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27:大ピンチ!

 伊瀬の大きな手が、私の髪を優しく撫でてくれる。

 高校時代、腕相撲をしても一度も勝てたことがなかった。一回だけ、人混みの中で手を繋いだことがあった。髪に触れられながら、そんなことをぼんやり思い返している。

 そろそろお昼の時間だろうか。気温はじりじり上がってきて、陽射しを遮る木陰の中でも十分に蒸し暑い。だけど私たちはしっかりと抱き合ったまま離れなかった。

 離れたくなかった。

 せっかく、両想いだったんだから。


 私は伊瀬にしがみつきつつ、胸に湧き起こる様々な思いを噛み締めた。

 うれしかった。

 もっと早く言っておけばよかった。

 伊瀬につらい思いをさせたことが苦しかった。

 それでも、今は幸せだった。

 伊瀬もそう思ってくれてたらいい。


「もっと早く言っとくんだったな……」

 頭上でつぶやく伊瀬の声は、笑っているように聞こえた。

 それで私が顔を上げると、彼もうれしそうに目を細める。

「本当に好きなんだ」

 そう言ってくれて、私も笑いながらうなづく。

「……うん」

「キクがいれば、この先何が起きても、どんなことだって怖くないって思うよ」

「私もだよ、伊瀬」

「ありがとう。なんか、うれしいな。こういうの」

 伊瀬はしみじみと噛み締めるように言ってくれる。

「お前が傍にいるって、こんなにも心強くて幸せなことなんだって改めてわかったよ。おとといからずっとそうだったけど、今はよりはっきりと感じる。お前がいてくれてうれしい」

 私もうれしい。

 ずっと、伊瀬にとってそういう存在でありたかった。

「傍にいるよ、伊瀬。私がついてるから、安心して」

 心からの思いを告げると、彼は少し困ったような顔をする。

「なんだよ……かわいいな、お前」

 あんまり言われたことのない単語に、むしろ私のほうが困った。

 いや、あんまりどころか伊瀬から言われたのは初めてじゃないだろうか。ずっと伊瀬は私のことを女子だと思ってなかったふしがあったし――それも今思えばただの思い込みなのかもしれないけど、でも確かに初めてだった。

 かわいいって。

 伊瀬が、私を。

「な……、何それ」

 どう反応していいかわからなくて横を向きかけたら、伊瀬の手がそっと頬に添えられた。

 そのまま前を、少しだけ上を向かされる。

 見上げた先、意外と近い距離に伊瀬の顔があって、その表情の意外な真剣さに息もできなくなった。

「かわいいよ、本当に」

 囁くような声で繰り返されて、吐息が唇にかかる。くすぐったい。

 それから伊瀬はゆっくりと顔を近づけてきて、私は震えているのを気づかれないように目をつむった。


 初めてだった。

 震えているのは怖いからじゃない。信じられなかったからだ。

 好きな人とキスをする、という現実が私に訪れるなんて思ってもみなかったからだ。

 でも幸せだった。伊瀬ならいいと思ってた。こういう日が来るのを、心のどこかでずっとずっと願っていた――。


「……あれ……?」

 だけど初めての感覚はいつまで経ってもやって来ず、私は恐る恐る目を開ける。

 伊瀬はうつむいていた。私の頬に手を添えたまま、なぜか最後の一歩をためらっていた。ミルクティー色の前髪越しに閉ざされた瞼が見え、唇が引き結ばれているのもうかがえた。

 やがてその唇が動く。

「やっぱり、だめだ」

 低くつぶやいた伊瀬が、静かに顔を上げる。

 そこに浮かんでいたのは、大人びた優しい苦笑いだった。

「お前が告白する相手、やっぱり俺じゃだめだろ」

「どうして? 私が好きなのは伊瀬だよ!」

「今の俺じゃなくて、19歳の俺じゃないのか?」

 諭すように、穏やかにそう言われた。

 言われて、私は答えに窮した。私は伊瀬が好きだった。それはついこの間まで同じ高校に通っていた同い年の伊瀬もそうだけど、今、目の前にいる22歳の伊瀬もそうだった。どちらが、なんて決められるはずもなかった。どちらも好きで、どちらも大切だった。

 初めて会った時、たしかにずいぶん変わったと思った。22歳だと聞かされた時は、ひとりで大人になってしまった彼に寂しさを覚えたのも事実だ。でも一緒に過ごしていれば伊瀬はやっぱり伊瀬だった。私の好きな人だった。

 だから、そんなふうに言われると。

「私……伊瀬が好きだよ」

 どうしていいのかわからなくて、本音を告げるしかできない。

「どっちが、なんて言えないよ。いくつになったって伊瀬は伊瀬でしょ?」

「そりゃうれしいけどさ」

 伊瀬は、わざとおどけたように肩をすくめる。

「でも俺とお前が付き合ったら、こっちの俺はどうする? ひとりぼっちになっちゃうだろ?」

「そう、だけど……」

「知ってるだろうけどあいつ、馬鹿だからな。お前が傍にいてやんないとだめになるぜ」

 そう言うと、伊瀬は私から手を離した。

 表情はあくまでも大人らしく、ひたすら静かに笑っている。

「逆にお前がいてくれたら安心だ。道踏み外すこともねえし、どうにかやってけるだろ」

 そして抱き締める代わりみたいに、私の肩をぽんと叩いた。

「頼む、未来を変えてくれ」


 今になってようやく、私はその残酷さに気づいた。

 未来を変えるということは、私が、19歳の伊瀬を選ぶということだ。

 そうすることで未来が変わって、私は伊瀬と一緒にいられるようになって――でも、22歳の伊瀬はその時、いったいどうなってしまうんだろう。


「伊瀬は……どうするの?」

 まだ心が完全に決まったわけじゃない。だけど薄々は悟りつつある私が、彼に尋ねた。

 彼はオーバーなしぐさで天を仰ぐ。

「どうすっかな……帰れなかったら俺、こっちじゃ戸籍もないだろうしな。親に事情話してどこまで信じてもらえるかだな。くそ、髪染めなきゃよかったぜ」

「そういうことじゃなくて……」

「いや、そういうことだろ。俺は本来だったらいないはずの人間なんだからな」

 きっぱりと言い切るあたり、彼の心はもう決まってしまったようだ。

「もしどうにもなんなくなったら、お前らに養ってもらうかな」

「いいよ、私と伊瀬で面倒見るから」

「でもそれだと、そっちの俺がうるさいかもな。けっこうやきもち焼きだから」

「そんなの……」

 伊瀬なら、未来の自分に会えたら大はしゃぎで喜ぶと思う。面倒見るって言ってくれるんじゃないか、って気もするけど。

「それに未来の俺と昔の俺に取り合われたら、お前だって困るだろ?」

「そ、そんなことで喧嘩しないで!」

「いや、するね。言っとくけど19のガキに負ける俺じゃないからな」

「ふつうに張り合ってるじゃない」

 なんだか妙に自信たっぷりな伊瀬に、私は顔をしかめた。

 彼はいつしか明るい笑顔を取り戻していて、声を弾ませて続ける。

「本気で勝負したら俺が勝つよ。でもそれじゃ19の俺がかわいそうだろ、だから譲ってやるんだよ」


 やっぱり伊瀬は大人になってしまったんだって、この時思った。

 それは悪いことじゃない。むしろ当たり前のことなんだろうけど、今はその明るさが胸に痛かった。


 だけど私にできることは、彼の思いに報いることだ。

 彼の決意を無駄にせず、大切にして前に進むことだ。

 だから、大きくうなづいた。

「……うん」

 決めた。

 決めた、と言えるほど気持ちが固まっているわけじゃなかった。私の決断は好きな人の片方を悲しませることになる。それでも、私が何もしなければ未来は変わらないから。

「よし、頼んだぜ」

 伊瀬が笑って、うなづき返してくる。

 そして、

「じゃあそうと決まったら――」

 と言いかけた時、

「こら、そこで何してる!」

 いきなり男の人の声が響いて、私は思わず跳び上がる。

 振り返るとさっきまでふたりきりだった体育館裏に、別の人影が立っていた。

 ジャージ姿の、先生だ。

 なぜ先生だとわかったかと言えば、母校だけにぎりぎり知ってる顔だったからだ。教科担任が欠勤した時に代理で来たことがあった先生で、悪いことに向こうも私の顔を覚えていた。

「お前は昨年度卒業した……菊池? そっちは――」

 先生の目が伊瀬のほうを見る。

 まずい。伊瀬なんて先生から真っ先に顔を覚えられちゃう生徒だったし、それが22になって髪も染めてこんなに変わり果ててたらまず怪しまれるに決まってる。そうじゃなくてもこれは不法侵入、OB訪問で許してもらえる範囲かは怪しい。

 私はあわてて伊瀬の手を取り、

「ごめんなさい先生、すぐ出てきます!」

「あ、こら! 勝手に入ってくるんじゃない!」

「出ていきますからっ!」

 そのままめくれたフェンスをくぐって、ふたり揃って母校から逃げ出した。


 手を引かれて走りながら、伊瀬はげらげら笑っていた。

「あの先生懐かしいな! 何回か授業来てたよな!」

「笑い事じゃないから、何が楽しいの!」

 振り返って叫ぶと、本当に楽しそうな彼の笑顔が見える。

「いや、ふたりで先生に怒られんのも久々だなと思ってさ!」

 私は伊瀬と違って、そんなに怒られてばかりでもなかったけど――母校から離れていく私は、伊瀬の笑い声を聞きながら少しだけ寂しい気持ちになった。


 あの頃にはどうしたって戻れない。

 それがわかっているから、私は前に進むしかなかった。

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