表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/38

番外編:忘れないで

19歳の伊瀬と、キクの話。

 隣の県で暮らす伊瀬の部屋を訪ねて、楽しい休日を過ごしたその帰り。

 電車に乗るまで見送ると言ってくれた彼の言葉に甘え、ふたりで駅のホームまで出た。

 日が沈みかかった秋の夕暮れ、オレンジ色の眩しい光が差してくるホームで電車を待つ。刻一刻と近づいてくる別れのタイムリミットに、だんだん言葉数も少なくなる。

 いつもはうるさいくらいによく喋るのに、私も伊瀬も不自然なくらい黙り込む。

 今日の名残りを惜しむように肩を並べて、手を繋いだまま。


 そんな時、ふと、いつも同じことを口にしてしまう。

「私のこと、忘れないでね」

 沈黙を割って告げた私に、19歳の伊瀬はいつも奇妙そうな顔をする。

 染めていない髪は夕日を透かしてオレンジ色に光って見えた。

「何言ってんだ、忘れねえよ」

 それから肩を竦めて、私の不安が杞憂だとでも言いたげに続ける。

「俺、そんなに忘れそうに見えるか? ちょっと離れて住んでるからって」

 電車に乗って三時間、それが今の私と伊瀬の間にある距離だ。会いたくなったからといって気軽に会いに行けるほど近くはなく、でもお金と時間に余裕ができる度に会いに行ってしまう距離。


 あの夏に気持ちを確かめ合ってからというもの、私達はよくこうして会っていた。私が伊瀬の元を尋ねていくのがほとんどだったけど、冬休みにはこっちへ帰ってきてくれるそうだ。まだ秋のうちからその日が待ち遠しくて仕方がなかった。

 片想いだった恋が叶って、今は不安なんて何もなかった。

 それでも私が伊瀬に『忘れないで』と言いたくなるのは、今とは違う未来を知っているからだ。

 忘れないで、と言えなかった未来を。


「うん、わかってる。伊瀬は一旦忘れてもちゃんと思い出してくれる人だって」

 私は伊瀬の顔を見て、笑ってそう告げた。

 でも彼はたちまち不満げに眉を顰めてしまう。

「なんで忘れること前提なんだよ。忘れねえって」

 私を安心させるためか、もしかしたら咎める意味でか、繋いでいた手に痛いくらいの力を込めて握ってきた。

「伊瀬、痛いんだけど」

「うるせえ、人を疑った罰だ」

「疑ったんじゃないってば。ねえ、もうちょっと優しく握って」

「嫌だ。これに懲りたら彼氏をもっと信用しやがれ」

 拗ねた顔で言う伊瀬は19歳らしく、まだ少し子供っぽい。髪は染めていなくて、顔つきは高校時代から変化がないように見える。この髪が、この顔つきがあと三年であんなふうに変わってしまうのだとしたら、全く想像もつかなかった。

 でも繋いだ手の大きさだけは、記憶の中にあるものと――22歳の伊瀬と、何も変わりはなかった。


 忘れそうに見えるとか、信用していないとか、そういうことじゃない。

 私は、私のことを忘れてしまった未来の伊瀬を知っている。確かに会った。話もした。

 全てを打ち明けてくれた時、大人になった彼は、とても辛そうで悲しそうだった。

 私はただ、私の好きな人にそんな思いをさせたくないだけだ。


「忘れないで、っていうのはね」

 ようやく彼の手の力が緩んだところで、私は伊瀬に説明した。

「私なりの努力って言うか……おまじない、かな」

「おまじない? キク、そういうの信じる派なのかよ」

 その時、伊瀬は笑った。

 それはそうだろう、19にもなっておまじないだとか、もっと不思議なことを本気で信じているなんて変だと思われそうだ。

 私も笑って、続けた。

「そんな大した話じゃないの。言い続けてれば本当になるって思ってるだけ」

 十九歳の私は伊瀬のことが好きだった。でもそのことを口にはできなかった。

 結果、私はやがて他の人を好きになり、伊瀬は私を忘れてしまった。

 それが私にとって不幸な未来だったわけではないと思う。現に伊瀬は、私が幸せそうだったと教えてくれた。未来の私はその選択を何も後悔していなかったのだろうし、過去の失恋も時の流れと共に呑み込み、受け止めてしまっていたのだろう。でも――。

 今の私はこの恋を過去にはしたくなかった。

 たとえそれが、未来の私の意思に反していたとしても。

「むしろ、言い続けなくちゃだめなんだって思ってる」

 忘れないで、私のことを。

 この言葉はきっと、今の私の好きな人を幸せにできるだろう。

 そして私は伊瀬が幸せになる未来を選んだ。いや、選び続けていくつもりだ。

「思ってることを口にしなくちゃ何にも変わらないままだった。伊瀬とだって。そうでしょ?」

 そう問いかけると、伊瀬はどうも釈然としない様子で首を捻る。

「うーん……言いたいことがわかるような、わからねえような」

「そんなに難しくないと思うけど。伊瀬が好きって言い続けるのと同じことだもの」

「同じかあ? 好きって言われんのはともかく、忘れないでってのは……」

 伊瀬は尚もすっきりしない顔で首を傾げていた。

 だけど直に深く息をついて、ぼやくみたいに言った。

「まあ、これだけ離れて暮らしてるんだしな。お前がそう言いたがるのもわかるけど」

 もうすぐ、電車が来る。

 私はひとりでそれに乗って、向こうの街に帰らなければならない。別れ際はいつも寂しい。でも同時に、また来ようと強く思う。

 思いを口にし続けるのも、伊瀬に会いに行き続けるのも、この恋を未来まで届ける為の私なりの努力。そして、おまじないだ。

「でも、お前のことはそうそう忘れねえよ。心配すんな」

 伊瀬が屈託のない笑みを浮かべる。

 その言葉に嘘がないこともわかっているから、私は何度も繰り返す。

「うん。忘れないでね」

「わかってる。お前こそ、そっちの学校楽しいからって俺のこと忘れんなよ」

「私は忘れられそうにないよ、何があったって……あの夏からのことは、ずっと」


 今考えてみても夢のような、奇跡みたいな出来事だった。

 多分もう二度と、私の身にあんな幸運は巡ってこないだろう。

 瞼を閉じると、22歳の伊瀬の姿を今でも思い出すことができた。

 今よりかなり大人びていて、髪の色なんて目の覚めるようなミルクティー色で、服のセンスだって全然違ってた。話し方はあまり違わなかったけど仕種とか、私に言い聞かせるような物言いは確かに年上の人みたいだった。伊瀬のことが好きだと言った私に、キスはしてくれなかったことも含めて、あの人は確かに大人だった。

 私の好きな人。

 私が、幸せにすることはできなかった人。


「……なんかお前、ちょっと変わったよな」

 隣にいる伊瀬が、不意にそんなことを口にした。

 瞳を開けると、先程より色濃くなった夕暮れの光の中、彼はまるで見とれるように私を見ている。

「高校時代よりも一気に大人びたっつうか……落ち着いた?」

「昔は落ち着いてなかったみたいに聞こえる!」

「お互い様だろ。でも今は、一足先に大人になったように見えんだよな」

 伊瀬はその後もしばらく、穴が開くくらい熱心に私を見つめていた。

 私がその視線を黙って受け止めていると、やがてどことなく寂しげなそぶりで聞いてきた。

「なあ、俺の知らないところで何かあったとかじゃねえよな?」

 彼からの鋭い問いに、私はつい笑ってしまった。

 伊瀬も意外と私のことをよく見ているのかもしれない。

「別に何もなかったかな。伊瀬のこと以外は」

 私が答えたのと時を同じくして、電車がやってくるアナウンスがホームに流れた。


 程なくして線路の向こうから、けたたましい音と強い風圧と共に電車が近づいてくる。

 次第に速度を落としてホームに滑り込んでくる電車が完全に停まるまで、私達は手を繋いでいた。

 電車のドアが開く。降りる人がホームになだれ込んでくる。それに飲み込まれないようにドアの脇に立った私達は、最後に視線を交わし合う。

「またね、伊瀬。また会いに来るから、忘れないでね」

「……ああ」

 伊瀬は私の言葉に頷くと、私の手をするりと離した。

 そして降りる人が途切れたタイミングを見計らい、私を一度だけ、数秒間だけぎゅっと抱き締めた。

「何があったって忘れねえ。お前は俺のものだ、キク」

 別れ際に、急に何を言うんだろう。

 私は驚いたけど、伊瀬は顔を赤くしながらも真剣な顔で頷いて、それから私を解放した。

 その時、伊瀬の表情は今までより少しだけ大人びていて、思い出の中の22歳の伊瀬と重なった。


 帰りの電車にはたったひとりで乗り込んだ。

 すぐに日は完全に沈んでしまって、残照が広がる秋空と、光を散りばめた街の景色が車窓を流れていった。

 あの夏の日も、帰りの電車にはひとりで乗った。幸せな気持ちの一方で、行きの電車でずっと手を繋いでいてくれた彼のことを思い出し、少しだけ感傷に囚われもした。

 今でも時々考える。

 22歳の、私にいろんなことを教えてくれた大人の伊瀬は、未来で幸せになっているんだろうか。

 彼は私に力を貸してくれて、とても心強かったけど、私は彼の為に何かできただろうか。

 あれから彼がどうなったか、こればかりはどうしても確かめようがない。彼が無事に未来に戻れたのか、部屋の鍵を忘れていって困ることはなかったのか、知りたくても知る術がなかった。

 私にできるのは、忘れないでいることだけだ。


 伊瀬。私の好きな人。

 私は、私が幸せにできなかった分まで、彼を幸せにしてみせる。

 未来の私が言えなかった言葉で――私のことを、離れていても決して、忘れないで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ