第六話 献身的な翼(1)
カーテンの隙間から差し込む一筋の太陽光が、暗がりに沈んだ絨毯の上に泉のような日溜まりを形成していた。
空調の温度調節が適切だったためか室内にたゆたう意識は思いのほか理知的で、目覚めたばかりの四肢に、活動を促す機微が伝達していくのを感じる。
忌はベッド代わりに使用していた窓際のカウチから身を起こすと、首だけを動かして部屋内を見回した。
視界に収まったのは、昨夜と同じ場所に留まり続ける調度品の数々と、強いスプリングだけが取り柄のシングルベッドが二つ。
部屋の中心に配されたテーブルにはサンドウィッチとベーコンエッグの朝食が用意されていたが、そこに樹理の姿はなかった。その理由を探るべく思慮を巡らすと様々な憶測が脳裏に浮かび上がるが、結局、昨晩の言いつけを守り先に出発したのだろう、という最も堅実で都合の良い結論を採用する。
忌はテーブルの側へ移動し備えつけのイスに腰掛けると、心の中で短く咒言を唱え精神的な平行世界を認識するための能力―識妙―をその漆黒の瞳に宿した。用意されている朝食が誰の手によるものなのかを確認するためだ。
術の行使を維持したままテーブルの上に視線を移すと、料理が盛られた皿の周囲数センチの範囲にわたっておぼろげな光の層が輝いて見える。
暗がりの室内に映える感情の残留からは清らかな献身が勢い良く放射され、覚えのあるその気配から忌はすぐに必要な情報を引き出すことができた。
「ふふ、彼女らしいね」
用意された朝食は紛れもなく忌の同行者が用意してくれたものだ。料理皿の周囲に色濃く残っている樹理の意志が如実に物語っている。
どこまでもひたむきで、その一途を貫くための力強さに包まれた――
ルームサービスを介さず、自らの手で食事を運び入れてくれた樹理のいじらしさが目に浮かぶようで、思わず笑みがこぼれてしまった。
樹理が用意したのならば毒物や呪詛の混入を警戒する必要はないだろう。そう判断した忌は術を解除して視界を元の状態に戻した後、皿に乗せられたサンドウィッチに手を伸ばす。
表面に軽く焼き目が入ったサンドウィッチ。パンの間に挟まれた素材自体はそれほど上等とは言えなかったが、野菜と生ハムのバランスが絶妙で、活動を始めたばかりの腹の中に無理なく納まっていく。
次いで口にしたベーコンもほどよく焼き上げられており、噛みしめる程に動物性の旨味が広がった。
「……祓の直前に肉食なんて、星護院に知れたらタダじゃ済まないね」
フォークの先で目玉焼きの中心部を破り、溢れ出した半熟の黄身をベーコンに絡めながら忌は心の中で呟いた。
これは甕星の民に限ったことではないが、古今東西に伝わる精神文化の体系には、必ずと言って良いほど食肉に関する禁忌が含まれている。慈悲と不殺生を旨とする宗派の徒にしてみれば当然の観念なのだろうが、忌にとっては取るに足らない不問の規律に過ぎなかった。
人為的な断罪で食事に込められた意志を踏み躙る姿勢は馬鹿げている。そもそも、神産ノ巫女によってもたらされた経典のどの頁を見ても、食肉に対するタブーなど記述されていない。
つまり、甕星の民における食肉禁忌は、星護院の老人たちが凝り固まった偏見をもとに作り上げただけでさほど重要な意味を持ってはおらず、集団操作の一環として採用されただけなのだ。
忌は甕星の民を牛耳る星護院の顔触れを思い出しながら、気枯れた食物である生ハムのサンドを口に放り込む。租借するごとに当てつけに似た感情が去来したが、それに干渉しようなどとは思わなかった。次々と湧き出る無益な感情は、無理に打ち消そうとせずにただやり過ごせば良い。
以降特に心を乱すこともなく淡々と食事を進めた忌は、最後の一口を食べ終えた後、出発の身支度を整えるためにテーブルから離れてベッドの傍に腰掛ける。
足を組み、識妙を用いて結縁の武神具―蠱神霊符―の状態を一枚一枚確認していたとき、不意に視界の片隅に光り輝く意志の残留を発見した。樹理が使用していたベッドの枕元から、うっすらと想いの光が洩れている。
発生源を確認するために枕を取り除いた忌は、そこに小さな紙切れを見つけた。
それは丁寧に四つ折りにされた置き手紙だった。
送り主の名前はどこにも表記されていなかったが、誰が誰宛に残したのかは識妙で走査しなくとも容易に判断できる。
「……こんなところに隠していたんじゃ、すぐに見つかってしまうよ、樹理」
本気で隠そうとしていたのであればこんな見つかりやすい場所に置きはしなかっただろうが、あえてそうしたところに樹理の少女的な機微があるのかもしれない。
四つ折りを開いて丸みを帯びた樹理の筆跡を眺めながら、忌は現状に相応しくない感情がわき上がるのを感じていた。
遠回しな表現で何度も同じ事柄が繰り返されていたが、要約すると、「次はもっと美味しい朝食を用意するからどうか無事でいて下さい」といった内容の他愛もないことが書かれている。
戦いに挑む決心を鈍らせるようなその文面に忌は苦笑するしかなかったが、心の片隅で、こうして誰かに心配されるのも悪くはないな、という弱みにも似た甘えが生まれてしまったのも事実だった。
だから忌は、眼前に掲げた樹理の手紙を躊躇することなく一気に破り捨てた。
神から与えられた使命を成し遂げるために私情は切り捨てなければならない。そんな大義名分を無理矢理に捏造し、樹理の気持ちを軽んじる行為を正当化する。
彼はいつもそうやって、自分にとって一番大切なものを削ぎ落としていく。ひたむきに求めれば求めるほど、真実から遠ざかってしまう。
忌は何事もなかったのかのように立ち上がると、ねじ曲げた現実を受け入れるために大きく息を吐く。その最中、軽い目眩と吐き気に襲われたが、それは背負った使命の重さの象徴であると自分に言い聞かせて更に自己弁護の嘘を重ねた。
矛盾だらけの思考を強引に塗り固め一時の安寧を享受してしまった忌は、また一つ、支配層の呪縛から逃れるきっかけを失ってしまうのだ。
【武神具】
・蠱神霊符
術を行使するための霊符。