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番外編:おいしいオムライスに必要なもの(1)

22歳の伊瀬視点。前後編。

 2006年の夏、あのハガキが俺のところに届いて、世界の全部が終わってしまったみたいになった時、思った。

 馬鹿馬鹿しい願い事だけど、せめて過去に戻れないものかって。

 少しだけでも過去に戻って、何もかもやり直す事ができたら。せめてあのハガキをなかったことにできたら、どんなにいいだろうと思った。


 2003年の夏に、どういうわけか戻ってきてしまった時はこう思った。

 きっとこれはチャンスだ。

 俺にとっての現在、彼女にとっての未来を、今なら変えることができる。


 19歳のキクは俺の望みを聞き入れてくれて、俺たちは共に2003年の俺の部屋へ向かった。

 彼女が19歳の俺と結ばれれば、きっと未来は変わる。そう思う。

 だがその時、俺――22歳の、過去に戻ってきてしまった俺がどうなるのかはわからない。

 なかったこととして消えてしまうのか。変わってしまった未来に帰されるのか。そもそも帰ることすらできないまま、ずっと2003年に留まることになるのか。

 わからなくてもよかった。キクの本心を聞かせてもらった以上は、彼女の願いが叶い、彼女が幸せになれるならそれだけでいい。俺は今さらどうなったっていいし、ひとりぼっちの未来に帰されるくらいなら帰れなくてもいい。


 だから、あの部屋の鍵を開けた。

 2003年の俺と顔を合わせる羽目になっても、それはそれで面白いかもな、なんて思ってた。あんまり意地を張るようなら、キクの代わりに俺が説教してやろうか、とか。かつての自分と会う不安や恐怖はなかった。


 玄関のドアを開けると、冷房の涼しい風が外に向かって吹き出した。

 出かける時にエアコンを切っていかなかったようだ。近場に出かけたんだろうか、こんな時に留守なんてつくづく『俺』は間が悪い。

 玄関から見えるダイニングキッチンも、その奥にある寝室も、今はそれなりに片づいていてきれいだった。こっちはどうやらいいタイミングで来れたようだ。散らかってる時は本当にひどいからな。

 部屋の印象は2006年に住んでいたものと何ら変わりなかった。三年以上も住んでればインテリアも変わってきそうなものなのに、三日前に出てきた部屋とほとんど違いがないのが笑える。

 そしてキッチンにある冷蔵庫の前には、いち早く上がり込んだキクが立っていて――。

 そこで俺は違和感を覚えた。


 キクは、あんな服を着ていただろうか。

 キャンプ帰りのあいつは、無地のTシャツに半端丈のチノパンという服装だったはずだ。背負っていたリュックもないし、よく見れば髪型も違う。

 肩まで伸ばした髪はゆるくカールされ、エアコンの風にふわふわ揺れていた。着ているのは黒いノースリーブワンピースだ。ほっそりした彼女によく似合っていたが、一体いつ着替えたのか。

 眉をひそめる俺の前で、彼女はふと振り返る。

 そしてこちらを見るなり、大人っぽく微笑んだ。

「あ、お帰りなさい。どこ行ってたの?」

 笑い方だけじゃなく、彼女は全てが大人っぽかった。キャンプ帰りの簡単なメイクとは違い、しっかり化粧をした顔はさすがにきれいだ。19の彼女が時折見せたあどけなさは影をひそめ、その顔立ちはもう『少女』とは呼べない成長を遂げていた。

「キク……?」

 恐る恐る呼んでみる。

 すると彼女は不思議そうに俺を見返した。

「どうしたの? 冷房逃げちゃうから、ドア閉めなよ」

「あ、ああ……そうする」

 俺は玄関のドアを閉めた。

 射し込んでいた西日が遮られると、部屋の中はとたんに薄暗くなる。それでも彼女に対する違和感は消えない。おとといからずっと一緒にいたはずなのに、いつの間にこんなふうに変わってしまったんだろう。

「私もさっき着いたばかりなんだ」

 キクは言う。

 ここへは一緒に来たはずなのに。

 そもそも鍵を開けたのは俺だ。ここは俺の部屋のはずだ。だから彼女が『おかえり』なんて言うのもおかしい。

「伊瀬がいないから、ご飯でも作っとこうかと思ったら冷蔵庫の中空っぽなんだもん。私いない時でもちゃんとご飯作って食べてねって、いつも言ってるのに」

 彼女は少し呆れた様子で溜息をつく。

 だがその言葉にも覚えはなかった。『いつも』ってなんだ。そもそもキクに飯を作ってもらった覚えなんて、昨夜のバーベキューくらいだ。

 違和感が加速する。

 目の前にいる彼女が、さっきまで一緒にいたキクには見えなくなっていた。

「晩ご飯のお買い物行かないと。疲れてなかったら付き合ってよ」

 ただ、19には見えない彼女の笑顔を見ているうち、パズルのピースが填まるような感覚も抱いた。


 まさか。

 もしかするとこれは――。


「キク」

 俺が呼ぶと、彼女はまた不思議そうな顔をする。

「なあに?」

「今って、何年だ?」

「何年って、西暦で?」

「そう」

 キクは瞬きをする。どうしてそんな質問をするんだろうって顔で、それでもすらすらと答える。

「え、ふつうに2006年じゃない? なんでそんなこと聞くの?」

「……じゃあ、お前はいくつだ?」

 もうひとつ、俺は慎重に尋ねた。

 焦りすぎて、もうすぐ手が届きそうな真実が壊れてしまわないように。

「何それ、心理テストか何か?」

 戸惑う彼女の表情が、それでもやがて笑顔に変わる。

「22歳だよ。同い年でしょ、私たち」

「同い年……」

「で、この質問の意味は何? 心理テストなら答え教えてね」

 キクが苦笑いを浮かべるのを、俺は呆然と見つめていた。


 ようやく理解した。


 ここは2006年の俺の部屋だ。

 俺が元いた場所、元いた時代だ。

 どうしてここに、まるで当たり前みたいにキクがいて、俺を待っていてくれたのかはわからない。だがポジティブに解釈するなら答えはひとつだ。

 未来は変わった。

 19歳のキクが変えてくれた。

 そして俺は、2006年に戻ってきた。

 恐らく、まるっきり同じ2006年に戻ってきたわけじゃないんだろう。彼女がどうしてここにいるのか、俺の留守中に部屋に入って、『おかえり』と言ってくれるような何があったのか、俺は知らない。彼女と過ごした記憶は高校時代の三年と三日前からのものだけで、2006年に至るまでにどんなふうに過ごしてきたのか、一切わからない。

 それでも戻ってくることができて、その上彼女が待っていてくれたのなら、他には何も望むことなんてない。


「どうか、した? さっきから様子が変だけど」

 キクに尋ねられて、俺は小さくかぶりを振った。

「いや、なんでもないんだ」

 それから、込み上げてくる笑いを噛み殺すこともできず、そのままにしておいた。

 なんだこれ。ドアを開けたら彼女が待っていてくれたなんて、出来すぎなくらいの未来だ。本当に夢じゃないのか、まだ信じられない。

 でも、とりあえずはこう言おう。

「……ただいま」

「おかえり、伊瀬」

 改めてそう言ってくれた彼女も笑った。

 見とれるほどきれいな笑顔だった。

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