第八話 献身的な翼(3)
西の空へ沈み行く夕陽を見つめている樹理の手のひらには、結界の触媒となる霊石―八処女―が握られている。光にかざすと萱草色を発するその勾玉型は八つで一組となる霊石で、各々の石を霊的に結びつける線分がある図形を描いたときに限り特別な能力を発揮する。特別な能力とはつまり、有限直線で囲まれた図形内を聖別された領域として隔てるための力であり、それこそが樹理の最も得意とする隔離結界の正体だ。
樹理は方位術の知識を駆使してようやく割り出した常緑樹の根本にしゃがみ込むと、最後の一点となる八つ目の石を地面に置いた。生気が凝結する『穴』の上に正しく配された石は、大地を流れる霊脈から無尽蔵の活力を吸い上げて除々に力を増していく。石の中枢に蓄えられるエネルギーは大自然を育む顕界の秩序と同根であり、もしそれを識妙の瞳で観たならば、合一した陰陽が発する見事なまでの清浄を認めることができるだろう。
樹理は石の錬成を視界の片隅に収めたまま立ち上がると、側の大樹を背もたれにして大きく息を吐いた。
朝から休むこと無く園内を走り回っていたせいでさすがに疲労が溜まっていたが、ようやく儀式の目処がついたためか、その横顔からは安堵の色が窺える。
後は公園の各所に配してきた七つの石と同様に、大地の神気が定着するのを待って祝詞を奏上すれば儀式は完了だ。
結界の完成を前にして、樹理は自らの心中に喜びにも似た充実感が湧き上がるのを感じていた。
結界の効力によって領域から人の気配が無くなれば、それだけ任務の遂行が容易になる。矮小な存在である自分が甕星の民の一員として崇高なる責務を果たしたことになる。
何よりも――
愛して止まないあの人の力になれることがこの上なく嬉しかった。
目を瞑り両の手のひらを胸に宛っていると、心地良い鼓動に心を奪われそうになる。それは取りも直さず樹理が長年抱き続けてきた一途の現れだ。
慕う相手への変わらぬ想いを実感しているだけで、少女はこれほどまでの高揚感を得ることができる。例えその中に幾つもの勘違いが含まれていたとしても。理不尽な哀しみが降り積もるだけの日々にほんの僅かでも優しさの燈を灯せるのならば、自分を傷つける小さな嘘なんていくらでも受け入れてみせる、とすら思えるのだ。
樹理は胸の前に置いた両の手のひらを向かい合わせると、まるで祈りを捧げるかのようにぎゅっと握りしめる。その祈りが果たして何に対するものなのかは彼女自身にも分からない。ただ、そうすることで救われるような気がした。救われようと足掻く自分自身に生への執着を感じたかったのかもしれない。
ほんの数秒の後ゆっくりと目を開いた樹理は、雑念を振り払うかのように大きく息を吐いた。そして、儀式を再開するため霊石の方へ視線を移そうとしたとき、ふと誰かの視線を感じる。
顔を上げて周囲を見回すと、少し離れた場所からこちらの様子を伺っている若い男女の姿が目に入った。時間が時間だけに人と会う可能性は低いだろうと油断していたが、観光客がまだ残っていたようだ。
肩を並べて歩いていたそのカップルは、短い逡巡の後、樹理に向かって嘲るような笑みを浴びせかける。その表情に悪意のようなものを感じ取った樹理は、感情の起伏が起こるよりも早く反射的に目を逸らしてしまった。
こんな時間に、こんな場所で、たった一人で恋愛の陶酔境にひたり、その上祈りを捧げるような格好で道端の木にもたれかかっている。冷静になって考えてみると、あまりにも無様な嘲笑に値する姿だ。
初めて出会う男女に引け目を感じ耳まで真っ赤にしている樹理は、地面を見つめたまま、火照りの具合を確認するため両の手のひらを頬に当てる。
だが、次に樹理が顔を上げたときにはもうカップルの姿は消えていた。他愛のないおしゃべりを再開した二つの背中は、樹理の存在など忘れてしまったかのように自分たちの世界へ帰ってしまった。
「…………はぁ」
小さくため息を吐いて樹理はその場にへたり込む。膝の震えはどうにか収まっていたが、それと入れ違うように一抹の不安が押し寄せてくる。
外界における自己の存在証明と透過性に対する疑問。胸の奥がちくりと痛んだ。
秘密裏の活動を余儀なくされる工作員にとって存在の希薄さはむしろ誉れだ。才能と言っても良い。
他人の記憶に残りにくいというその後天的な資質は、幾度となく彼女を救い、傷つけてきた。樹理はいつの頃からか、自分に向けられる無関心の視線を恐れるようになっていた。
――誰もわたしを見ていない。
やっぱりわたしは世界から忘れられた存在なんだ、と思った。
それはあの日、樹理自身が望んだことでもあった。何の前触れもなく訪れた理不尽な暴力。狂ってしまいそうな恐怖と嫌悪の中で、汚れてしまった自分をこの世界から消してしまいたかった。
なのに、今は――
「……きっと、あなたのせいです、忌様……」
否定に否定を重ねる不毛な拒絶の狭間で、あの人はわたしを必要だと言ってくれた。あたたかいベッドの中で、冷え切ったわたしの体をそっと抱きしめてくれた。泣いてばかりいたダメなわたしに、生きるための指針を与えてくれた。
言葉では言い表せないくらい、とてもとても大切なひと。
頭の中に忌の姿を思い浮かべるだけで樹理の白い肌は熱を帯び、澄んだ心は波紋のように揺れ動いてしまうのだ。
人間は生きている限り孤独という名の抑制装置を保有し続けなければならない。誰もがその耐え難い苦痛の中から人間が人間であるための機微を学ぶわけだが、他人の温もりに触れ錯覚を享受した瞬間から際限のない欲望の拡散が始まる。その咎は心のあらゆる領域を侵食し、偽りの精神的昂揚感を隠れ蓑にしながら人を脆くしていく。
けれど樹理はその脆弱性を強固なる意志へと昇華する術を知っていた。
今感じている喜びも悲しみも、切なさも寂しさも――
「……わたしの全てを、あなたに捧げます」
献身の極みによって神性を付与されたその祈りは、どんな呪文よりも樹理を強くする。それゆえに、忌のためだと思えばどんな男に抱かれても平気だし、忌が死ねと言えば迷うことなく命を投げ捨てるだろう。迷いのない盲目的な恍惚の内に。
そんな樹理を責めることなど誰にもできはしない。彼女が生み出した咎は彼女が背負うべき業ではあるが彼女の罪ではなく、顕界の生けとし生けるもの全てを統べる清らかな摂理そのものだから。
樹理は心の中に浸透していく安寧を維持しながらゆっくりと立ち上がる。膝頭に付着した土を払い乱れた髪型を整えていると、後方に何かが動くような気配を感じた。
振り返った樹理の視界に飛び込んできたのは、寄り添うように並ぶ二頭の鹿だった。親子だろうか、それとも夫婦だろうか。先ほど見たカップルと同様に、互いを認め合う恋仲の二匹なのかもしれない。
強ばった顔の力を弛め目の前のカップルに微笑みかけた樹理は、ぎこちない所作で手を振って彼らを祝福する。自分でも哀しくなるくらい不器用な笑顔だったので、逃げてしまうかもしれないな、と思った。
数秒の後、思い描いた心象は現実化し樹理に背を向けた二匹の鹿は木々の中へ走り去ってしまう。やっぱり、というすっかり慣れっこになってしまった言葉が口を吐いて出て、熱い衝動が胸の奥から込み上げて来たけれど、今度は大地を踏みしめたまましっかりと堪えることができた。
だって、今はその必要がないから。悲しむ必要なんてないから。
今あの人が望んでいるのは、不安定な世界が生み出す気紛れのような啓示に悩むわたしではなく、忠実に、失敗することなく任務を遂行する有能な部下なのだ。いや、部下ですらなくてもいい。人形でもいい。
だから。
だからきっと――
わたしは悲しんではいけない。悩んではいけない。
わたしはただ、自分の利益を望むようなつまらない自我を投げ捨てて、愛するあの人が喜んでくれることだけを願っていればいい。
厳粛なる一途によってすり替えられた見えない契りは少女の瞳を希望の色に染め上げて、無上の精神高揚と共に儀式の礎となる。
樹理は地面に配された八処女に手のひらをかざして霊力が定着したのを確認すると、体内に澱む毒素の排斥をイメージしながら大きく息を吐いた。そのまま何度か吐納を繰り返していると徐々に意識の密度が増していき、目に映る全ての景色が色鮮やかになっていく。
ゆっくりと目を瞑り更なる意識の集約を求めた樹理は、胸の前で両掌を絡み合わせて手印を組む。合わせた人差し指を天に掲げる基本的な印を皮切りに一連の流れで数種の印を切り結ぶと、周囲を流れる空気の流れさえ把握できる程に神経が研ぎ澄まされていくのが感じられる。
風になびく青人草から、星神に仕える清浄の巫へ。
しばしの沈黙の後、顕界の理法をほんの少しだけ歪めることを許された樹理の口から、前触れもなくゆるやかな祝詞が紡ぎ出された。
「……常も仕え奉る天津甕星大神の御殿に掛けまくも畏き壱岐経建神、久狭分神、石堅毘日神、夜之槌矛神等を招ぎ奉りませ奉りて、畏み畏みも白さく……」
為政者の策謀によって御名を奪われた古史古伝のまつろわぬ神々を讃え上げ、神法行使の誓文とする。これにより公園内の各所に配置した霊石の封印は解除され、秘められた神伝の力に方向と目的が与えられる。
「……此く依奉りき国中に成り出む天の益人等が過犯しけむ、種々の罪事を祓給い清給う科戸の風吹放つを祈奉らうは心静けし蒼生……」
唱え上げられる大和言葉は神職が奏上するそれとは異なり、抑揚を押さえた淡泊とも思える語調で紡がれている。よって些か荘厳さに欠けるという点は否めないが、その言霊は樹理の揺るぎない信念を多分に含んでいるため、形骸化により本質を無くしつつある作法としての祝詞などとは比較にならない程の霊験を秘めている。
「……掛けまくも畏き吾が大神、此の状を平らけく安らけく聞こし召して、速に夜刀の槌矛を降し賜いて神験有らしめ給えと畏み畏みも白す……」
古の歌集に記された『言霊の幸う国』という一節からも分かるように、言葉の響きそのものが力を持っているという概念は逐語的に真実だ。
しかしそれ以上に重要なことは、自らの内にある神性を信じること。至高の信心により導かれた気高さは、全ての存在を育む糧となる。言霊の霊威を左右するのは人の強い意志に他ならないのだから。
祈念の言霊を紡ぎ終えた樹理は、脳裏に固定した八つの景色それぞれに、力を開放する霊石が神々しく光輝く様をイメージした。鳥居脇の収束点に配しておいた第一の石から始まり、公園内に散らばる霊的な穴を順に経由して、樹理の足下に置かれた八つ目の石へと至る。
その後、視点を空高くへと飛翔させ航空写真のように公園の全景を見下ろしてみると、木々と寺社に彩られた神域を囲むように、石同士を結ぶ線が見事な八角形を描いているのが確認できた。
樹理は術の完成を促すべく、細く息を吐き出しながら意識を絞り込んでいく。
心象と現実の焦点を重ね合わせる作業を繰り返していると、次第に精神の働きが物理法則に干渉を始め、一つの方向へ集約する意識の密度は飽和状態となる。
それを契機に、樹理は胸の前で二度の柏手を打った。
暗がりの園内に澄んだ音が響き渡り、全ての現象が一点に凝縮されたような感覚を覚える。同時に急激な体温の上昇と雷に打たれたような激痛が全身を襲い、ついには――
樹理が住まう世界から、音という概念が消え去ってしまう。
「………………」
脱力した手足を支えきれず地面にしゃがみ込んだ樹理は、真っ白な視界の中で、失った何かが満たされていくような充足感に身を震わせていた。
肉体の疼きを伴うそれは性的な恍惚に似ていたが、その事実に気づけないでいる樹理の体はただ自然のままに事後の快楽を受け入れている。
過度の負荷に憔悴しきった精神の中、樹理は脈絡もなく愛する男の顔を思い出していた。
そういえば忌様はあの手紙を読んでくれたのだろうか、と思った。
今の樹理にとっては結界が完成したことよりもそちらの方が遙かに大切だったから、二人が結ばれる理想の未来を夢見ることが、疲れを癒す最良の方法に違いないのだ。
でも本当は、樹理だって気づいている。
忌の本心を。
自分がどれだけ愛しても、彼の視線はいつも自分の向こう側にすり抜けてしまうということを。
彼女を支える唯一の拠り所は、彼女を深く傷つける滅びの象徴でもある。
それでも樹理は愛し続けることしかできない。それ以外の生き方は忘れてしまった。忘れることでしか生きる価値を見つけることができなかった。
きっとこれからも自ら仕掛けた罠の中に安らぎを求めるような生き方しかできないけれど、大きな傷跡と引き替えに手に入れた傷だらけの翼で、精一杯彼の後を追っていこう、と樹理は思った。
そんな孤独な魂に呼応するように、公園を取り囲む隔離結界は力を増していく。彼女が孤独を感じれば感じるほどに、結界は強固な力で他者を寄せつけなくなる。
樹理が自分の存在を証明し続けるということは、結局そういうことなのだ。
祝詞は創作です。
樹里の一途さは現実にはあり得ないのだけど、このくだりはけっこう気に入っています。
【武神具】
・八処女
八つセットの霊石。結界を張るための補助として使う。
【術】
・贖罪の詞
隔離結界を張る。