Friday Promise
彼は左耳の裏にホクロがある。あのときたしかに、私に教えてくれた。彼は、私の太陽だった。
川の音が鼓膜に愛おしいほど優しく届く。夕陽が鮮やかで、小学生が無邪気に走っている。背中のランドセルは彼らには重そうだ。
「○○、今日の夕飯はロールキャベツなんてどう?お肉とキャベツが特売日なの!○○、好きでしょ?前はキャベツが破けちゃったり肉汁が溢れちゃったりで大変だったけど、勉強したから!今度こそ美味しいの作るね」
○○は笑顔でうんうん、と頷いてくれる。目元は夕陽の反射でよく見えないが、彼と結婚したら、こんな幸せな日々が毎日続くのか。ああ、最高だ。
「…華月、前!!!!!!」
「え…?」
救急車のサイレン、周りの人たちの叫び声、目まぐるしく回る世界の音、○○の声…
「ッ…夢か、」
何度も何度も、同じ夢を見る。華月から電話がかかってきたかと思ったら、その声の主は彼女のお母さんで、すぐ病院に駆けつけた。が、その努力も虚しく、即死だったらしい。あの日から、私は彼女の夢を見る。
今日は特別な日だ。一生忘れられない、忘れたくもない、忘れてはならない、親友の命日。私の唯一の親友であり、仕事仲間だった華月が、車に轢かれて亡くなった。私は何もできず、彼女の白くなった顔を見て、ごめんね、とだけ呟いた。涙なんて、出るはずがなかった。小学生時代からずっと一緒だった華月には婚約者がいて、半年後には結婚式も控えていた。彼女のウェディングドレスを着た姿は、お世辞なんかじゃなく、ほんとうに、世界一綺麗だった。華奢な身体、白い肌、まるで御伽噺のお姫様のようだった。会いたい、声が聴きたい。亡くなっただなんて、いまだに信じられず、きっとこの事実をしばらくは受け入れられないだろうと思った。今だけは、彼女の存在が、まだ近くにあると思っていたかった。婚約者には会ったことがない。夢でも○○、と呼んでいるけれど、聞き取れないし、顔も目元が白飛びているように隠れていて、何も分からない。彼女のお葬式でも、彼と会うことはできなかった。
華月の命日から、私はあるバーに行くようになった。病院から少し遠回りをして家に帰ろうとしていたとき、気づけばここに来ていた。私が行ったんじゃなく、ここが私を呼んでいるような気がした。吸い込まれるように、ここに入っていた。そして決まって、彼女の亡くなった金曜日にだけ、毎週顔を出している。
「今日は何にする?」
バーテンダーの蓮は、私が初めてここに来たときから色々な話を聴いてくれる。華月の話も、自然としてしまっていた。彼は涙を流しながら話を聴いてくれた。
「私の親友、車に轢かれたんです」
「え?」
「飲酒運転ですよ、そのひと。運転してた記憶、ないみたいです。もちろん、轢いた記憶も」
「そっか」
「…酷いとか憎いとかもう、どうでもよくって」
「うん」
「ただ、返して欲しい。私のたった一人の親友を、返して欲しい。それだけなのに」
「うん」
「どうして…どうしてあの子なの…」
「…うん」
「…どうしてあなたが泣くんですか」
「辛いだろうなと思って」
「…」
「今は、これ呑んで少し気持ちを楽にしてください。俺も、一緒に呑みます」
「初めて来たとき、何呑んだっけ」
「初めてのときは、ギムレットだったよ」
「そうそう、すっごい度数高くてびっくりしちゃった」
「ごめん。なんとなく、辛かったみたいだし忘れて欲しくて」
「…ありがとう。今日は大丈夫だから、度数は低めのよろしく」
「かしこまりました」
「今日はね…」
彼にならなんでも話せた。最近あったくだらない話、上司への不満、悩み。笑顔でうんうん、と頷いてくれる。
「そんなお客様には、はい、こちらをどうぞ」
「うわあ、爽やかだね。これは?」
「カイピロスカでございます。結構有名だと思うんだけど」
蓮は仲のいい友人で、それでも一応バーテンダーと客だから、その線をしっかり引きつつ言葉を選んでくれる。
「カイピロスカ…?」
「すずか、ほんとに酒のことはなんも知らないよな」
「…」
「すずか?」
「…ごめん、まだ名前呼んで欲しくない、かも」
華月がすずか、と呼んでくれていたことを思い出してしまい、蓮が私を名前で呼んだことが引っかかった。
「ごめん、分かった」
少し気まずい空気が流れたけど、蓮は何も無かったかのようにまた話を聴いてくれる。そんなところも、またここに来たいと思う所以だろう。もちろん第一の所以は、お酒がとにかく美味しいこと。
初めて来たとき、私の雰囲気を感じとってくれたのか、蓮はすぐさま店を閉じて、貸切状態にしてくれた。それからというもの、私が来ると必ず店を閉じてくれるようになった。お店は大丈夫なのかと毎回心配になるものの、気にしないふりをしている。とか言いつつ、いつも閉店間際に行くようにしてるんだけど。
「ん、これ、すっごく強くない?一杯で十分…」
「ごめん、結構強い」
「うわ騙された!暴力反対ー」
「これ暴力か?店追い出すぞ」
「ごめんなさーい」
こんな巫山戯た会話も、私にとっては癒しだった。
「蓮は彼女とかいないの?」
「……なんだよ突然」
「私ね、恋とかしたことなくて。私の親友には婚約者がいたの。まあ、相手どんなひとか知らないし、式は挙げられなかったけど。それまではほんとうに幸せそうで。でも私なんか彼氏すらできたことなくて、ひたすら羨ましかった。私って一生独身なのかも、とか思ったり。だから蓮はどうなのかなって」
「彼女…いたよ」
「え、いたの?どんなどんな?」
「なんだろ、優しくてしっかり者で、料理上手なひとかな。あと、仕事熱心」
「それなのに、別れちゃったんだ?」
「…まあね」
「そっか。蓮も、辛かったね」
「いや、俺より彼女の方が辛かったと思う。…俺も呑もっかな」
「うんうん、呑んじゃお。明日は仕事お休みだし」
「…俺は休みじゃないけどな」
その日も結局、いつも通りたくさん呑んでは話をして、ストレスはほぼゼロになった。
「次の金曜も来るから」
蓮はいつも店の前まで出てくれる。
「はいはい、またお越し下さい。ありがとうございました」
入口から少し歩くと、どこか見覚えのある姿が周囲をうろちょろしていた。すると、後ろから蓮の声が響く。
「あれ?カズ?」
「お!蓮!よかったー合ってたー」
「ここが俺の店。良かったら入ってよ。ちょっと待ってて、すぐ準備する」
仲のいい方なのかな?あんなに呑んだのにまだお仕事だもんなあ、すごいなあ。と、感心している場合ではなかった。スマホをお店に忘れたことに気づき、すぐに同じ道を戻る。
「蓮ごめん、スマホ忘れた…」
「これですか?はい」
「あっ、どうも…」
蓮に貰うはずが、さっき蓮と話していた別の男性に貰ってしまった。一瞬、時間が止まったような感覚に襲われた。どこかで見たことがあるこの顔…
「あっ」
「え?」
少し考えてから分かった。アイドルの馬場和也だ。
「なるほど、だからカズ…」
「あ、もしかして俺の事ご存じですか?」
「はい…」
「嬉しいです。ありがとうございます」
そこに店の裏で準備していたであろう蓮が戻ってくる。
「あれ、どうした?」
「スマホ忘れちゃって、取りに来た」
「そっ。またなんか呑む?」
「え、あんなに呑んだのに…?」
「でも全然酔ってないじゃん。大丈夫でしょ一杯くらい。カズも来たことだし」
「…二人は、お知り合いなの?」
「カズはね、俺の親友」
「蓮とはだいぶ長い付き合いだよね。時間が合えばちょくちょく会ってるし」
「そうなんですね」
「あ、ここ座ります?呑みましょ?」
カズこと馬場和也さんは、ニコッと可愛らしい笑顔で私を席へ誘導した。さすがアイドル…俗に言うキラースマイルというやつだろうか。驚くほど眩しい笑顔に、少し鼓動が高まった。
「じゃあ、一杯だけ…」
「かしこまりました」
蓮は素早くカクテルを作る。
「あなたの名前、聞いてもいいですか?」
突然、馬場さんは私に問いかける。
「あっ、はい。渡瀬すずかです」
「渡瀬すずかさん。素敵な名前ですね。どんなお仕事されてるんですか?」
「ファッション関係の仕事を…」
馬場さんは、私にどんどん質問を投げかけてくる。芸能人ってすごいな、アイドルってすごいなと思うのと同時に、その質問の勢いに戸惑った。でも、私はそこまで芸能界に詳しくなかったから、あまり緊張はしなかった。厳密に言えば、緊張するなと頭で考えていた、という表現が正しいかもしれない。そこにタイミングよくカクテルが置かれる。
「キールとアイオープナーってございます」
「これは度数低いよね?」
「低いから大丈夫」
「キール、それなりに高くない?アイオープナーも。てかなんで俺にアイオープナー?」
「度数高いので酔わせようと思って」
「それで渡瀬さんにはキール?…へえ」
「蓮って、どういう基準でカクテルを選んでるの?」
「あ、それ俺も気になる。教えてよ」
「お客様の雰囲気。このお客様は今こんな気持ち、こんな調子だから、このカクテルにしようって、そんな感じ」
「ふーん。よくわかんないけど、バーテンダーやってるとそんな風に分かってくるんだな」
「カズだってそうだろ。アイドルだって何年もやってれば慣れてくるんだろ?」
「どうだろ、正直いつも新しいことの連続だから、慣れはしないかな。まあ、ファンのみんなが大切なのは、蓮と変わらないよね。お客様が大切ってことと同じ。俺らは夢を売ってるから、ファンを悲しませたり、失望させたりしちゃいけないんだ。それが大前提として分かってる人しかアイドルは向いてない。その上で、この仕事は成り立つ。って、なんか話ズレたな」
「カズはスキャンダル一切ないもんな。ほんとすごいと思う。恋愛とかしないの?」
「いつかはするでしょ。でも、今は違うと思う。今は自分自身、ファンや仕事が第一優先で、彼女とか奥さんとか考えられない。いつかファンのみんなも大人になって、俺も大人になったとき、お互いがそろそろだなって思ったときに結婚しようかなって思ってる。ああでも、しない可能性もあるかな。このひとだっていう女のコが現れたらするかも」
「意識高いなあ。まさにアイドルの鑑って感じ」
「にしても、アイオープナーねえ。面白い」
二人の会話を聞きつつ、私は一人、キールを呑んだ。味に詳しくない私でも、赤ワインの香りが鼻を掠めた。
「蓮、それに渡瀬さん、今日は突然ごめんね。ありがとう。また来るわ」
「あっ、はい。さようなら」
「またお越し下さい」
「またねー」
「じゃあ、私も行くね。また、来週の金曜日に」
「はい。ありがとうございました」
随分と呑んだのに、さらに一杯呑んでしまったから、私は家に帰ってすぐ、ベッドで横になった。やっぱり次の日が休みだとつい呑んでしまう。私とほぼ同じペースで私のより度数の高いお酒を呑んだ蓮は、明日の仕事も無事にこなせるのだろうかと少し心配になった。きっと心配する必要なんて、これっぽっちもないのだろうけど。
次の日は、部屋を片付けたり、ゴロゴロしてだいぶ充実した休日を過ごしていた。ふとテレビをつけると、そこには昨日会った馬場和也が映っていた。
「昨日、会ったのか…変な感じ…」
本当にこの世に存在しているのか、昨日会った彼も実は幻覚だったのではないのだろうかと疑問に思うほど、テレビの中の彼はキラキラ輝いていた。明るすぎる金色の髪の毛が、よく映えている。可愛い顔をしているくせに、そこからは想像できないすごく男らしい歌声に、ギャップを感じた。
「かっこいい…アイドルだなあ」
彼は二人グループで活動をしているのに、私の目はもう一人のメンバーには行かず、彼だけを捕らえていた。かっこいいなんて、異性に感じたことは無かった。きっと、アイドルだからそんなふうに感じたのかもしれない。ファンの人たちは、夢を売ってくれる彼をどんどん好きになっているのだろう、そう思った。彼が歌い終わったあとも、少し余韻に浸ってしまった。それはきっと、昨日会ってしまったからだろう。
「すずか、これコピーしておいてくれない?」
「了解、ってこれ華月がデザインしたの?」
「ふふっ、そうだよ。どう?」
「…すっごくオシャレ。さすが華月」
「そう?よかった。この間彼と一緒にいたとき、なんだかすごく幸せで、彼と居るのは当たり前になってたのに、ふと温かい気持ちになったんだよね。それをイラストに起こしてみたの」
「恋の力だね。すごい」
「すずかも、恋したら変わるかもよ?」
「もー、私にはそういうの似合わないんだってば」
「先輩、できました」
「お、いい感じじゃない?調子戻ってきたわね」
「ありがとうございます」
華月が亡くなってから数ヶ月が経ち、仕事もようやく安定してきた。私の仕事はファッション関係で、デザインだったり販売だったり様々だ。今季のトレンドなんて正直どうでもいい私は、全くファッションには疎いので、よく華月にお店を紹介してもらっていた。それを思い出すとつい懐かしくなって、仕事帰り、きっと一番来ていたであろうブランドショップに足を運んだ。
「ねえすずか?」
「ん?なに?」
「その服、前に着たのはいつ?」
「…おととい」
「は?一回洗濯してまた着たの?」
「その通りです…」
「そんなんだからすずかはいつまで経っても彼氏できないのよもう!」
「うっ…華月に言われると胸に刺さる…」
「よし、一緒に買いに行こう!私のお気に入りのブランドショップがあるの。」
「分かった。これで三日に一回になるね」
「はあ!?それしか服ないの!?しかも同じような黒い服だけじゃない!何着か買いますよ!」
「ひい!ごめんなさい!」
「…お洒落すぎる…私には似合わないよ…」
「勘違いしてるだけだよ。大丈夫だから、ほら、行くよ!」
「…華月、ほんとにお洒落だよね。彼氏のおかげ?」
「へへ、彼氏のためにお洒落してるってのはあるけど、自分を客観視したとき、少しでも綺麗に見られたいっていうのもあるかな。よし、これ買おう。私からプレゼント!」
「え!そんな悪いよ!」
「いいの!ここだけの話、いつも彼が奢ってくれるから、お金は溜まってるの」
華月はコソッと私に囁いて、洋服を買ってくれた。あの笑顔は忘れられない。彼氏のことを考えている華月はすごく可愛くて、綺麗だった。
華月は外見だけじゃなくて、内面も綺麗だよ。そう伝える前に、華月はいなくなった。
お店の中はなんだか懐かしかったけれど、以前来たときの洋服はほとんどが別なものに変わっていた。さびしかった。アクセサリーもほとんど変わっていた。こんな風に、これから華月のいなくなった世界も目まぐるしく変わっていくのだろうか。私はたくさんたくさん華月に感謝していて、恩返ししたいことがたくさんあるのに、華月はもうここにはいない。それなのに、周りの環境も人も全部変わっていって、いつしか華月のことは忘れてしまうのだろうか。華月の顔や声、体温を思い出せなくなってしまうのだろうか。怖い。すごく怖い。華月のいない世界は、とても、空気が薄い。
「…渡瀬さん?」
「え?」
「やっぱり。渡瀬さんだ。お久しぶりです。馬場です」
華月と二人で見たネックレスを一つだけ見つけて眺めていると、そこに馬場さんが来た。
「お久しぶりです。お買い物ですか?」
「はい。俺、ここの洋服が大好きで、お気に入りなんです。もしかしたら、渡瀬さんもですか?」
「あ、いや、そこまでではないんですけど。ここは思い出の場所なんです。だから久しぶりに見てみようかなって」
「そうなんですか。またお会いできて嬉しいです」
さすがアイドル。さらっと素敵なことを言うものだ。この間テレビで観たときより、少し髪色が落ちていた。
「私もです」
「んー、せっかく会えましたし、俺が選んだ服でも着てみません?」
「え?」
「どうですか?せっかくの機会ですし、試着だけでも。渡瀬さん、ファッションのお仕事されてるんですよね?」
「まぁ…」
「じゃあ決まり」
「…では、お言葉に甘えて」
また会えたことはもちろん、彼が私とバーで話したことを覚えていてくれたのが心底嬉しくて、とりあえず試着だけしてみることにした。
「これとかどうです?最近はこういうのも流行ってるし取り入れてみたらきっと渡瀬さんに似合うと思います」
「可愛いですね、でも私なんかに…」
「大丈夫ですよ。ほら、似合ってます。俺の言った通りです」
また、キラースマイルに鼓動が高まる。彼は笑うととえくぼができるのか、と冷静に考えていた自分に少し感心しつつ、意外と似合うかもしれない、そう思った。
「さすがです。こういう組み合わせってしつこいかなと思ったんですけど、案外いけますね。私はいつも真っ黒ばっかりの洋服を着ていたので、なんだか新しいファッションを見つけられました」
「俺、一応みんなにはオシャレって言われてるんで。自信あります。これ、プレゼントしますね」
「えっ、そんな、わざわざ大丈夫です。自分で買いますから」
「いいんですよ。今日また会えたのも、何かの縁だろうし。ね?」
「…ありがとうございます」
馬場さんは私にトータルコーデをしてくれた上に、それを全てプレゼントしてくれた。後から気づいたけど、馬場さんが来たときに眺めていた、華月との思い出のネックレスも添えられていた。
「本当にありがとうございました。もしまたお会いできたら、お礼させてください」
「もし、会えたらね…渡瀬さん、まだあのバーに通ってますか?」
「あ、まあ、はい」
「じゃあ、今度はあのバーで会えるといいですね」
「はい。また」
毎週金曜日に行ってるなんて言ったら、きっと馬場さんは気を遣って来てくれる、そう思ったから、それは言わないでおいた。このあいだはさようならって言ったのに、まさかまたって言える日が来るなんて。少し期待が膨らんでしまったのは、全部馬場さんに買ってもらった洋服のせいにした。今週は、この服を着て行こう。
「蓮、こんばんは」
「お、お疲れ」
「今日はお店閉めないの?」
「うん。予約入ってる。そのお客様が来たら閉めるよ」
「予約?珍しいね?」
「最近の常連さんでーす。どうしても今日のこの時間がいいんだってさ」
「へえ、そうなんだ」
「すずか、今日なんかお洒落だな。彼氏でもできた?」
最近ようやくすずかと呼ばれる違和感はなくなった。ゆっくりだけれど、華月のことを受け入れようと頑張れるようになった。きっと彼の影響もある。
「これ、お洒落でしょ?彼氏じゃないけど、選んでもらったの。今度ここに来るときは、これ着ようって決めてて。上司にも褒めていただいたの」
「え、あの褒めない上司さん?」
「そう、凄いでしょ?私、今までよっぽどダサかったみたいで。これ着てから、びっくりするくらい仕事が順調なの」
そう、あのお店で彼がたくさん今季のトレンドやコーディネートの仕方を教えてくれたおかげで、それを活かしたデザインができるようになった。彼の腕は本物で、私が今まで敬遠していたコーデも、すんなり受け入れられるようになった。彼のパワーはすごい。
「良かったじゃん。それはなによりだよ」
「ほんとうに嬉しい。蓮も色々ありがとうね。話聴いてくれて。助かった」
「俺は聴いただけ。行動したのはすずかでしょ?華月のことだって」
「うん。って、あれ?私、華月の名前教えたっけ?」
「…いや、教えられてはないけど、ちょくちょく名前聞いてたから、きっと親友ってのは華月って人のことだなって思って。でしょ?」
「まあそうだけど…」
なんとなく腑に落ちずモヤモヤしていると、それをかき消すかのように、お店のドアが開いた。
「こんばんは。あ、渡瀬さん」
「馬場、さん…」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたよ」
蓮はすばやくお店を閉める。予約してた最近の常連さんって、馬場さんのことだったんだ。
「渡瀬さん、こんばんは。また会えましたね。意外とはやかったです」
「そうですね」
「あ…その服、着てくれてるんですね。嬉しいです」
また、彼はえくぼと共にキラースマイルを浮かべた。この笑顔を見ると、なぜか喉のあたりが苦しい。髪…またブリーチしたのかな、痛まないのかな。
「馬場さんがたくさん教えてくださったおかげで、仕事も順調なんです。ありがとうございました」
「ほんとですか?実は俺も、今日の仕事上手くいったんです。ここに来るの楽しみにいつも以上に頑張れたからですかね」
「どうして今日予約されたんですか?」
「いや、実は蓮に聞いたんです。渡瀬さん、次いつ来る?って。そしたら、毎週金曜って教えてくれて。まさか蓮がすんなり教えてくれるとは思わなかったんですけど、ダメもとで聞いたら予約までさせてくれたんですよ」
「そうだったんですね」
「会えてよかったです。渡瀬さん、ここ好きなんですね」
「はい。蓮がびっくりするくらい聴き上手で、気付いたら話す必要ないことまで話しちゃうんです」
「そうですか。渡瀬さんは蓮のこと好きなんですか?」
「え!?それはありませんよ。蓮は私のよき相談相手ってとこです」
「なるほど。じゃあ…」
馬場さんがなにか言いかけたところで、蓮が店を閉めて戻ってきた。
「本日はどちらにされますか?」
「今日も蓮が選んでよ。俺らにぴったりのもの」
「かしこまりました」
蓮がカクテルを作っている間、私たちの会話はとても弾んだ。
「今まで褒めることのなかった上司に、褒めていただけたんです、この洋服。本当に馬場さんはオシャレで知識も豊富で。すごいです」
「ほんとですか?俺、服が大好きで、色んなの持ってるんです。見てもらいたいくらい」
「そんなにたくさんあるんですね。私ももっと研究しないとなあ…」
「仕事に打ち込む女性、俺はかっこいいと思います。俺も負けてられないなって思います」
「私は馬場さんみたいにもっと流行に敏感にならないとですね」
「渡瀬さんは、趣味とかあります?」
「残念ながら洋服にはなかなか興味がなくて。今務めてる会社にも、偶然受かったから入った感じで。本当は音楽が大好きなんです」
「そうなんですか!じゃあ、よかったら俺らの曲、聞いてみてください。自信作ばっかりですから」
「実はこの前、テレビで拝見したんです。正直、馬場さんがキラキラ輝きすぎてて、曲聴くの忘れてました。今度はちゃんとCD買って聞きますね」
「そんなに俺のビジュアル良かったんですか?観てくださってありがとうございます。オススメはセカンドアルバムです。でも、聞く前に俺のグループのこと知ってもらいたいんですけど…紹介してもいいですか?」
「ぜひ!お願いします」
「俺らデュエットでやらせてもらってるんですけど、相方とはもう十数年一緒で。片桐祐輔っていうんです。アイツめちゃくちゃ歌上手くて。ま、俺の方が上手いけど。あいつと歌ってると、楽しくて仕方なくて。俺、やっぱり歌が好きだなって思わせてくれるんだよね」
「信頼し合ってるんですね。素敵です」
あまりに楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに話すから、なんだかこちらもそんな気持ちになった。それと同時に、なんだか私と華月みたいで、胸がキュッとなった。
「お話中申し訳ありません。こちらミドリミルクと、スティンガーでございます」
「…は?スティンガー?どういうこと?」
「お客様にぴったりのをということでしたので」
「渡瀬さんにはミドリミルク…たしかにね?度数低いし」
「馬場さん、お酒詳しいですよね。これ度数低いんですか?」
「うん、簡単に言えば牛乳だよ」
「カズなら分かると思ってた」
「蓮、計算し尽くしてるなー。俺にはバレバレだよ?」
「計算?何か計算してるの?蓮」
「お客様にぴったりのをということでしたので」
「さっきと同じこと言ってる…まぁいいや。ありがとう」
楽しかった馬場さんとの会話が絶たれ、馬場さんと蓮との間に少し微妙な空気が流れているような気がした。馬場さんの言う通りミドリミルクは牛乳の味がして、私でものみやすかった。
「ねえ渡瀬さん」
「はい?」
「今度会ったらお礼させてくださいって言ってたよね」
「そうでしたね。させてください」
「じゃあさ、またあそこ行こうよ」
あそことは前に行ったブランドショップのことだろう。その言葉だけで通じるほどには仲良くなれたということに、少し喜びを感じた。
「ぜひ行きたいです」
「決まり。じゃあ休みの日教えてくれない?被った日に行こう」
馬場さんは連絡先を聞こうとはしなかった。そんな細かいところにも気を使っているのだろう。もちろん私からも聞くことはなかった。
意外と休みの都合は合い、またすぐに会えた。次に会うときは教えてもらった曲の感想を言おうと思っていたけど、CDを買えなかった。少し後悔しつつブランドショップに行くと、馬場さんは先にアクセサリーを見ていた。
「あ、馬場さん、これ似合いそうです」
「これ?」
私が馬場さんに渡したのは、スターのバングル。馬場さんのイメージにぴったりだった。
「これにこのパンツとか合わせてみたら…」
「確かに、これかっこいいかも。渡瀬さん、一気にお洒落さんだね」
「そんなことないですよ。馬場さんのおかげです。これ、プレゼントさせてください」
「これいいの?やった!ありがとう」
私がいただいたプレゼントより少なくて申し訳ないと感じつつも、馬場さんに無事お礼ができて、これで終わりだと思っていた。
「渡瀬さんこのあと用事ある?」
「いえ。とくには」
「じゃあ、近くのCDショップ行かない?俺のオススメ、紹介したいな」
私がさっき考えていたことを感じ取られたのかと思った。まだ馬場さんと一緒にいられると思うと、素直に嬉しかった。
「この辺、私あんまり来ないんですよね。だから、まさかこの辺にCDショップがあるなんて知りませんでした。」
「え、そうなの?じゃあ今までCDとかどこで買ってたの?」
「実はスマホで」
「そっかー、今はみんなそうだよね」
「でも、馬場さんに教えていただいたアルバムは絶対CDを買うって決めてたんです。だから、近くのCDショップも知れてラッキーです」
「嬉しい。よかった。ほら、あそこだよ」
喜んでいる彼の表情を見ていると、すごく幸せな気持ちになった。楽しい時間は一瞬で過ぎてしまう。
「俺のオススメのセカンドアルバム。特にこの曲がすごく好きで。いつか東京ドームで絶対に歌うんだ」
夢を語る馬場さんの目は、すごく輝いていた。叶うといい、心からそう思った。
「そうなんですね。買える時間なかったので、せっかくだしこれ買います」
「即決だね。ありがとう、嬉しい」
即決という言葉を聞いて、少し後悔した。もう少し悩めば、馬場さんと長く一緒にいられたかもしれない。でも、迷惑になるかもしれない。結局私は馬場さんにオススメしてもらったセカンドアルバムと、最新のシングルを購入した。
「買ってくれてありがとう。俺が東京ドームで歌う日が来たら、絶対観にきて」
「はい、もちろんです」
「楽しみだな。にしても、俺が買ってプレゼントしてあげたかったのに、渡瀬さんすぐ買っちゃうから。」
「いえ、いいんです。またお礼しなくちゃいけなくなりますから、わざわざ連れてきてくださっただけで十分です。」
「…お礼しなきゃいけなくなるの、嫌だった?」
「え?」
「いや、これ以上約束増えたら嫌かなって」
まさか、そんなふうに言われるなんて思ってもいなかった。
「そんなことありません。馬場さんにこれ以上ご迷惑かけられませんし、忙しいだろうし…」
それに約束はもうできている。東京ドームだ。
「気を遣ってくれてありがとう。そうだよね。危うく俺も自分がアイドルってこと忘れそうだった」
彼の一言一言に、どんどん期待してしまう自分がいる。そんな想いにはすぐ蓋をして見なかったふりをするけれど。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったよ。また、今度はバーで会えたら」
「はい。会えたら。また」
ほぼ半日、彼とすごした私は心が何かに満たされて溢れそうだった。彼に出会ってから全てが上手くいっている気がして、とにかく嬉しくて、幸せだった。彼にオススメしてもらった曲も、そんな雰囲気の曲だった。彼のことを考えながら何度も聞いた。彼はいつの間にかタメ口になっていたけど、私はなかなかそんなふうにはできなかった。住む世界が違いすぎる相手に対して、気安くタメ口なんて…やっぱりできない。ただ、彼がタメ口を使ってくれている。それだけで、私は距離が近づいた気がして大満足だった。
◆◇◆◇◆
「また来ちゃったわ。こんばんは」
「カズ。いらっしゃいませ」
「今日はブルームーンお願い」
「…かしこまりました」
これは俺なりの精一杯の蓮へのSOS。お願いだから、伝わってくれ。俺や彼女にあんなカクテルを作るくらいだ。蓮なら分かってくれるはずだ。頼む。伝わってくれ。
「ブルームーンでございます」
「ありがとう」
…?
伝わってない?
そんなわけないよな。蓮のことだ。きっと時間を置いて…
「…うま」
「よかった。そんで?何があったんだよ。」
伝わってた。蓮は彼女の言う通り、聴き上手だ。どことなく相手の心にすんなり入ってきて、リラックスさせてくれる。初めて会ったときからそんなやつだった。
「俺さ…」
俺らが出会ったのは、お互い二十三歳のとき。俺はすでにアイドルとして活動して何年か経ってたんだけど、この時期はびっくりするくらい何も上手くいかなくて、かなり自暴自棄になってたと思う。そんなときに蓮のバーに訪れた。当時は別の場所にあったんだけど、人気になってから店を大きくしたらしい。店が新しくなるまではほぼ毎日ここに通っていた。彼が俺の心にすんなり入り込んできたのは今でも覚えてるし、そのときの衝撃は忘れられない。
「いらっしゃいませ」
「この店のおすすめ、ください」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
彼が運んできたのは、カミカゼだった。ロックグラスが当時の僕にはかっこよすぎて、まるで僕を嘲笑うように一つだけ堂々と存在しているライムが鬱陶しかった。でも、そんなふうに思ってしまったことを後悔してしまうほど、美味かった。すごく悔しくて、忘れられない味。最近はライムを見ると頭がクラクラする。蓮は何を考えてこれにしてくれたのか、今なら分かるんだけど、当時はすごく恨んだ。
「明日はきっといい日になりますよ」
「…え?」
「どんなに今までが辛くてもそれはもう過去です。過去を振り返っていいのは、いいことがあったときだけです。悪いことがあった日は肩を落とすのではなく、明日を見ればいいんです。明日はやってやるって気持ちが大事なんです」
この言葉がどれだけ俺のモチベーションになっているのか、彼は気付いていないだろう。この言葉に頭を殴られたような気がした。俺が過去を振り返ってばかりで何も変えようとしなかったから、つまりは図星だった。だからこの言葉で俺ははっと我に返ったし、頑張ろうと思った。実際次の日から、仕事は順調に進み、片桐にもマネージャーにも褒めてもらう回数が格段に増えた。蓮は俺の魔法使いだったらしい。それから俺らはどんどん仲が良くなった。
それから蓮はそのキャラクターもあってかどんどん人気になっていった。しかし彼はそれが嫌だったらしく、店に入れるお客さんの人数より、予約の人数のほうがはるかに多くなってしまったため、店を移すと決めた。しかも新店舗の場所は特に親しい常連さんにしか教えなかったらしい。教えてもらえなかった客に言ってやりたい。いいだろ。
「店、移動するんだよね」
「蓮さあ、俺より人気になるのやめろよ?」
「それはどうかな?いつか東京ドームに移動するかもな」
「俺がずっと行きたいって思ってる目標の場所に仕事場作るなよ」
「わーってる。東京ドームはカズの大事な場所だって分かってるし、あそこはカズが行くべき場所だろ。俺が足を踏み入れることなんてできない」
「…さっきまで冗談言ってたくせになんだよ急に。やめろよ」
「なんか、冗談にするにはカズに失礼だなって思った」
「ん。まあ、おめでとう。新しくなったらまた行くから、場所教えてよ」
「これ見て」
この店での最後の会話はこれだった。蓮は俺に連絡先を聞かず、一枚のメモを渡してきた。そこに、新しい店の住所が書かれていた。気を遣ってくれてたんだと思う。蓮のそういう優しさに俺は救われた。だから、これからも関わっていきたいと思った。
「馬場、最近調子いいね。今の曲なんて特にサイコーじゃん」
「そ?俺この曲大好きなんだよね」
「今の馬場にピッタリな感じはするよ?なんかこう、上手くいったときに聞いたらテンション上がる曲って感じする。まさに今」
片桐は勘が鋭い。俺は今本当に毎日が充実している。蓮のおかげだ。セカンドアルバムに収録されるこの曲は、俺にとって今までで一番好きな曲、「シリウス」。初めて聞いたとき、びっくりした。俺じゃん、めっちゃ俺じゃん、と思った。幸せが溢れるこの曲は、人と人との繋がりがどれだけ大切か教えてくれる。メロディーも優しくて温かくて包まれるような雰囲気で、俺ははやくこの曲を東京ドームで歌いたいと思った。その日のレコーディングはいつも以上にスムーズで、最高に楽しかった。
「馬場が大好きな東京ドーム、はやく行こうな。俺ももっと頑張るわ」
「おう。絶対に行く」
俺は東京ドームが大好きだ。もともと俺は同じ事務所の先輩の東京ドームでのコンサートに行って、歌手を志した。あの会場の空気感、身体がゾクッとするほど興奮する音、何色もの光。あそこが大好きだ、あそこに立ちたい。あのステージからは何が、どう映るのか。見てみたい、そう思った。だから、叶えるまでは死ねないんだ。
片桐とした約束、絶対に果たす。
「どこだ…ここか?」
蓮が教えてくれた新しい店はすごく分かりづらい場所にあった。なるほど、ここなら客は少なくなるだろう。
「あれ?カズ?」
合っているのか不安で周りをうろちょろしていると、蓮が女性のお客さんらしきひとと店から出てきた。
「お!蓮!よかったー合ってたー」
「ここが俺の店。良かったら入ってよ。ちょっと待ってて、すぐ準備する」
少し暗くて洒落た雰囲気の店内は、蓮にピッタリだった。まさに蓮の店って感じ。裏で準備している蓮を待ちながら、何を頼もうか迷っていると、さっきの女性が戻ってきた。
「蓮ごめん、スマホ忘れた…」
「これですか?はい」
「あっ、どうも…」
隣の席を見たら可愛いスマホケースが見えたから、さっと彼女に渡すと、彼女は俺の顔をじっと見てきた。
「あっ」
「え?」
「なるほど、だからカズ…」
「あ、もしかして俺の事ご存じですか?」
「はい…」
「嬉しいです。ありがとうございます」
人見知りなのか、彼女は返事に困っているようだった。それを助けるかのように蓮が戻ってくる。
「あれ、どうした?」
「スマホ忘れちゃって、取りに来た」
「そっ。またなんか呑む?」
「え、あんなに呑んだのに…?」
「でも全然酔ってないじゃん。大丈夫でしょ一杯くらい。カズも来たことだし」
仲のいいお客さんなんだなと思いながら、俺は二人の会話を聞きつつ、ひとり酒のことを考えていた。
「…二人は、お知り合いなの?」
彼女の言葉に反応し、俺は即座に思考を変換する。
「カズはね、俺の親友」
「蓮とはだいぶ長い付き合いだよね。時間が合えばちょくちょく会ってるし」
「そうなんですね」
「あ、ここ座ります?呑みましょ?」
結局、さっきスマホの置いてあった席に彼女を誘導する。
「じゃあ、一杯だけ…」
「かしこまりました」
俺が注文する前に蓮はカクテルを作り始めてしまった。
「あなたの名前、聞いてもいいですか?」
何か話しかけた方がいいのかと思って、まずシンプルな質問を投げた。
「あっ、はい。渡瀬すずかです」
「渡瀬すずかさん。素敵な名前ですね。どんな仕事されてるんですか?」
「ファッション関係の仕事を…」
俺も洋服好きだし、仲良くなれそうな、どこか波長が合うような気がした。まあ完全に俺の勘。
「キールとアイオープナーってございます」
「これは度数低いよね?」
「低いから大丈夫」
「キール、それなりに高くない?アイオープナーも。てかなんで俺にアイオープナー?」
「度数高いので酔わせようと思って」
「それで渡瀬さんにはキール?…へえ」
度数を心配する渡瀬さんに度数高めのカクテルを作って、俺にもだいぶ度数の高いアイオープナー…怪しい。というか、蓮の伝え方は昔からちっとも変わってないのか。
「蓮って、どういう基準でカクテルを選んでるの?」
「あ、それ俺も気になる。教えてよ」
俺は気付いてたけど、彼女に乗っかった。
「お客様の雰囲気。このお客様は今こんな気持ち、こんな調子だから、このカクテルにしようって、そんな感じ」
そのカクテルにはちゃんと意味があるだろ、そこを言わないのか。わざとなのか。でもカクテルに詳しくないであろう彼女は蓮の言葉に何度も頷き、感心している様子だった。鈍感だ。
「ふーん。よくわかんないけど、バーテンダーやってるとそんな風に分かってくるんだな」
「カズだってそうだろ。アイドルだって何年もやってれば慣れてくるんだろ?」
「正直いつも新しいことの連続だから、慣れはしないかな。まあ、ファンのみんなが大切なのは、蓮と変わらないよね。お客様が大切ってことと同じ。俺らは夢を売ってるから、ファンを悲しませたり、失望させたりしちゃいけないんだ。それが大前提として分かってる人しかアイドルは向いてない。その上で、この仕事は成り立つ。って、なんかズレたな」
「カズはスキャンダル一切ないもんな。ほんとすごいと思う。恋愛とかしないの?」
「いつかはするでしょ。でも、今は違うと思う。今は自分自身、ファンや仕事が第一優先で、彼女とか奥さんとか考えられない。いつかファンのみんなも大人になって、俺も大人になったとき、お互いがそろそろだなって思ったときに結婚しようかなって思ってる。ああでも、しない可能性もあるかな。このひとだっていう女のコが現れたらするかも」
何度か自分に言い聞かせるように俺は言葉を紡いだ。そう、俺はアイドルとしてファンのみんなが一番大切だ。だから、恋愛には慎重にいかないといけない。でも、どうしてこんなに熱くなってしまったのだろうか。
「意識高いなあ。まさにアイドルの鑑って感じ」
「にしても、アイオープナーねえ。面白い」
黙ってキールを呑んだ彼女は、目を細め、鼻をすすった。不覚にも、可愛らしいと思った。
「蓮、それに渡瀬さん、今日は突然ごめんね。ありがとう。また来るわ」
「あっ、はい。さようなら」
「またお越し下さい」
「またねー」
さようならと言われたのが少しさびしかったから、あえてまたねと言っておいた。帰りはなんだかいつもより気持ちが晴れていて、浮かんだ理由は二つだったけど、一つは危ないからそちらにはそっと、蓋をしておいた。
「馬場さあ、最近なんかいいことあったっしょ」
「え?なんで?」
「テンション高いし、なんかこう…順風満帆って感じ」
「俺そんな分かりやすい?」
「話しかけて!って言ってるよ。顔が」
「マジか…気をつけよ」
「で?何があった?」
一番最初に浮かんだのは、彼女だった。
「いや…なんだろ。友達と仲良くやれてるからかな」
「ふーん」
片桐はそれ以上干渉してこなかった。きっとこれ以上突き止めれば、俺のアイドル人生が終わると、察したのだろう。俺はほんとうに恵まれていると感じる。
「俺さ…明日の週刊誌に載るんだよね」
「…は?」
そう、明日の週刊誌にツーショットが載る。彼女とのものだ。ブランドショップで会ったとき、撮られてたらしい。俺としたことが、人生最大の失態だ。正直、めちゃくちゃ楽しくて、そんなこと忘れてた。蓮は俺の話をただ黙って聞いていた。
「俺…
渡瀬さんのこと好きになった
…かも、しれない」
これを言ってしまえば、もう俺が今までやってきたことは全て水の泡になるかもしれない。それでも、蓮には言わなければならないと思った。
「…そ」
「え?それだけ?は?なんか言うことないの?」
「言ったところでって感じじゃん」
「マジか、そんな感じか」
「…一応、一つ言わせてもらうけど、大丈夫か?」
「何が?」
「カズの今後も、すずかのことも、俺は心配。今までスキャンダルゼロだったカズのファンにとっては相当ショックだろうし、すずかは気を遣って今後会わないようにすると思うけど」
「…」
何も言い返せなかった。全て蓮の言う通りだった。
「恋する気持ちは、誰にも止められないし、どうしようもないことだと思う。好きになったらダメたなんて誰も言ってない。けど、今後のカズの行動で、カズの今後のアイドル人生も、すずかの人生も変わる。全部、カズの行動で決まるぞ。相当の覚悟が必要だって、そう思わないとほんとに…」
蓮はその先を言わなかった。きっとその言葉は俺の一番聞きたくない言葉だ。
「分かってる。覚悟を持って俺はここに来たし、覚悟を持って蓮にこの気持ちを伝えに来た」
「カズならそう言うと思ってたけど。あとはすずかだな。明日金曜だし、すずか来るよ」
「来るよな…うん。俺もまた来る。言おうと思う。渡瀬さんに、ちゃんと」
「すずか来たら、俺裏で休憩取るから、そのあいだにちゃんと全部言えよ」
気を遣う優しすぎる蓮に俺は甘えたかったけど、一つだけ引っかかることがあった。
「蓮は?」
「何が?」
「蓮は、渡瀬さんに言わないの?」
「何を」
蓮の目が鋭くなる。
「渡瀬さんに、本当のこと」
「…言ったら、すずかは傷つく」
「そうやってさも渡瀬さんのためのように言ってるけど、実際自分から伝えるのにビビってるだけだろ」
蓮は俺を思い切り睨んだ。俺は負けじと蓮から目を逸らさなかった。
「…俺の負け。じゃあ、カズとすずかの関係が落ち着いたら、話す。さすがにすずかを混乱させちまうかもしれないから」
「…そうだな。分かった」
蓮のためにも、渡瀬さんのためにも、そして俺自身のためにも。しっかり俺の想いを伝えよう。
◆◇◆◇◆
「こんばんは」
「すずか…いらっしゃいませ」
いつも通り、蓮は店を閉めに行く。いつもと違うのは、先客がいたことだった。
「…馬場、さん」
「渡瀬さん、こんばんは」
久しぶりに見た彼の笑顔に、また変な気持ちになる。
「こんばんは。今日も予約されたんですか?」
「ううん、昨日も来て、明日は渡瀬さんも来るだろうからまた来るねって」
「そうだったんですね」
いつも期待させるようなことを言うから、彼は確信犯だろう。
「今日は、渡瀬さんに言いたいことがあったんだ」
「言いたい、こと…?」
「うん。突然なんだけど、これを見てほしくて」
馬場さんは一冊の本を広げ、私に差し出した。
「これ……え?」
私の目の前に広がったのは、馬場和也の文字。これは有名な雑誌だけど、この書籍の名前を聞くと誰もが真っ先に思い浮かべるのは、芸能人のスキャンダルだろう。
「馬場和也、一般人女性と…熱、愛…?」
「ごめん。ほんとうにごめん」
馬場さんは、それ以上何も言わなかった。
その内容は、馬場さんが一般人女性とブランドショップで仲睦まじくアクセサリーを選び、その後CDショップに向かっていったというもの。相手は間違いなく…私。これで熱愛だなんて、と思うけど、男女二人が歩いていれば、そんなふうに見られる方が多いだろう。しかもスキャンダルゼロのアイドル、馬場和也だ。そりゃあ取り上げられてもおかしくない。
「私…ごめんなさい。私のせいです。ごめんなさい」
「俺、そのときほんとうに楽しくて、完全に気を抜いてた。俺が悪いんだ。ごめん。でも、勘違いして欲しくないことがあるんだ」
「勘違い…?」
「俺、俺…渡瀬さんのこと、
好きです。好きになりました。今までたくさん会って、色んな話してるうちに」
好き
その言葉が頭の中をぐるぐると回る。彼は馬場和也だ。アイドルだ。今までスキャンダルは一切なくて…。そんな彼に、今、好きだと言われた。
「外で会うことはきっともうできないけど、このバーではまた会いたいんだ。金曜日だけでも」
嬉しい、すごく嬉しい。でも、ダメだ。
「それは…できません」
「…どうして?」
彼の目がとても切なくて、逸らせなくなる。
「馬場さんは、たくさんのファンの方がいます。馬場さんがどれだけファンの方を想っているか私は知ってるし、歌が大好きで、洋服が大好きなことも知ってます。だからこそ、馬場さんの気持ちを知った上でこれからも会うことなんてできません」
「罪悪感?それとも自己嫌悪?」
「それは…」
否定できなかった。彼の言う通りだ。でも、私以上に彼を想っている女性なんてたくさんいる。それなのに、私が隣にいていいのか。その答えを出せるのは私なのだろうか。
「渡瀬さんはさ、俺のことどう思ってる?」
「私は、私は…」
言葉に詰まる。私にはこの気持ちが分からない。なんせ、恋愛経験は皆無だ。
「俺は待ってるよ。渡瀬さんがちゃんと自分の気持ちを伝えてくれるの、待ってる」
「馬場さん…私、恋したことないんです。今の今まで。だから、好きっていう気持ちが分からなくて。でも、馬場さんと一緒にいるとすごく楽しくて、馬場さんが笑ってくれたら嬉しくて、さよならはさびしいけどまたねは嬉しくて…こんな気持ち初めてで。これが恋なのかなって、思うんです」
「うん。そっか」
一番言いたい二文字が口に出せない。彼はその二文字を待ってくれているはずなのに。
「私は、馬場さんのこと…」
馬場さんの瞳が私を捕まえて離さない。
「すごく、すごく大切に想ってます」
「…そっか」
「だから、会えません。会いたくても、会えないんです。馬場さんが大切だから」
「それは違くね?」
「蓮…」
「カズがすずかのことを好きで、すずかもカズのことを想ってるなら付き合えばいい。ただ、堂々と外でデートできないから、毎週金曜日だけでも絶対にここで会おうって約束したらいいんだよ。なんでそこで会わないってことになるかな」
「って、蓮は言ってるけど渡瀬さんはどう思う?」
「私、ここのバー大好きなんです。蓮が作ってくれるカクテルはすごく美味しいし、話すのすごく楽しいし。でももし、ここで会ってるのがバレてまた撮られたりしたらって考えると、やっぱり会えません。今馬場さんは、週刊誌に載ったばかりだから狙われてると思います。私は馬場さんが大切だからこそ、もう傷ついてほしくないんです。だから…ごめんなさい」
「…ん。そっか。分かった。ありがとう。困らせちゃって、ごめんね」
馬場さんは席から立ちあがる。
「じゃあ俺、用済んだから。バイバイ」
「あっ、……」
私は咄嗟に彼の腕を掴もうとし、すぐその腕を引っ込めた。
「…さようなら」
ドアの音が店内に虚しく響く。
「…ッ」
「…」
蓮は黙って店の裏に行く。気を遣ってくれたんだと思う。彼はほんとうに優しい。
「…馬場、さん……ッ…」
泣くならどうして腕を掴まなかったの?
どうして自分に正直にならなかったの?
どうしてまたここで会いたいって言えなかったの?
どうして…どうして…
そんな言葉ばかり浮かんできて、私は泣いた。
泣いても泣いても涙は止まらなくて、必死に抑えても、酸素を取り込もうとする度にヒック、ヒックと声が出てしまう。
全部私が悪い。彼を意識してしまった私が悪い。彼に好きじゃないとはっきり言うことができなかった私が悪い。
恋を知らない私が悪い。
私はそれから、バーに行くことはなくなった。
◆◇◆◇◆
俺は覚悟を決めた。
彼女に全てを話す。
傷ついたっていい。
俺はスマホを手に取り、彼女にメッセージを送った。
[これが最後でいい。だから、最後に一回だけ、店に来てほしい。カズは来ないから]
彼女は素直だから、きっと来てくれる。きっと金曜日、彼女は来る。
「…こんばんは」
「いらっしゃいませ」
来てくれた、それだけで俺は十分だった。
「カンパリオレンジでございます。来てくれてありがとう。返事来なかったから少し心配した」
「ごめん。さっきまで行くか迷ってて」
「そっか」
「私、今日は話すことないんだけど、何かあったの…?」
彼女は少し遠慮気味に聞いてくる。
「うん。俺、すずかに隠してることがあるんだ。だから、全部話そうと思って」
「分かった」
大きく深呼吸して、俺はバイオレットフィズを呑んだ。
「…俺、婚約者を亡くしたんだ」
「…え?」
「俺が、華月の婚約者なんだ。」
◆◇◆◇◆
「…待って、どういうこと…?」
「そのままだけど。まあ、理解できない、よな。カズには教えてたんだけど、勇気が出なくて…ごめん」
「ほんとに…理解ができない…」
華月の婚約者って、蓮だったの…?じゃあ蓮の言ってた彼女って、華月のことだったの…?だから蓮、私が華月の名前教えてないのに知ってたの?しかも馬場さんは知ってたんだ、このこと。
「俺は聴いただけ。行動したのはすずかでしょ?華月のことだって」
「うん。って、あれ?私、華月の名前教えたっけ?」
「…いや、教えられてはないけど、ちょくちょく名前聞いてたから、きっと親友ってのは華月って人のことだなって思って。でしょ?」
「まあそうだけど…」
あのときのモヤモヤが一瞬で解決した。
それに初めてここに来た日、蓮がどうして泣きながら話を聴いてくれたのかも。
「俺は華月の婚約者だから、もう俺は一生華月を愛し続けるって決めた。でも、俺は華月を失って、全部なくした。こんな状況の俺じゃ、説得力に欠けるかもしれない。でもだからこそ、聴いて欲しいんだ。愛してるひとがいるなら、絶対に気持ちを伝えなきゃダメだ。いっぱい言葉で伝えて、いっぱい表現して、できるだけ一緒にいないとダメなんだ。いついなくなってもおかしくない。だから、お願いだからカズを傷つけて欲しくない。すずかにも傷ついて欲しくない。カズは、ずっとすずかを待ってる」
「…わざわざありがとう。カンパリオレンジ、すごく美味しいよ」
「カンパリオレンジのカクテル言葉は、初恋。すずか、恋は、辛くて切なくて苦しい。でも、楽しくて嬉しくて温かくて…最高だろ?」
「…嫌だよ」
「え?」
「私は、芸能人を好きになったの。アイドルだよ。しかも、ファンを誰よりも大切に想う、素敵なひと。そんなひとを好きになっちゃダメだよ…彼が今まで積み上げてきた信頼や、期待や、全てを私が壊しちゃうかもしれない。そんなの、嫌だ。彼が大切だからこそ、彼がどんなひとか分かったからこそ、好きになっちゃダメだった。それなのに…私…」
「それを、伝えたらいいんじゃないの?」
「できない。彼の負担を増やしたくない」
「すずか、それは逃げてるだけだぞ。はやく気づけよ。すずかは自分のためばっかだ。好きなら好きって言えばいい。それで、カズをびっくりさせてやればいい。カズのファンはきっと、カズの好きなひとなら幸せを願うはずだよ。すずかと同じように。最初は受け入れられなくても、カズの幸せを願えばみんな祝福してくれる。すずかは今、恋の仕方を間違ってる」
「…間違ってる?」
「恋は、辛いことばっかりだ。嫌なことばっかり。でも、お互いを想いあえたときにはじめて答えが見えてくる。そういうもんなんだよ。すずか、ちゃんと、カズに恋を教えてもらいな。カズはほんとにいいやつだから、すずかを幸せにしてくれる。だから、すずかもカズを幸せにしてやれよ」
「…ありがとう」
馬場さんが教えてくれた、恋する気持ち。蓮が教えてくれた、ひとを大切にするということ。私は、いつかまた馬場さんに会える日がくると信じてカンパリオレンジを呑みほした。
「カズ、店に呼ぶか?」
「ううん、大丈夫。自分で探す。それに、ここに来るのはもう最後だと思うし」
「…ん。そっか。今までありがとな」
「蓮、たくさん支えてくれてありがとう」
「おう。幸せになれよ」
「蓮もね。それじゃあ」
◆◇◆◇◆
「東京ドーム公演…?ほんとですか…?」
「決まりましたよ。ついにこのときが来ましたね。おめでとうございます!」
「ありがとうございます…!」
俺がずっと夢に見てた、東京ドーム公演。しかも二日間で三公演。信じられない。
「馬場…やったな!ついに二人で立てるな!」
「片桐…ありがとう」
「馬場が相方でよかった。俺、ほんとに歌うの大好きだわ」
「俺も」
俺も、相方が片桐でよかった。俺も、歌うのが大好きだ。
渡瀬さんに会わなくなって半年。俺は連絡先を交換しないタイプだから、そう簡単に蓮や渡瀬さんとは会えなかった。蓮はバーに行けば会えるけど、なかなか行けなかった。週刊誌に撮られてから、少し周りの目は変わってしまったけど、また元に戻ってきつつある。渡瀬さんの言う通り、会わないのが正解だったかもしれない。でも、胸の穴はぽっかり空いたままだ。その穴を埋めてくれるのは、きっと渡瀬さんとの思い出だろう、そう思った俺は東京ドーム公演決定のご褒美も兼ねて、あのブランドショップに足を向けた。
「…これいいな」
俺はなぜか、ウィメンズ物を見ていた。ほんとうに無自覚で自分でも恐怖を覚えたぐらいだ。どうしてウィメンズなんて…
「いらっしゃいませー」
店員さんの声とともに俺の視界に入ってきたのは、愛おしいあの姿だった。
「…ッ」
驚いた顔も好きだと思った。綺麗だ。前に会ったのは…いつだろう。すごく、すごく綺麗になっている。
「…お久しぶりです。渡瀬さん」
「…お久しぶりです」
渡瀬さんはすぐ俺から離れようとした。でも俺は、離れようとする彼女の腕を掴んだ。
「待って、」
「…」
「少し、お話しませんか?」
前はタメ口でも恥ずかしくなかったのに、今は敬語すら恥ずかしい。
「…分かりました。けど、人目につきにくい場所でお願いします」
彼女の言いたいことは分かっていた。週刊誌に撮られないようにと、気を遣ってくれているんだろう。俺は事前に調べておいた穴場のカフェに渡瀬さんを連れて行った。
「俺、東京ドームでライブ決まったんです。誰よりも先に渡瀬さんに伝えたくて」
「え!そうなんですか!?おめでとうございます!」
彼女は一瞬で笑顔になった。ずっと見たかった、渡瀬さんの笑顔。
「ありがとう。渡瀬さんに笑顔になってもらえて、すごく嬉しいよ」
「馬場さん、ずっと言ってたじゃないですか。絶対、東京ドームのあのステージに立つ、って」
「覚えててくれたんだ…」
「忘れるわけないです。絶対、忘れません」
彼女の魔法にかけられたかのように、俺も笑顔になった。タメ口だって、自然に出てきた。
俺は少し、期待していた。今また気持ちを伝えたら、渡瀬さんも…って。だから、伝えようと決めた。
「…渡瀬さん、これから予定ある?」
「いいえ。特には」
「俺、誰も知らない景色の綺麗な場所、知ってるんだ。よかったら一緒に行かない?」
「…はい。分かりました」
よかった。これで俺は自分の気持ちをもう一度だけ伝えられる。そしてもう一度、彼女の気持ちを確かめたい。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
二人で店を出ると、若い女性が走ってきて。
◆◇◆◇◆
「…ッ!?!?!?!」
「え…?」
突然女性が走ってきて、馬場さんめがけて突っ込んできた。
「ッゴホッ…」
「馬場、さん…!!?!馬場さん!」
馬場さんを見ると、胸元が真っ赤に染まっている。
「馬場さん…!馬場さん!!」
私はどうしたらいいか分からず、震えた手で救急車を呼び、蓮にも連絡をした。
「馬場さん、今助けが来ますから…!だから、だから…!」
「すずかちゃん…」
「ッ、」
「好き、」
「…馬場さん、私も…」
好き、その二文字を伝える前に
彼は目を閉じた。
「…好きです。馬場さん…好きです…」
救急車が到着したとき、既に馬場さんは亡くなっていた。
また、私は大切なひとを失った。
クラクラする。
なんだか眠たい。
全部、モノクロに見える。
いや、これがいつも私が生きてきた世界だった。
華月がいたからこの世界は鮮やかだった。でも、華月が亡くなってモノクロが戻ってきた。それにまた色を付けてくれたのが、馬場さんだった。そして馬場さんがいなくなった今、またこの世界が戻ってきた。
これがいつもの世界じゃないか。これが、当たり前の世界だ。
目の前には、私の初恋のひとがいる。
「…馬場さん?」
返事はない。分かっている。来るわけがない。それでも。
「私の言葉、聞こえてましたか?ちゃんと馬場さんに、届きましたか?
私、馬場さんに恋を教えてもらいました。初めてひとを好きになりました。もっと、一緒にいたかったです。馬場さん…好きです。
…ねぇ、馬場さん?東京ドーム、立つんでしょ?ねぇ、私、馬場さんがあのステージに立って歌ってる姿、見たいです。馬場さんが歌うシリウス、聴きたいです。あのとき買ってもらった服と、ネックレスをつけて観に行きたいです。どうして?どうしてですか?どうして勝手にいくんですか?ねえ、ねえ…」
馬場さんの顔は、白くて、冷たくて、現実を突きつけてくる。
馬場さんを殺した犯人は自首したらしい。馬場さんの熱狂的なファンだったから、週刊誌に載ったのが相当ショックだったのだろう。
馬場さんはもう、この世にいない。
神様はいないのか、それとも意地悪な神様なのか。
不平等すぎませんか?どうして?
華月は車に轢かれ、馬場さんは刺された。私の大切なひとが、突然赤の他人に奪われる。馬場さんの場合はファンだ。どうしてファンがアイドルを殺せるの?そんなのおかしいよ。
華月も馬場さんも、もういない。
「…守れなくて、ごめんなさい…」
「カズッ!」
「…蓮」
相当急いできたのだろう。すごい息切れだ。
「なんで…なんですずか置いていってんだよ…ふざけんなよ…!!」
蓮のこんな顔は、初めて見た。顔を真っ赤に染めて、目からは一筋の涙が流れていた。
「…ざけんな…!」
私は馬鹿だ。大馬鹿者だ。蓮が教えてくれたばかりだったのに。馬場さんは最期の最期まで私に気持ちを伝えてくれたのに。私は何をしていたんだ。何から逃げていたんだ。胸焼けするような後悔に、馬場さんの代わりになりたいと何度も願った。
◆◇◆◇◆
馬場が、死んだ。
隣で一緒に歌ってた馬場が。東京ドーム公演決定を一緒に喜んだ馬場が。
頭が真っ白になった。
病院に駆けつけたときにはすでに馬場は死んでいた。ファンに殺されたと聞いたときは、怒りなんか通り越して力が抜けてしまった。
馬場がいないこの世界で、俺はどう生きていこう。
俺はアイドル引退を決めた。馬場は怒るかもしれないけど、俺にとっては二人で一つだった。だから今俺に歌う権利などない。馬場がいなければ俺は成り立たない。
引退発表をしてからは、馬場が好きだった場所を訪れていた。馬場はよく話をしてくれたから、よく覚えている。特に、ブランドショップと、このバー。
「いらっしゃいませ。」
「…こんばんは。あ、…っと、…渡瀬さん?」
今、二番目に会いたかったひとだ。
「馬場、お前いいことあったろ」
「…は?」
「いや顔に書いてあるわ。俺今、幸せです!って」
「マジ?やばいな気をつけよ」
「…で?何があったんだよ」
「実はさ、いつも行ってるバーあるじゃん?親友がいるとこの」
「あー、なんだっけ、蓮だっけ?」
「そう、そこの店の常連さんと仲良くなった」
「へー、で?」
「え?それだけ」
「は?それだけ?その後の話は?仲良くなっただけでそんなエベレスト登頂したみたいな顔してんの?」
「俺そんな嬉しそう?」
「うん、引くぐらい幸せそう」
「…やっぱりそうなのかな」
「ん?」
「俺さあ、…好きなひと、できたかも」
「え、常連さんのこと?」
「目がぱっちり二重で、綺麗な黒髪で、口が小さめで…」
「え?」
「渡瀬さん、ですよね?俺、片桐っていいます」
二重で、黒髪で、控えめな口元。彼女だ。
「!…片桐、祐輔さん?」
「そうです」
「…こんばんは」
「こんばんは。まさか会えるなんて。俺、あなたにお話しないといけないことがたくさんあるんです」
「…私もあります」
彼女にも話したいことがあったのか。それは、俺へ向けてなのか、アイツに向けてなのか。
「馬場、すっげー不器用だけど、一途なんですよね。しかも分かりやすいから、あなたの話をよくしていました。『渡瀬さん、渡瀬さん』って。見た目の特徴とか、性格とか、とにかく全部俺に話してくれたんですよ」
馬場は初めこそ話すことを躊躇していたし、俺からも聞かないようにしていたのに、いつのまにか俺に何でも話してくれていた。
「片桐!こないだ俺の大好きなブランドのショップで渡瀬さんに会った!」
それはそれは瞳をおもちゃを見る幼稚園児のように輝かせて。
「おー、よかったじゃん、なんか話したの?」
「いやもう話したとかそんなレベルじゃなくて!全身コーデプレゼントしちゃった」
「マジ?めちゃくちゃ積極的じゃん、よかったな」
「渡瀬さん、すげー控えめで、優しいんだよ。謙虚だからこんな素敵な服似合うのかって、めちゃくちゃ似合うんだけどね」
「その後はなんかあったの?」
「特に。でも、嬉しそうな顔してくれただけで幸せだったし、今度お礼させてくださいだって!だから、また次があるんだって思ったらもう俺…」
お前は中二か。思春期か。ってくらいニヤニヤしてた馬場。アイツにも、彼女にも、もうまた次なんて、ないんだ。
「渡瀬さん、馬場にバングルプレゼントされましたよね?アイツ、毎日毎日それ見ては幸せそうな顔するんです。だから、ああ、いい恋してるんだなって思ってました。週刊誌に載る前までは」
「片桐…ごめん」
「…これのこと?」
楽屋に来たかと思えばあからさまに歪んだ顔で謝る馬場。俺は既に全文読んでたから、その雑誌を雑に馬場の方に投げた。雑誌の記者への恨みも込めて。
「全部、読んだ?」
「まあ。でも異性との友情が成立しないなんてヤツ今どき少ないだろ。大丈夫なんじゃないの?彼女には?」
「伝えた。最悪の状況で、好きって言っちゃった」
「…そ」
「片桐…俺、自惚れてた。渡瀬さんも俺のこと、って思ってたけど、好きって言ってくれなかった。すごく大切に思ってます、ってそれだけ」
いや、それは好きって言葉の言い換えだろ…好きだろそれは…。でも、腕につけたバングルを愛おしそうに、しかし悲しそうに見つめるその複雑な色をした瞳を見て、そんなこと言えなかった。言ってしまえばよかった。
「馬場、俺らは今、大事なとこに立ってる。いい方向にも転がれるチャンスはあるし、悪い方向に転がる場合もある。いまは後者に近づいてる。今からでも取り戻せる。東京ドーム、立つんだろ?二人で行こうぜ」
俺は馬場から恋愛を奪った。あの時背中を押せば、今頃運命は変わっていたのだろうか。
「私、馬場さんが週刊誌に撮られてから、怖くなってしまって。このままじゃ馬場さんの仕事に影響しちゃうかもしれない。だったら、もういっそのこと会うのはやめにしようって思ったんです。でも、会えなくなって日が経つ度に、想いは無くなるどころか大きくなってしまって。だからあの日、奇跡的に会えたあの日、ちゃんと好きって伝えようって決めたんです。それなのに…伝える前に馬場さんは…好きって二文字が耳に届いてたか、分かりません」
馬場の言う通り、めちゃくちゃ優しい子だった。馬場を大切に、大切に思うが故にした選択、選んだ言葉、きっと馬場なら全部受け止めてくれるんだろう、そう思った。
「…届いてると思うなあ、俺は」
「え?」
「馬場、めちゃくちゃ耳いいんですよ。俺が飴を舐めるとき、コロって口の中で転がしただけで、お前今飴舐めてるだろ、って」
「片桐、飴持ってる?」
「ん?持ってるけど」
「俺にもちょーだい、今舐めてるだろ」
「なんで分かった?」
「コロっていった」
「お前気持ち悪…マジで?耳よすぎんだろ」
「鍛えてますから、耳と身体は」
「よくわかんねーけど、ほらよ」
「やったーリンゴじゃん、サンキュー!」
「別に噛んだわけじゃなくて、転がしただけですよ?すごくないですか?」
「ふふ、そうですね」
「だから、聞こえてます。一番最後に聞いた言葉が愛するひとの好きって言葉ですよ?アイツ、最高に幸せじゃないですか」
「…そうですね。そう思ったら、少し元気になれます」
この笑顔が、アイツを虜にしたのか。分からなくもないな、と思った。
彼女の笑顔を見た瞬間、アイツの満面の笑みが蘇った気がした。
◆◇◆◇◆
もういっそのこと、あなたと私、出会わなければよかったのでしょうか。彼女の夢を見ることはパタリとなくなったのに、次はあなたの夢ばかり見てしまいます。
「見て見て○○さん、俺ここにホクロあるの。片桐が教えてくれたんだ。それまで知らなかった。教えたの、○○さんが初めて」
「○○さん、俺、○○さんのこと絶対東京ドームに連れていくからね」
朝、鬱陶しいくらい明るい光で目が覚めれば、涙が出てるんです。もう慣れましたけどね。それなのに、あなたのいない世界には全く光は差してくれない。せめて忘れ方を教えてからいって欲しかったです。記憶に刻めるだけ刻ませておいて、どうしてあんなにも呆気なくいなくなってしまったんですか?
恋って、こんなに辛いものなんですね。
でも、楽しかった。嬉しかった。幸せだった。こんな気持ち、初めてでした。最初で最後の恋で、あなたは私の初恋のひとです。どうか、夢の中であなたがいつも言っている○○さんが、私でありますように。私は今、まどろみの中にいます。大切なあなたには、会えるうちに会っておかないといけませんよね。夢で会いに行きます。
じゃあ、馬場さん。また、金曜日にあのバーで。




