第七話 献身的な翼(2)
ホテルのチェックアウトを済ませた忌が目的地へたどり着いたのは、ちょうど日が暮れ始める黄昏時のことだった。
広大な敷地の中に数多の寺社仏閣を抱えた国内有数の自然公園。かつては祈りの霊場であったその一帯も、今は凡なる人々が往来する観光地に成り下がっている。その有様は、物質的な豊かさと引き換えに精神の荒廃を享受したこの国の堕落を象徴しているかのようだ。
道行く人々を視界の片隅に収めながら、あまりにも無惨な疎むべき光景だ、と忌は思った。
生々流転という無常観が顕界を支える唯一の法則だとするならば、人の悪意をそのまま映し出したかの如きこの光景もある意味で当然の帰結なのかもしれない。
けれど、無限とも思える分岐の中からなぜ現在の可能性を選択しなければならなかったのか、ということに対して疑問を持つ者は絶望的なまでに少なく、それがいつも忌の心に焦燥と苛立ちを与えていた。
緻密なる思考とそれに伴う葛藤をかたくなに拒み、刹那の享楽を求めることを本義とする“善良な”人々は、自分の弱さを他人に委ねるのと同じレベルで全てを時代という曖昧な慣用語に押しつけようとする。傍観を決め込んで当事者になろうとしないくせに、嘆き疲れたフリをして諦めてしまうことが賢明であると思い込んでしまう。
その姿勢は、まさに無責任というより他にない。
懊悩の循環を介さずに得た諦観は逃避と同義であり、そんな無知蒙昧の輩がこの国を堕落させてしまったという紛れもない現実に、心ある者は気づかなければならないのだ。
「……さもなくば、この国の未来は永劫に閉ざされてしまう……」
忌は周囲に聞こえない程度の小さな声で呟いた。
そして、改めて確信する。
権威や金といった観念の獣を崇拝することに慣れ過ぎてしまった現代人に神の審判を下すことが、この世界を光明へと導く最上無二の方法である、と。
――穢れた顕明に気吹き放ち、神謀りを以て神性開顕を為さん。
経典に記述された一節の真理を反芻し、胸の奥深くへと刻みつける。それは甕星の民としての責務を確実に遂行するための儀式であると同時に、自らの存在意義を確立する形代だ。
忌は内的収斂の世界から顕界へと意識を引き戻し、すれ違う観光客たちに焦点を移した。上手く表面を取り繕ってはいるものの皆一様に暗愚な顔つきをしている。
夕日の赤に映える人々の笑顔を見つめながら、科戸の風が吹いた後に果たしてどれだけの人間が正気を保っていられるのだろうか、と忌は思った。
道理に暗い青人草は清らかな者を傷つける存在だ。卑屈な笑みを浮かべるだけが取り柄の夢憑に、顕界を担う資格は無い。
自己の葛藤を欺瞞という諸刃の剣によってねじ伏せた忌は、精神の高揚を意図的に維持しながら公園の中心部へと続く大きな鳥居をくぐる。
「……神域の始まりを示す一の鳥居、か……。残鬼坊たちと落ち合うのは確かこの辺りだったね」
土地勘が無い上に思慮に耽りながらの道中だったが、どうやら無事に待合せ場所へたどり着けたようだ。
先に出立した諜報工作員からの伝令によると、この鳥居の周辺で仲間と落ち合うことになっているらしい。
忌は観光客を装って周囲を観察しながら、閉店準備を始めた土産物屋が連なるアスファルトの表参道を進んだ。
そのまま数メートル歩き、博物館と思しき大きな建物の入口付近にたどり着いた辺りで、彼は馴染み深い二人連れの姿を発見する。
「残鬼坊のおじさん、ここにはめずらしい動物さんたちがたくさんいますね。すごいです」
「ふむ、ナミ殿は初めて見るであろうが、あれは鹿と言ってな、この辺りには昔から多く生息しておるよ」
「わぁ、シカさんというお名前ですか。とってもかわいいですー」
薄汚れた着流しを纏った壮年の男と、飾り気のないTシャツにスパッツを合わせているだけの年端もいかぬ娘。
端から見ていると親子のように見えなくもない二人が、のどかな雰囲気を漂わせながら辺りを闊歩する鹿と戯れてる。この公園において鹿は神の使いとして庇護されており、千頭以上も放し飼いにされているそうだ。人と動物が共存するその様は、観光の見所として全国的に知られている。
「わぁ! シカさん、ダメですよ! それは食べる物ではないですよー!」
「これ、服の袖などかじるものではない。腹を壊しても知らんぞ」
ささくれた袖口にかじりいた子鹿に向かって悪戯好きの子供を諭すかのように接する残鬼坊。戸惑う様子もなく平然と子鹿の頭を撫でているその姿からは、鬼を残す求道者、とうたわれる彼の荒ぶる魂を想像することは困難だ。
神産ノ巫女に帰依してこの方、その練り上げられた武技により任務の妨げとなる者を躊躇することなく斬り捨ててきた彼だったが、普段の生活では余程のことがない限り柔和な態度を崩すことはなかった。それは死を賭した厳しい修行の中から彼が得た真理の具現であり、俗人が真似ようとしても到底たどり着くことができない境地だ。
「シカさん、ダメですよ! 残鬼坊のおじさんの服はゴハンじゃないです!」
「ナミ殿、気持ちは嬉しいが鹿に人の言葉は通じぬよ。それに後方から近づいてはいかん。此奴ら、こう見えてなかなか気性が荒くてな、油断しておると……」
「…………あっ!」
残鬼坊が言い終わるよりも早く、興味の対象を切り替えた子鹿の後ろ足がナミの腹部を捉えていた。
生まれて間もない子鹿とはいえ、野を駆け回りしなやかに鍛えられたその脚力は尋常ではない。並の大人ならば軽く吹き飛ばせるだけの力を秘めているのだ。
当然、華奢な体躯に相応の体重しか持ち合わせていないナミは、宙を舞って数メートル先の地面に叩きつけられることになる。
「おお! 大丈夫か、ナミ殿!!」
残鬼坊は年輪を刻んだ顔に狼狽の色を浮かべ、地面に横たわるナミのもとへ駆け寄った。アスファルトに頭を打ちつけたのかピクリとも動かないナミを抱き起こし、表情を硬くしている。
そんな二人の様子を遠くから見守っていた忌は、手を差し伸べるどころか近寄る素振りさえ見せずに、甕星の民随一の剛者と噂される残鬼坊の慌てふためいた顔を可笑しそうに眺めている。
そう、忌は充分に理解しているのだ。
背丈も低く外見的にはそこいらの子供たちと何も変わらないナミという少女が持っている極めて特異な才能を。
外道の錬金術師が修する邪法によって造り出された彼女の体は、この程度では決して傷つかないということを。
「……う、う~ん……」
忌の確信を裏づけるように、残鬼坊の太い腕に抱えられているナミがゆっくりと瞼を開いた。頭をさすりながら辺りをキョロキョロ見回していたが、自分の顔をのぞき込んでいる残鬼坊の存在に気づき、慌てて起きあがる。
「わわぁ! 残鬼坊のおじさん! わたし……」
「気が付いたか、ナミ殿。甚だしく頭を打ちつけたようだが、大事はないか?」
「あ、はい、ちょっとだけ頭がぽーっとしますけど……だいじょうぶみたいです」
ナミはニッコリと微笑んで、体に異常がないことを知らせるように、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
もしナミが凡庸なる過程を経てこの顕世に生まれ落ちていたならばこの程度の軽傷では済まなかったであろうが、創造主に服従し守り通すことのみを存在理由とする哀れな傀儡は、人を人であらしめる試金石であるところの死から完全に見放されてしまっている。
「すまぬ、ナミ殿。俺がもっと正確に気を巡らせておればこのような事態には至らなかったのだが」
「わ、わわぁ! そんな、残鬼坊のおじさんがあやまることではないですよ!」
ナミは頭を下げて詫びようとする残鬼坊を大慌てで制止すると、
「だいじょうぶです! わたしはケガをしても平気ですから。それに……」
そう言って、肩に提げていたポーチを開いて何かを取り出そうとする。
「…………あ、ありました! ほら、これです! これがあればへっちゃらなんですよー」
満面の笑みを浮かべるナミが手にしていたのは、ありふれた肌色の絆創膏だった。
言うまでもなく絆創膏は切傷やすり傷を被覆するために使用するのだが、ざっと見たところナミの体に目立った傷口は見あたらない。よって絆創膏を用いる必要性は皆無だ。それなのに彼女は絆創膏など取りだして何をしようとしているのだろう、と忌は思ったが、そんなことを知る由もないナミは慣れない手つきで接着部のフィルムを剥がし始める。
「……はい、準備できました! ケガをしたときはこれがいちばんです。これをはればケガなんてなおってしまうんですよー!」
誇らしげに絆創膏を掲げるナミだったが、当の話し相手は腑に落ちない様子で、顎を指先でさすりながら首を傾げている。
「……張る、とは……?」
忌と同じ疑問を持ったのであろう残鬼坊がナミに訊ねた。
「はい! これをアタマの上にはっておけばいいんですよね?」
そこまで聞いてナミの意図を了解した忌は、思わず顔をほころばせてしまった。
なるほど、残鬼坊に心配をかけまいと張り切ったまでは良かったが、生まれて二年足らずのナミは絆創膏の使い方を上手く把握できていないようだ。その部位や状態に関わらず“ケガをすれば絆創膏を使う”という記号的な情報しか持ち合わせていないのだろう。
「…………えっと、あの……わたし、何かおかしなことを言いましたか?」
「……いや、何と言えば良いのか……。ナミ殿、それは怪我の中でも特に傷口に張るものなのだ。余程の事が無い限り頭の上には張らぬ」
「え?」
呆気に取られたような表情で硬直しその後ゆっくりと絆創膏に視線を落とすナミだったが、すぐに自分の過ちに気づいたらしく、
「わ、わぁ! そうだったんですか! わたし、ケガをしたときはこれを使うように教わったものですから、てっきり……す、すいませんー!」
困った表情を浮かべる残鬼坊の前でおろおろしている。
「い、いや、別にかまわぬよ。ナミ殿は生まれて間もないのだから無理もあるまい。少しずつ知識を積んで行けばそれで良い」
ナミの知識不足は今日に始まったことではない。残鬼坊もいい加減に慣れれば良いのだが、求道者にありがちな真面目すぎる気質も手伝ってか口で言うほど簡単にはいかないらしい。だから、二人が揃うといつもこの調子だ。
当代無二の武人である残鬼坊が年端もいかない少女に翻弄される光景は何度見ても愉快だったが、いつまでもこうして見物しているわけにもいかない。日没を合図として、彼らと共に任務を開始しなければならないからだ。
顔を上空に向けて深みを増した夕焼け空を視界に収めた忌は、そこでようやく二人の同志の前に姿を現すことにした。
「ふふ、ナミはもう少し勉強が必要だね。残鬼坊が困っているよ」
「…………あっ!」
少し遅れた待ち人の登場に、ナミは悪意のない無邪気な笑顔で応える。
「わぁ! こんにちわ、忌のおにいさん!」
「ふふ、ナミ、この位の時間帯にはこんにちはではなくこんばんはだよ」
トコトコ駆け寄ってきたナミを両手で受け止めて、彼女の教育係である忌は言い聞かせるような口調で微笑みかける。
「え? あ、すいません。えっと……こんばんわ、忌のおにいさん」
「ふふ、こんばんは、ナミ。待たせてしまったかい?」
「いえ、だいじょうぶです! 残鬼坊のおじさんがいろんなところへ遊びに連れて行って下さいましたので、とても楽しかったです」
えへへ、と嬉しそうに微笑んだナミはくるっと半回転して振り返ると、少し離れた場所からこちらの様子を伺っていた残鬼坊に向かって大きく手招きをした。
無数の刀疵が刻まれた指先で顎をさすりながら、残鬼坊はゆっくりと近づいてくる。無駄な力みを捨て去った滞りのない歩行だ。彼にしてみればごく普通に歩いているだけなのだろうが、絶え間ない求道によって培われたその振る舞いを直視していると、空間を把握する能力が狂わされてしまうような奇妙な感覚を覚える。相変わらず隙のない至高の足運びだ、と忌は思った。
「久しいな、忌殿。もう半年ぶりにはなろうか」
「ああ、そうだね、出雲で門を開いたとき以来だ。あのときは本当に助かったよ。今僕がこうして生きていられるのも君のお陰だ」
「ふむ、礼には及ばぬよ。俺とて幾度となく助けられている。お互い様だ」
謙遜の裏側に武人の誇りを潜ませて、残鬼坊はただ柔和な表情を浮かべる。先ほどナミと話していたときとは全く異質の、互いの理想を認め合った二人にのみ許される信頼の笑みだ。
世界の悪意に敏感すぎる忌にとって、残鬼坊は頼りになる戦友であり心許せる数少ない友人でもあった。戦闘という狂気の対岸に普遍的な清浄を見いだそうとする残鬼坊と、滅び行く顕界を正すことで直接的に清浄に触れようとする忌。手段は違っていても最終的に到達する場所は同じであると確信し、今は行動を共にしている。
甕星の民という組織を度外視して心から尊敬できる人物に出会えたのは、憎悪と疑念に満ちた忌の人生の中に射し込んだ僅かな幸運であったのかもしれない。もし残鬼坊という超越者に出会うことがなければ、忌は地位を保持するための詭弁に長けた星護院の一員として堕落の一途をたどっていただろう。
「ふふ、相変わらず恭謙だねぇ、君は」
「そうでもない。未だ道半ばの若輩なれば当然であろう」
「ふふ、まあいいさ。それより観光は楽しめたかい? この神の御使いが御座す古都の風景も、もうすぐ見納めになるかもしれないからね」
「ハッハッハッ! ナミ殿を俺に預けたのはお主であろう。子守をしながらゆるりと観光など出来るはずがあるまい?」
残鬼坊の豪快な笑い声に、子鹿の背を恐る恐る撫でていたナミが慌てて振り向いた。その様子を見守っていた忌が顔をほころばせると、ナミは不思議そうに首を傾げる。
「ふふ、それもそうだね。彼女は好奇心旺盛だから……」
「俺の事よりもお主の方こそどうであった? 樹理殿と一緒だったのであろう? 折を見ての遊興無くして男女の和合は有り得ぬよ」
若年者に人生を指南するかのような口振りでそう言った後、残鬼坊は忌の背後辺りに視線を移し、その後周囲に目を配る。
だが、この界隈をいくら探しても残鬼坊が目的の人物を見つけることはできない。彼女と忌は今朝より別行動を行っているのだから。
「……残鬼坊、樹理ならここにはいないよ。人払いのために先に出発してもらったんだ。……気になるかい?」
「いや……それならば良いのだ。樹理殿は巫衆の中でも希有の器量なれば、真に忌殿の支えとなれるのは彼女以外に有り得ぬと感じておる」
残鬼坊は樹理の能力を高く評価している。確かに甕星の巫の中で第二階梯までの神法を収めてる者は稀であり、上層部から過剰の寵愛を受けているという事実からみてもそれは間違いないだろう。
けれど残鬼坊が評価する対象はあくまでも樹理の術者としての実力であり、それ以外の一切が彼の目に留まることはない。樹理の整った面立ちも、男の欲望を惹きつける肉体も、至高とも言える房事の技巧でさえ残鬼坊にとっては興味の対象外なのだ。
望みさえすれば、今すぐにでも手に入れることができるというのに。
樹理という逸材を前にしてなお性的な欲望を抱かない残鬼坊に、忌は焦燥に似た想いを募らせる。
「……それは彼女を買いかぶり過ぎだよ。彼女は元々術者ではなく……慰安兵なのだから」
そしていつもと同じように、苛立ちに任せて彼女を傷つけるための単語を紡いでしまう。
――いや、違う。
傷つけるのはこの場に居合わせない彼女ではなく、自身の心に潜む認めたくない脆弱性だ。樹理という優しすぎる存在を言い訳に利用しているだけなのだ。
「ふむ。しかしな、忌殿……」
「そうだ、残鬼坊、今夜辺り君の寝所に樹理を向かわせよう。風に煽られ荒ぶった気持ちを彼女で鎮めるといい」
「……忌殿……申し出は有り難いが、それは受けられぬよ」
「なぜだい? 君とて僕の部隊に所属しているのだから彼女を抱く権利はある。遠慮しなくても……」
「忌殿。いかんよ、己を偽ってはいかん。それに、彼女の心根を知っておるのだろう? この時代の中にあってあれだけの純真を保つ女人は珍しい。大切にするがよろしかろう」
平静だが真摯さを感じさせる残鬼坊を前にして、忌は言葉を続けることができなかった。
己を偽ってはいけない。その一節が妙に重く伸し掛かる。
……僕が何を偽っているというんだ?
いくら自問を繰り返してみても心の外郭より迫り上がる感情の起伏は収まらず、忌は視線を落としたまま迷相に陥っていく。
その様子に何らかの懸念を抱いたのだろうか、残鬼坊は大きな手のひらで忌の両肩を叩くと、
「ハッハッハッ! ナミ殿の手前、もうこれくらいでよかろう。このような事柄は容易に解決するものではない。全く男女の営みとは真に玄妙なることよ!」
内側への収斂を始めた彼の思考を吹き飛ばすかのように破顔した。
「なに、案ずることはない。己が心に変わらず信念を刻んでおれば、近く煩慮が氷解する日も来るだろうよ。今はただ、目前の難儀を一つずつ斬り倒して行けば良い」
無骨だが誤魔化さない言葉で忌の沈んだ心を引き上げようとする残鬼坊。それに伴って、わだかまっていた焦燥感の輪郭が除々に浮かび上がって来る。
「そうですよ! 何だかよく分かりませんが、忌のおにいさんは優しくて強くてかっこいいのでだいじょうぶですよー」
いつの間にか忌の側に歩み寄っていたナミが、胸の前で小さくガッツポーズを作り脳天気に微笑んでいた。
残鬼坊と交わした会話の内容などろくに理解していないだろうが、落ち込んだ忌を元気づけようとしていることだけははっきりと分かる。
忌は人の悪意に敏感な反面、善意の発露にも鋭かった。
「ふふ、本当に君たちは勝手だね。呆れてしまうよ」
同志の想いが迷いを掻き消していくにつれ、凝り固まっていた心がほんの少しずつ解放されていくのを感じる。普段は真理追究のため自ら進んで不幸を背負い込む忌だったが、このような場合は潔く捨て去ってしまうのが正しいのではないか、と思えた。
それは決して弱さではない。独りよがりの嫉妬を捨て去った後に残るのは、人間にとって最も大切な一筋の光明であろう。
やはり人は一人では生きられないのだ、と忌は思った。
「では、そろそろ参ろうか。樹理殿の準備が整っても、俺たちが動けないのでは機を失ってしまう」
もう一度だけ忌の肩を叩いた残鬼坊は、踵を返して公園の中心部を見つめる。
爛々と輝く武人の瞳には果たしてどのような未来が映し出されているのだろうか。
「……それじゃ、樹理の結界が辺りを覆った頃を見計らって、風を呼び込む科戸ノ祓を開始するとしよう。二人とも、準備はいいかい?」
「うむ、任されよ」
「はい! だいじょうぶです! がんばりますー!」
すっかりいつもの調子を取り戻していた忌は部隊のリーダーとして二人の同志に指示を与えながら、これで最後になるかもしれない古都の景観を脳裏に焼きつけた。
数時間後に開かれる異界の門は、この街に息づくあらゆる生命に平等なる審判を与え、潜在する神字の顕現を迫る。
きっと今回も甕星の民の悲願は叶えられず、覚醒した夢憑が獣性を撒き散らすだけの不毛な結末が待っているに違いないが、それでも忌たちは世界に干渉し続けなければならない。
一縷にも満たない望みに、希望を見いださなければならない。
人という種に残された僅かばかり神性を見極めることだけが、世界に見捨てられた彼らが選んだ只一つの存在理由なのだから。
例え忌の漆黒の瞳が冥い結末だけを見据えていたとしても、顕界に蔓延する拮抗作用が消失しない限り、毒に侵された自身の愚に気づくことはないだろう。
皮肉なことに、そんなどうしようもない矛盾だけが彼らの生を支えているのだ。
甕星の民の術者、残鬼坊とナミの登場シーン。おじさんと幼女。
舞台は奈良公園です。
自分で書いておきながら何ですが、忌は本当に憎たらしいです。