでに励ましておく。

「はいはい。戻って来たらオムライス作ってあげるから、頑張って」

『ああ、それは励みになるな。もう今はお前のこと考えるくらいしか楽しみがない』

 素直すぎる反応が返ってきて、私は一瞬絶句した。

 伊瀬がそんなこと言うなんて。よっぽど打ちのめされているんだろうか。

「本当に大丈夫なの? 研修」

 私が尋ねると、伊瀬はまた微かに笑う。

『ああ、今んとこ心配いらねえよ。とにかく飯の問題だけだ』

「そんなに酷いんだ……」

『すげえんだって、貧相で貧相で。トンカツが駄菓子のカツみたいに薄っぺらいし、煮物はだしの味だけかってくらい薄味だし、味噌汁にいたっては具がワカメ一切れだけだった』

 ぺらぺらと愚痴る声はそれでも思ったより元気そうで、環境が変わっても大丈夫そうだなって逆に安心できてしまった。

 すっかり頼もしくなったな、伊瀬。

 感心していれば、

『あの……』

 伊瀬の声が、不意にトーンを落とした。

『キク。こないだの、話だけどさ』

 急に重々しく切り出されて、ほっとしかけていた私は戸惑う。

「こないだ? 何?」

 とっさに言われても思い当たらない。

 この間ってなんだっけ――最近交わした会話を思い出そうとする私に、彼はためらいながら続けた。

『俺が……その、お前と昔、行ったっていう店のこと、覚えてなくて』

「え……?」

『あの時は本当にごめんな』

 何を、言っているんだろう。

 私と行ったお店のことを覚えてないって?

 それは一体いつの話だろうか。そんな記憶、私の中にはなかった。

『前にも話したけどさ』

 伊瀬は、疑問符だらけの私を放ったらかしで話し続ける。

『俺、昔のこととか、よく覚えてないことがあって――』

「ち、ちょっと伊瀬」

 あわてて彼の言葉を遮る。

 どうもおかしい。何か、奇妙な予感がしていた。

 伊瀬が話しているのは、私のことじゃない。何の話かさっぱりわからない。

「何の話? 私、ちっとも心当たりがないんだけど……」

 そう言うと、電話の向こうでは、え、と小さな声が漏れた。

『いや、何言ってんのお前。ついこないだの話だろ』

「覚えないけど。お店って? なんのこと?」

『嘘だろ? 怒ってすっとぼけてんのか?』

「違う、本当に知らないの。人違いじゃない?」

 本当に知らないことをどうすっとぼけろって言うのやらだ。伊瀬の言っていることが何なのか心当たりがない。

 訳がわからない私に対し、伊瀬が溜息をつくのが聞こえた。

『キク』

 そして私を、静かに呼ぶ。

『お前、本当に覚えてないってのか?』

「そうよ。こないだって言われたって、いつの話だかさっぱり」

『……じゃあ、もしかしてお前』

 一度、そこで彼の言葉が途切れる。


 お互いが黙っている間、風の音のようなノイズだけが聞こていた。

 遠いところからの電話だからこんなにノイズがあるんだろうか。それにしてもちょっとうるさい。伊瀬との距離が、一層遠いもののように感じられた。

 彼の言っていることも、なんだかよくわからないままだ。


『お前、もしかして……』

 再び伊瀬が口を開いたのは、ややしばらく経ってからだった。

 言葉を選ぶような間があって、その後で尋ねてきた。

『キク。今、西暦何年だ?』

「今度は何?」

 脈絡のない質問に私はますます混乱したけど、

『いいから答えろ』

 有無を言わさぬ調子でうながされたから、答えた。

「2007年だけど」

『2007年? 2007年の4月1日か?』

「そうだよ、そういえばエイプリルフールだね」

 カレンダーを見ながら、私はそのことを思い出して答えた。

 そうか、エイプリルフール。

 まさかくだらない嘘でもついて私を驚かせる気なんだろうか。こっちは心配してるんだけどな。まったく伊瀬と来たら――。

『じゃあ、もうひとつ聞くけど』

 お構いなしで、伊瀬は尚も続けた。

『お前さ、2003年の夏に、俺とキャンプに行っただろ?』


 携帯電話を持つ手が震えた。

 私は息を呑む。

 だってその記憶は、今となっては私しか知らない。伊瀬にはまだ話してないし、柳たちはその事実をどうしてか忘れてしまった。

 他に知っている人がいるとすれば、それは――。


『俺と、キャンプに行ったよな? お前の学校の連中と一緒に』

 他に知っている可能性がある人は、たったひとりだ。

 でもまさかと思う。

『それと高校にも。一緒に母校訪問したよな、体育館裏までだけど。知ってる先生に見つかって逃げたりも……覚えてるか?』

「う、うん」

 私は見えもしないのにうなづいた。

 急に喉がからからになって、声が詰まったけど、どうしても聞きたいことがあった。

 確かめたかった。

「伊瀬」

 私は、彼の名前を呼ぶ。

「伊瀬は……今も、すごい色に髪を染めてる?」

 すると電話の向こうで、彼は笑った。

 いつも聞いてるはずなのに、その笑い方がやけに懐かしく思えた。

『馬鹿、さすがにあんな色じゃいられねえよ。就活の前に黒に戻した』

「だよね」

 それもそうだと思った。あんなミルクティー色で就職活動なんか、ましてや就職なんかできないだろうし。

 そして今ので本当に確信が持てた。

「伊瀬、あの夏に会った伊瀬なんだよね?」

 顔を見られない電話の距離が急にもどかしくなった。この電波は、騒がしいノイズの向こう側は、一体どこに繋がっているんだろう。

 あの時の伊瀬に、私はまた会えたりするだろうか。

『多分な』

 伊瀬はやっぱり笑っていた。

 ずいぶんと大人っぽくて、優しい声に聞こえるのは、忘れがたい思い出のせいだろうか。

『お前も、あの時のキクなんだな。言われてみりゃちょっと印象違うな』

「違う? 同じ私なのに?」

『ああ、違う。こっちにいるキクよりお前の方がガキっぽい』

「う、嘘だあ」

 私も笑おうとしたのに、どうしてか泣きそうな声になる。

 そっか、伊瀬は――あの時に出会った伊瀬は、帰った先でも私と一緒にいるんだ。

 こっちにいる私よりも大人っぽい私と。どんなふうに違うんだろうな、私。


 せっかくつながった電話だ。もっと彼の話を聞きたかった。

 知りたいことが山ほどあった。

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