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甕星の民  作者: 憂羽
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第五話 夢憑 (3)

 白く儚い月明かりが二人の姿態を祝福しているかのように感じられるのは、いまだ捨てきれない忌の弱さなのかもしれない。


 息が詰まりそうな抱擁を繰り返しながら樹理をベッドに横たえた後、忌は何かを押し殺すかのような瞳で彼女を見つめた。それに応えて、樹理も男を見つめ返して笑みを浮かべる。

 その微笑みを裏づけるのは、組織から課せられたお役目に対する諦観。あるいは、荒んだ日々が生み出だした逃避のための虚構。


 いずれにしろ、無抵抗の彼女を抱くことで自らを誤魔化す行為に大意を見いだそうとする忌の口から憐憫の言葉が洩れることは許されない。

 手のひらに感じるぬくもりも、優しさも、全ては顕界の夢――

 それは、人が目指すべき情愛の真意からは大きく外れている。


「……忌さま?」


 静寂の中、樹里の美しい黒髪をそっと撫でつけた忌は、何かを考えこんでいる様子だった。それは樹里にとっては見慣れた光景だったから、何も言わずに忌の腕に顔をうずめて、ごく自然に微笑んだ。押しつけがましい甘えでもなければ男の気を惹くための演技でもない。彼女は鋭すぎる直感力で忌の意志をくみ取って、彼が望むままに尽くそうとしているのだ。

 絶え間ない献身によって育まれたその慈しみは、本来の忌にとっては尊ぶべき至高の輝きであったはずだ。


 だが、抱擁を終えた忌は樹理の態度に釈然としないものを感じていた。

 人が人であるために決して放棄してはならない絶対の真理。真摯に求めてもすぐに指の隙間からこぼれ落ちてしまう、悠久の距離を隔てた神々の領域。

 その場所に到達することが極めて困難であると忌は知っているから、近づけば近づくほどに苛立ちにも似たもどかしさが彼の全てを支配する。

 だから――

 愛を昇華する儀式の余韻は、疎むべき呪詛へと姿を変え忌の口から発せられた。


「……科戸ノ祓には斬鬼坊(ざんきぼう)も合流することになっている。事が終われば彼と寝てあげてほしい。戦場で荒ぶった彼を癒してあげるんだ」


 わざと下卑た言葉を選択し、従順で優しすぎる樹理が傷つくように……。


「他でもない、君は慰安兵なのだから」


 彼女はあからさまに表情を強ばらせて、淋しそうな瞳をした。


「……はい、心得ています。それがわたしの……わたしに課せられた役目ですから。でも……」


 でも、の後に続く言葉を遮るように忌は樹理を抱きしめて口づける。

 わざわざ口を封じなくとも彼女は自らの意志でその先を飲み込んだだろうが、忌はあえて彼女がより傷つく方法を選んだ。


 手の中で震える樹理を哀れだと感じる。先ほどまでの精神的な恍惚は嘘のように消え去っていた。

 そう、結局忌は肉体という魂の器による支配から逃れることができないのだ。自己を守るための欺瞞で塗り固めなければいとも簡単に崩れ去ってしまうような脆弱な心が、肉体とのせめぎ合いに敗れ続けているのだ。


 甕星の民は、真理を歪め自我に染まる者たちのことを『夢憑(ゆめつき)』と呼称するが、組織の幹部である忌の心中にもそれらと同根の疎むべき要素が確かに存在している。

 憎しみ合うことで輪郭を保持している二つの勢力を隔てる壁は、いつの時代も偏った独善的な欺瞞によって築かれている。


「……明日の夕刻、目的地近くで彼らと合流することになっている。樹理は先に出発して、祓が滞りなく進行するよう人払いの結界を展開しておいてほしい」


 樹理をベッドの上に置き去りにして、忌は窓際のカウチへと向かう。

 時の流れと同じ早さで密度を増して行く焦燥感に追い立てられながら、僕はいつになれば強くなれるのだろう、と忌は思った。

 人を傷つけることで得られる仮初めの平安など、一刻も早く捨て去ってしまいたい。

 けれど、緻密な自己観察の中でいくら否定を繰り返しても、それは終わりのない無限の環の如く彼に絶望だけを押しつける。


 もしも、諦観を覆い隠す嘘だけが今の忌を支えているとするならば、衆生を救済する科戸ノ風を顕界に呼び込む祓の(ぎょう)も、自己を正当化するための欺瞞に過ぎないのかもしれない。

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