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甕星の民  作者: 憂羽
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第九話 献身的な翼(4)

「……どうやら樹理が上手くやってくれたようだね」


 手にした蠱神霊符に息を吹きかけ『(しき)』の神籬(ひもろぎ)となる道端の樹木に貼りつけながら、忌は園内に広がる結界の気配を感じていた。

 点在する穴をつなぎ合わせて作られた人工の霊脈は、内接する領域を一つの方向へと導いている。心の隙間から巧みに侵入を果たそうとするその感覚は、生理的な嫌悪を伴った違和感、と形容するのが一番的を射ているかもしれない。


 領域内に充満する樹理の意志は、この場所を訪れる部外者の潜在意識に働きかけその存在を拒絶する。結界の圧力に気づけない招かれざる客人は、直に居た堪らなくなってこの領域から離脱することになるだろう。気分が優れない、用事を思い出した、嫌な予感がする、などありもしない根拠を捏造し、あたかもそれが自分の思惑であるかのように。

 勘違いも甚だしいが、人が環境に順応し続ける限りは結界の霊威から逃れることはできない。自分を守るための防衛本能はいつも真理に至る指標を塗り替えてしまう。それだけに、風になびくことに疑問を抱かぬ青人草にとって効果は絶大なのだ。


「相も変わらず凄まじい霊威よの。これではいかに苦行を重ねた覚者とて、そう簡単に侵入しては来れまい」


「ふふ、本当に。まるで、彼女の深い信心を映し出しているかのようだ」


 残鬼坊の言葉にうなずきながら、忌はまた一枚、黒塗りの呪符を樹の幹に貼付した。

 禍々しい障気を放ちながら樹皮と同化するその呪符は、忌が式と呼ばれる精霊を喚起するときに用いる武神具だ。

 符の表面に描かれた特殊な図形によって集められた大気中の霊気は、神代の文字が示す法則に従って練り固められ、粗雑な輪郭を浮かび上がらせると共に創造主の命令を実現するための待機状態に入る。

 この全能性を秘めた気塊が忌の使役する人工精霊の原型であり、彼の知謀を具現化する有用な方便だ。


 忌が長年にわたり今の地位を維持することができている最たる理由は、彼がこの呪術に長けていたからに他ならない。

 そもそも《黒犬(くろいぬ)》という彼の通り名も元をたどればこの能力を象徴しているのだから、式という存在が彼にとってどれほど重要な意味を持っているかは想像に難くないだろう。


「忌殿、随分と念を入れておるようだが、あまり数を放つとお主の体が持たぬぞ。今宵、科戸の風を呼び込めるのはお主の他におらぬのだ。ここは一つ、樹理殿を信じて力を温存しておくのがよろしかろう」


「ふふ、樹理のことは信頼しているよ。ただ、備えあれば憂いなしと言うしね。こうして最悪の状況を想定しておくのも部隊長としての務めだよ」


 式を使役するためには特別な作法によって精製された呪符以外に、それを用いる人間の精力が必要となる。

 霊的な力の源となるその生気は人間のあらゆる活動に影響を与える万能の妙薬であり、ほんの少しの過失が命の危機につながる工作員は、嗜みとして常にそれを保持し無意味にすり減らす愚を避けなければならない。

 特に任務の最終目的である門の召喚儀式には並外れた霊力が必要なため、濫用を控え少しでも温存しておけという残鬼坊の進言は正論だ。

 だが忌とて何の考えもなしに行動しているわけではない。確実に任務を遂行するための戦略の一部として、それ相応の見当をつけて呪符を配しているのだ


「……僕は今まで何度も科戸ノ祓を経験してきた。皆の尽力もあってそれなりの成果を上げてはいるけれど、容易い仕事と思ったことは一度も無かったよ」


 言い聞かせるわけでもなくただ二人が共有している何かを思い出させるかのような口振りで残鬼坊に微笑みかけた忌は、再び手元の呪符に視線を落とし小声で(しゅ)を読んだ。次いで、その言霊を乗せた息を符の表面に吹きかける。


 一連の作法によって与えられたのは、目的を定めた彼の意志。攻撃性を象徴する“(いぬ)”の性質だ。

 最終的な輪郭を与えられた精霊にとって創造主の命令は絶対であり、その意をなぞることだけが全てだ。万一の備えとして戌の形を許された式の符は周囲に近づく生命の鼓動に反応し、その動きを封じるために全力を尽くすだろう。


「僕たちは確実に任務を遂行しなければならない。だから保険は必要だよ。侵入者が訪れないという保証はどこにも無いのだから」


 つまりはトラップだ。聖域への侵入を試みる悪意を拒むための。

 そして罠を仕掛けるからには、その対象となる者が存在しなければならない。幾重にも練られた策略を潜り抜け、選ばれし甕星の工作員と互角に渡り合えるだけの能力を有する敵が――


「……来るよ、彼女たちは。樹理の結界もその存在を認識している者には効果が薄いからね。この式も決して無駄にはならないはずだよ」


 断定に近い予測を口にした忌は、立場上敵となる純粋ゆえに罪深い者たちの姿を思い出していた。


 ――神威。

 逃れられぬ縁によって結びつけられた宿敵の名だ。


 正義という虚語を真理であるかのように錯覚し個人主義の利を信じて疑わない為政者の走狗は、今まで幾度となく甕星の民の前に立ちふさがり、その都度不毛な争いを繰り返してきた。

 平穏に囚われ、大衆の不満の捌け口でしかない世論を真実とすり替えてしまうその姿勢こそが世界を破滅へ導いているというのに、それを認めずあらゆる真実から目を逸らすことを推奨している。どこまでも浅はかで、愚かな連中だ。


 破戒の僧や神官、先天的な異能を扱いきれず権力者の支配下に置かれた者、葛藤の中で力の使い道を見誤った者たち。多種多様な能力者を戦闘員として抱える神敵の組織は本来ならば烏合の衆であり恐れるに足りない存在だが、同時に、支配層が意図的に投入した正義という曖昧な概念を信奉する盲信の徒でもあるため、その結束力は侮れないレベルに達している。

 実際、度重なる争いの中で忌も何度か苦汁を嘗めさせられた経験があり、連中が除々に力をつけてきているのは紛れもない事実なのだ。

 連中との戦いを前にして油断は死へと直結する。部隊長である忌が念入りに策を練っているのは、そのことを熟知しているからだ。


「ふむ、やはり来るか」


「招かざる客だけどね。今までがそうであったようにきっと来るはずだよ。……あの《復讐者》の少年も、ね」


 短い言葉の裏に隠された残鬼坊の本心を汲み上げた忌は、彼が望んでいる通りの解答を付け加えた。

 神威に所属している《復讐者》の通り名を持つ少年。残鬼坊が、科戸ノ祓によって家族を失ったその少年剣士との戦いを切望しているということは、事あるごとに活動を共にしてきた忌にとっては自明となっている。

 もっとも、残鬼坊もそれを隠そうとはしていない。今回彼が任務に参加したのも、半分以上はそれを期待してのことだろう。

 残鬼坊は腰に差した打太刀の鍔に手を添えて、嬉々とした表情を浮かべてみせた。


「えっと、あのー……」


 言葉少なに意志の疎通を行う二人のやり取りをじっと見守っていたナミが、申し訳なさそうに口を開いた。


「……あの、来る、というのはもしかしてお友だちでも来られるんでしょうか? 忌のおにいさんも残鬼坊のおじさんも、とても楽しそうですけど……」


「楽しそう? 僕たちがかい?」


「はい。とぉーっても楽しそうです」


 両手を大きく広げて楽しさの分量を表現しようとするナミの仕草が滑稽だったのか、忌は笑いを堪えきれずに顔をほころばせる。


「ふふ、だってさ、残鬼坊。いけないねぇ、祓を目前にしてこんな調子では。もう少し真剣にならないと」


「う、うむ、確かに。忌殿の言われる通りよな。俺としたことが失態であった」


 残鬼坊は軽く咳払いをして表情を引き締める。失いそうになった威厳を保とうとしているのか指先で顎をさすりながらしきりにナミの様子を伺っている姿が妙に可笑しかったが、それは指摘しないでおいた。


「ふふ、ナミは今日が初めての任務だから知らないだろうけど、これからここを訪れるのは友人などではなく、僕たち甕星の民と理想を異にする組織の戦闘員……敵だよ」


「わぁ! そうだったんですか! お二人があまりにも楽しそうにされていたのですからてっきり……す、すいませんー!」


 予想外の事実を知らされたナミは、先ほどまでの脳天気な様子からは一転し困惑の表情を浮かべている。

 本当に素直な子だ、と忌は思った。

 驚きを全身で表現する大げさな仕草や周囲を憚らずに感情をあらわにするところなど、端から見ている分には本当に人間の子供そのものだ。事情を知らなければ、まさか彼女が人間の精液と動物の腑からなる汚物のような溶液より産まれ落ちた人工生命であるなどとは露にも思わないだろう。


 いや、仮に事情を知っていたとしても、医学という不完全な学問に絶対的な価値を置いて久しい民衆に、生命の理を探求し精神の昇華をも内包していた古代化学の叡智が理解できるとも思えないが。

 いずれにしろ蒸留瓶の中にその原型を留める以前から創造主の傀儡となることを決定づけられていたナミに、今更普通の女の子としての生活を強いることなどできようはずもない。

 だからこそ、我々が責任を持って導いてあげなければならない、と忌は思うのだ。かつての同志が犯した過ちを償うためにも。彼女が自身の存在を疑問に思うことがないように居場所を与え続けることが、哀れな出生によって欠損した彼女の魂を救うことにつながるのだから。


「……ナミ、祭文を読み上げている間、僕は完全に無防備になる。だからもし敵が現れたときは、ナミの協力が絶対に必要なんだ」


「わたしの協力……ですか?」


「ああ、そうだよ。ナミが頑張ってくれなければ、僕は死んでしまうかもしれないからね」


「え!? わ、わわぁ! そ、そんなのダメですよ! 忌のおにいさんが死んでしまうなんて……わたし、がんばります! がんばりますぅーっ!!」


 突然重大な責任を投げかけられたナミはおろおろと混乱を隠せない様子だったが、しかしその瞳には見紛うことのない熱い輝きが宿っていた。

 それは忌たち年月を重ねた者が失ってしまった未熟ゆえの実直さだ。

 胸の前で小さくガッツポーズを作っているナミは、自分の決心を訴えかけるように忌の顔を見つめている。


「……頼んだよ、ナミ」


 忌はそれ以上言葉を付け加えることもせず、ナミの頭をポンと叩いてやることで自分の意志を伝えた。

 ナミは少し照れたようにうつむいて、しばらくの後、ニッコリと満面の笑みを返す。

 そんな彼女の仕草が自分の正しさを証明しているように思えて忌は珍しく自己を否定せずに済んだが、それも結局は彼が彼の心奥にある後ろめたさを退けるために作り出した偽りの感情だ。容姿も内面も人間の子供と相違ないこの少女を戦場に駆り出したばかりか、大義名分を押しつけて危険の中へ飛び込ませようとしている自分自身の罪科については触れたくはないのだ。


 ナミが不死の存在であるということを差し引いても、その事実に気づけなかった原因は、未だ甘えを捨てきれない忌の脆弱さにあったと言わざるを得ない。

 けれどそんな嘘でもつかなければ彼はきっとこれ以上進むことはできなかったはずだ。本人は認めたがらないだろうが、忌とて自己を正当化することに慣れ過ぎてしまった単なる人に過ぎないのだから。

 善悪を問わず人が何かを成し遂げようとするとき、決して気づいてはならないこともある。そんな哀しい現実を象徴しているのが今の彼だった。


「……それじゃ、行こうか。人々に神の言葉を伝え、穢れで覆われたその本性を思い知らせてあげよう。それが僕たちの正しさを証明することにもつながるのだから」


 押さえきれない昂揚を胸に秘め、忌は園内の中心部へと足を向ける。

 道すがら最後の呪符を配した忌の横顔には傲慢から来る他者への嘲りが確かに浮かんでいたが、残鬼坊もナミもその過ちに気づくことはできない。

 なぜならそれは彼が作り出した鏡の性質を持つ幻影であり、彼自身が厳かに処するべき夢の終着点でもあるからだ。

樹里の結界は、いわゆる「人払い」です。


忌が使う「式」は式神ですが、霊符が木の霊気を吸い上げ、その力により姿を形作るという設定です。

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