番外編:おいしいオムライスに必要なもの(2)
靴を脱いで部屋に上がる。
脱いだスニーカーの横に細い女物のミュールを見つけた時、どきっとした。高校時代もこの間も、キクは無骨なスニーカーばかり履いていたからだ。
三年もの間にずいぶんと大人になったのかもしれない。その間の彼女について全く知らないという事実が、寂しくも、心細くも感じられた。
俺がテーブルの前に座ると、キクは俺に尋ねることもなく食器棚からコップを出し、冷蔵庫からは麦茶のピッチャーを出して、俺に注いで渡してくれた。
「ありがとう」
礼を言って受け取りつつも、まだ覚束ない気持ちでいる。
何せこの状況に慣れていない。22歳のキクと顔を合わせたのは今が初めてだし、どういう経緯でこの部屋に来てもらってるのかもわかってない。期待するなというほうが難しいが、ぬか喜びだってしたくない。
よく冷えた麦茶をひと口飲むと、気分もようやく落ち着いた。
と同時に、いくばくかの不安も芽生えてきた。
そもそもこの未来じゃ、俺たちはどんな関係なのかが不明だ。
うっかり変わり過ぎた未来のせいで、本当に『いとこ』にでもなってたらどうする。洒落にもならない。その辺りもしっかり確かめておかなくちゃいけない。
とりあえず彼女の指に、指輪がないことだけは確認した。
「キク、お前さ」
俺が切り出すと、差し向かいに座る彼女がきょとんとした。
「なあに?」
大人になった顔でも、その表情は昔の面影がよく残っていた。
「今日は……その、何しに来たんだ?」
どう切り出すかが難しい。俺は質問を選んで尋ねたが、キクには案の定変な顔をされた。
「何って、遊びに来ただけだけど。いけなかった?」
「いや、全然」
平然と振る舞いつつも、心が逸り出すのがわかる。
落ち着け、俺。
「その、いつも来てるんだっけ? お前」
俺の考えられうる最大限の『それとなく』は、彼女にとってはおかしな質問でしかないようだ。今度は思い切り顔をしかめられた。
「そうだけど。隔週くらいのペースじゃない?」
「隔週……そんなに来てもらってたのか!」
「っていうか、本当に何? さっきからかなり変だよ、伊瀬」
変にもなる。
キクに『いつも』って言われるくらい遊びに来てもらってて、それが当たり前のようになってて、俺がいない時でも部屋に上がるようなことにさえなってるってのに、俺はその経緯すら知らない。失われた年月がもったいなくも、腹立たしくもある。
だが、それもきっと俺と彼女の選択したことだ。
その結果、俺にはこういう未来が残った。そこに彼女が一緒にいるってだけでも十分だろう。
あとは、彼女を離さなければいい。
俺はコップをテーブルに置き、彼女の傍ににじり寄った。
彼女は俺の接近に眉根を寄せつつ、ますますいぶかしそうにする。
「ね、本当にどうしたの?」
それには答えず、膝がぶつかるくらいの距離で向かい合ってから、俺は一番大事な質問をする。
「お前って、俺の彼女?」
その瞬間、キクはゆっくりとまばたきをした。
それから、さも当然というようにうなづいた。
「うん。そのつもりだけど」
息が止まるかと思った。
うれしくて、幸せすぎて。
あの日望んだとおりに、苦しみもがきながらそれでも願ったとおりに、こうして未来は変わった。
こうして変わってしまったことで弊害もあるかもしれない。俺たちだけが変わったとも思えないし、俺が知らないこともたくさんある。俺はこれから時間をかけてその差異を知っていく必要があるだろう。
でも今はどうだってよかった。彼女が、キクがいてくれる喜びだけをひたすら噛み締めていたかった。
俺はいてもたってもいられずに腕を伸ばして、目の前にいたキクを抱き寄せた。
ぎゅっときつく抱き締めると、腕の中では彼女の呻く声がした。
「ちょっ、どうしたのって――っ」
抗議の言葉は唇で塞いだ。
2003年では果たせなかったから、お預け食らった分も俺の知らない3年の空白の間も取り返すべく、これからは思う存分キスしよう。
思う存分独り占めしよう。
誰に遠慮することもなく、手が届かないこともない。彼女はこんなにも近くにいる。限りなくゼロに近い場所に。
「なんか変じゃない、伊瀬。何かあったの?」
唇が離れても、キクは俺の心配ばかりだ。腕の中から逃げようとせず、抵抗もせずに収まっている。その姿がいとおしい。
「妙なことは聞いてくるし、ぼうっとしてるかと思えば、急に抱きついてきたりして……」
「変にもなるって……俺、幸せすぎてさ」
カールがかった髪を撫でる。ほのかにいい香りがした。
「お前もう、今日はどこにも行くな。ずうっと俺の傍にいろ。すぐ目に付いて手を伸ばしたらいつでも抱き寄せられるくらい近くにいろ。そうじゃないと嫌だ」
耳元で囁くと、腕の中のキクはくすぐったそうに身をよじった。
「それでもいいけど、買い物は行かないとだめだよ。冷蔵庫の中、空っぽだって言ったでしょ?」
「いいって、そんなの」
もう一度強く抱きすくめる。
「俺、お前さえいてくれれば他には何もいらない。お前がいれば幸せなんだ。他には何も、何ひとつなくていい」
本当に。
本当に、心からそう思った。
だけど、キクは言う。
「嘘ばっかり。そう言っておきながら少しすると『腹減った、なんか食おう』って言うんでしょ。お腹空いた時の伊瀬は空気読まないの知ってるんだから」
咎めるような視線を向けられ、俺は思わず言葉を失くした。
そっか、俺のことちゃんとわかってるのか。うれしいような、ちょっと複雑なような、だけどやっぱり幸せなような。
少し考えて、俺は深くうなづく。
「そう……かも、な」
「でしょ?」
ふっとキクが表情を和ませる。
「だったら買い物行こうよ。まだ外暑いけど、ふたりで行けば怖くない!」
なんだその理屈。
でもそういう言い分はキクらしくて、いくつになってもそういうとこは変わらないなってうれしくもなる。
「じゃ、行くか。晩飯何にする?」
「オムライスにしない?」
満面の笑顔で彼女は言う。
好きだもんな、オムライス。そこも全然変わってない。高校時代、おいしそうに食べてる顔がかわいくて、印象深くて、気づけば俺も好きになってた。
「今日は私が作るね。いっぱい練習してきたから、あのファミレスよりおいしくできるはず!」
キクが声を弾ませるから、俺もつられて笑った。
「そりゃ楽しみだ。期待してるぜ、キク」
「任せて。じゃあ買い物行こ、オムライスに必要なものは……」
冷蔵庫をもう一度覗いた彼女が指折り数えはじめる。
「ケチャップはあるから、玉ねぎと豚肉、あと玉子と牛乳も。他に何かある?」
聞かれたから素直に答えた。
「お前と俺」
そうしたらキクは一瞬目を見開いてから、おかしそうに声を立てて笑った。
「そんなの当たり前じゃない!」
夕飯の買い物には、日が落ちる前に行く事にした。
ふたり揃って部屋を出る。ドアを閉めると、俺が自分のポケットを探る前にキクが鍵を取り出した。
合い鍵、持ってんだな。当然なんだろうけど、しみじみと思う。どう言う経緯で手渡して、どんな顔で受け取ってもらったのかなんて全くわからないが、それでもうれしい。
それからふと俺は、ポケットの中の空白に気づいた。
いつも鍵を入れとく場所に、そういえば何も入っていない。
「あれ?」
思わず声を上げると、ちょうど鍵を掛け終えたキクが振り返る。
「何? どうしたの?」
「いや、鍵が……」
ポケットの中に突っ込んだ手に、鍵の感触はなかった。
急いで他のポケットやカバンの中も探してみたけれど、鍵は見つからなかった。
「失くしたの?」
キクも心配そうに眉を顰めた。
「かもな……。まずいな、これ」
「落とした心当たりは? 最後に出した場所とか……」
「心当たりなんて――」
ある。俺ははっと口をつぐんだ。
最後に鍵を取り出し、それを使って開けたのは、ここだ。
2003年の、俺の部屋のドアだ。
つまり落としたとすれば、鍵のありかはきっと2003年ってことになる。
念の為、辺りを探してみても鍵は見つからなかった。
「困ったね。大家さんに連絡しないと」
不安げなキクに、俺は詫びた。
「そうだな、後で言っとくよ。ごめんな」
でも俺には不安はなかった。どこで落としたかはなんとなくわかっている。だから心配はいらない。
――多分、お前なら気がついて、拾ってくれてるはずだ。
しょうがないからお前にやるよ、それ。他には何も贈ってやれなかったし、金借りたのに返せてなかったしな。いろいろ世話になった礼にしてはささやかすぎるけど、できるなら大事にしてくれ。
2003年では本当にありがとう。
遠回りしたけど、お前のお蔭で俺も幸せになれそうだ。
これからはもう二度と後悔することはないように、今のこの気持ちと幸せとを、大切にしていこう。お互いに。
「次からはカバンにつけとくのもいいかもね。肌身離さず持ち歩くほうが安全じゃない?」
キクの提案に、俺は心から頷いた。
「ああ、もう離さないようにする」
そして彼女を促し、ドアの前を離れると、アパートの階段をゆっくりと下り始めた。




