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21:へーっ……。

 キャンプサイトまでの道を、私たちは無言で歩いた。

 遊歩道を辿る伊瀬はまるで怒ってでもいるように早足で、私の手を掴む力も強すぎるほどだった。普段は陽気な伊瀬が黙ると空気は重く沈んでしまい、私も何も言えないまま手を引かれて歩くだけだった。

 時々、後ろをついてくる棚井くんを振り返った。

 彼もまた少々気まずげにしていて、私と目が合うと申し訳なさそうな顔もしてみせた。たぶん彼の目にも伊瀬が怒っているように見えたんだろう。

 夜の河原は危ないから――伊瀬はそういうふうに言ったけど、だからだろうか。

 そんなことで怒るのはらしくない気もしたし、それ以上に『何か違う』という予感がしていた。


 結局、キャンプサイトに着くまで三人とも口を利かなかった。

「あ……じゃあ、おやすみ」

 棚井くんが小声で言って、

「うん、おやすみなさい」

 返事をした私の手を、伊瀬が黙って引っ張る。

 それでつんのめりながらも自分のテントまで連れ帰られて、伊瀬は黙ったまま先に引っ込んだ。

 私も後を追う。テントの中の明かりは消えていて、荷物の壁にぶつかった。自分の毛布をどうにか引き寄せ、テントの端の方で寝転がる。

「お、怒ってる……?」

 恐る恐る尋ねた合間に、ごそごそと物音がする。伊瀬も毛布をかぶったようだ。

 答えは、少しくぐもって聞こえた。

「怒ってねえよ」

「じゃあ……」

 どうしたの、と質問を重ねかけた私を、

「ただ、絶望してる」

 彼のそんな言葉が遮った。


 絶望。

 伊瀬の口から放たれるにはあまりにも不似合いで、でもどこか腑に落ちる単語でもあった。

 河原に行く前、テントの中で聞かされた話も。

 河原に迎えに来た伊瀬が浮かべていた表情も。

 絶望していたのだと言われたら、そうなんだろうと思えてしまう。


 ただ、それを黙って聞き流せるはずもなかった。

「どうして? その、どういうことで?」

 問い詰めるように聞こえたのか、伊瀬はすぐには答えてくれなかった。長い、本当に長い溜息をついてから、ぽつりと言った。

「なあ」

「何?」

「未来って、変えられると思うか?」

 まさに未来から来た人が、そんなふうに私に尋ねた。

 さっきも似たような問いをぶつけられて、その時私は『変えられるかもしれない』って答えた。


 私はその答えを知らない。

 2006年の伊瀬の隣に私がいないことだけは知っている。でもその未来を私が何かすることで変えられるのか、もしも変えてしまったらどんな代償があるのか、そしてその時、ここにいる22歳の伊瀬はどうなってしまうのか、何も知らなかった。

 未来は変えられるんだろうか。その証明のためにはまず未来に何が起きるのかを知っていなくちゃいけないし、変わったかどうか確かめることも必要だ。でも私は未来への行き方を知らない――過去だって知らない。伊瀬がどうしてここにいるのかも知らない。

 何もわからないことだらけのまま、ただ年上になった伊瀬が隣にいる。


「わからないけど……伊瀬は変えたいって願ってるんでしょ?」

 考えた末、私はそう応じた。

「それで伊瀬が救われるなら、変えるべきだと私は思うよ」

 絶望なんて似合わない言葉に囚われているくらいなら、そんなもの抱える暇もないような幸せな未来に帰って欲しい。私はそう思う。

 伊瀬の幸せに寄り添えないことは、すごく悲しいけど。

「俺は、変えたかった」

 きっぱりと言い切った伊瀬は、だけどその後で弱々しい声を出す。

「でも、俺がどんなふうに思っても無駄なのかもしれない。俺が何やってもどう言っても、未来は決まっていて変えようがないのかもしれないって、今夜思った」

「今夜……?」

 違和感があった。

 私がテントを抜けて河原に行く前、伊瀬は未来を変えたいと語っていたはずだ。ものの小一時間の間に絶望するような出来事があったとでもいうんだろうか。私の見ていないところで。

「何か、あったの?」

 私の質問に、伊瀬はまた黙る。

 枕に突っ伏したような、かすかな音がした。

「なんでだよ」

「なんでって、伊瀬の考えが変わったように思えたから」

「ああ……そうかもな、あんなにまざまざと見せつけられたらな」

 吐き捨てるような口調が、胸に突き刺さるようだった。


 本当に、どうしたって言うんだろう。

 さっきまで伊瀬は言っていたはずだ。どうして過去にやってきたのかわかる気がしてるって。どうしてこの2003年の夏なのか、他の年ではなくてどうして『今』なのか、初めはわからなかったけど、って。

 なのに今は本当に打ちひしがれているようだ。もはや立ち直れもしないほどに。


 ただ、ひとつだけ判明したことがある。

 伊瀬は何かを見たようだ。彼が暮らしていた未来に繋がる何かを。

「見せつけられたって何を?」

 ようやく慣れてきた目が、荷物で作った壁をとらえた。その向こうには薄闇しかなく、伊瀬の姿は見えなかった。

「教えてよ伊瀬、力になるから。私にできることなら何だって――」

 返事のない闇にそう訴えると、

「悪い」

 伊瀬は苦しそうに、そんな呻きを絞り出す。

 それで私が口をつぐめば、ひどく疲れ切った声が後に続いた。

「お前が訳わからないって思ってんのは知ってる。でも俺、お前に打ち明けていいのかわかんねえんだ。全部ぶちまけたら楽になるんだろうけど、言ったところで何にも変わらないなら全部無駄になるし、お前を嫌な気分にさせるだけだ。そのくらいなら黙ってる方がいいんじゃないかって」

 語れる言葉の端々に、絶望と諦めの色が覗いている。

「俺はどうなったってよかったんだ。未来が変わってひどい目に遭うんだとしても、俺自身が消えたって構わなかった。あの未来に帰らなくて済むならそれだけでよかったから、変えられるもんなら変えてやろうって考えてた」

 そこまでの決意を、伊瀬がしていたなんて知らなかった。

 気づけなかったことが悔しく、打ち明けてもらえないことが悲しかった。

「でも……やっぱ、未来は変わんねえのかなって……」

 伊瀬の声が溜息と共に消え、何も言えなくなった私に、やがて彼は言う。

「ごめん。寝るわ、俺」

 それから寝返りの音がして、彼はそのまま黙ってしまった。

 私も、もう何も聞けなかった。


 未来は変わらない。

 伊瀬にそう思わせた原因が何かはわからないままだ。恐らくはこのキャンプで起きた何かが彼を絶望させたんだろうけど、伊瀬は私に教える気はないようだった。どうしてかは、やっぱりわからない。

 打ち明けたら私を嫌な気分にさせる、とも言っていた。それがどういうことなのかもつかめないままだった。

 真っ暗なテントの中で、たぶん、伊瀬は寝てない。

 寝息は聞こえないし、それどころか呼吸を押し殺しているのが気配でわかる。

 私も眠れる気はしなくて、ただ伊瀬のことばかり考えていた。


 未来を変えたい。

 伊瀬にはつらい思いをして欲しくない。幸せになって欲しい。一番の願いは『私が幸せにしたい』だったけど、それが叶わないなら違う形でもいいから望む未来に変えてあげたい。

 でも伊瀬の言うように、それは無理なことなんだろうか。


「私……」

 会話が打ち切られたというのに諦めがつかなくて、私は悪あがきみたいにつぶやく。

「伊瀬の力になるよ。それが悪いことでも、伊瀬の未来を変えるためならやってもいいよ」

 悪いこと、なんだろうか。

 未来を知った上で、それを変えてしまうのはいけないことなんだろうか。

 ずるい、とは思う。誰も未来を知らないのに、知ってる人だけが変えようと動いたらそれは不公平だ。非難されても仕方ない。

 だとしても、こんなにも絶望している伊瀬のためなら――。

「私に助けさせてよ、伊瀬を」

 真っ暗な空間に向かって投げかけると、

「へーっ……」

 何とも言えない反応が返ってきた。

 顔が見えないからどういう意味の『へー』かは不明だ。感心したのか呆れられたのか、できるはずがないと思われたのか。

 ただ、

「変なこと言って悪かったな、おやすみ」

 次に聞こえた伊瀬の声は少しだけ優しく響いて、私はかえって途方に暮れる。


 私では、彼の力になれないんだろうか。 

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