第三話 夢憑 (1)
駅を降りて最初に目についたというだけの理由で選んだ観光ホテルのツインルームは、安価な宿泊費に見合う程度の質素な造りをしていた。
テーブルを始めとする調度品の安っぽさに加え、腰掛けたベッドのスプリングがやたらと弾むのには辟易したが、遊興を目的とした宿泊ではないのでそれほど神経質になる必要もないだろう。明日の夕刻まで、我らの大義を阻もうとする追行者から身を隠すことができればそれで事足りるのだから。
忌はもう一度辺りを見回してこの部屋が何の変哲もない単なるホテルの一室に過ぎないことを再確認すると、そこでようやく一息ついた。
純度の高い漆黒で構成された蠱惑的な瞳。彼が観じていたのは、設計者のセンスを疑わざるを得ない和洋折衷の様式ではなく、人々が住まう顕界と重なり合うように存在する特別な領域だ。
もちろん、誰にでも観えるというわけではない。霊的な力が物理法則を凌駕するその平行世界を知覚するためには、先天的な素質を磨くための過酷な修練が必要とされている。
だがそれは、『甕星の民』に属する術者にとってはごく初歩的な識妙呪の範疇に含まれていたので、組織の中でも常に上位クラスの実力を維持している忌にその能力が備わっているのは当然と言えた。
「……あまり上等とは言えないけれど、明日の『科戸ノ祓』に備えて休むことくらいはできそうだよ、樹理」
忌は一族に伝わる災厄除けの霊符を部屋の四隅に張りつけた後、窓際に配されたカウチに腰を下ろした。
大きな窓から見渡せる古都の風景。
無数の神社仏閣が建立され、古人が残した惟神の道を連綿と受け継いでいる街並みは、闇を嫌う為政者によってもたらされた不自然な輝きによって無様に彩られている。
人は闇に潜む不明瞭に畏怖を奉じ、その狭間に跋扈する異形の影を恐れる。ゆえに、自分たちの生活を脅かす観念を明確にするための信仰が生まれ、自然科学をもって克服することが奨励された。
共存と支配。人の本能に根ざしながらも、対立することでしか輪郭を保つことができない二律背反の原理。そのせめぎ合いこそが、眼前に広がる不協和の正体だ。
忌はその光景に言い知れぬ嫌悪感を覚える。
それは、皮肉の一つでも呟いてやることでたちまち欺瞞の海に沈み込んでしまう程度の脆弱な感情に過ぎなかったが、忌はその嫌悪感を否定せずにあえて心中に留めておくことにした。
「……わたしも、この夜景は好きではないです。忌さまがいつも仰っているように、人の身勝手と傲慢をそのまま形にしたような、不自然な景色ですから」
後方からの声に振り向くと同行者である樹理が窓の外を見つめていた。無粋な憶測を拒む物憂げな横顔。上品な白のワンピースにかかる黒髪が肩を経由して細腰まで流れ、手にしたトレイにはティーカップが一つ乗っている。
忌は、まるで自分の思考をくみ取ったかのような樹理の物言いに感心した。同じ小隊に籍を置き、多くの活動を共にしてきたということを差し引いても、彼女が時折見せるこの手の能力には驚かされる。
テレパシーや呪術の類ならばさして価値もないが、彼女のそれは、お互いにとって最も理想的な関係を保とうとする献身の現れに他ならない。過去、理不尽な暴力によって心と体を蹂躙され傷ついた樹理が未だ人間的な価値観を尊重しているという事実は、忌にとって格別の意味を持っていた。
「ふふ、樹理は僕のことを本当によく理解してくれているね」
親しみを含ませた忌の言葉に、樹理は一瞬肩を振るわせる。
「い、いえ、そんな、わたしなんか……もったいないです」
樹理は、窓の外に視線を向けたまま、年端もいかぬ生娘のように頬を朱に染める。意識してトレイのバランスを維持している姿が健気で愛らしい。
「……あ、あの、お紅茶をお入れしましたので、もしよろしければ。備えつけのものですから、お口に合わないかもしれませんが……」
明日にでもダージリンの良いものを探して参ります、という補足と共にティーカップが差し出される。
忌は伏し目がちに視線を逸らした樹理に微笑みかけた後、カップを受け取り口に運んだ。
淡い芳香が鼻孔をくすぐる。普段に比べ若干風味が落ちるような気もするが、渋みはなくすっきりとした味わいで素直に美味しいと感じた。
紅茶は入れる者の技量に応じて大幅に味を変えるというようなことを耳にしたことがあるが、どうやら本当らしい。途中で紅茶が冷めてしまわないようにあらかじめカップを温めておくような繊細さが、対象の持ち味を引き上げるのだろう。
「……うん、おいしい」
遠慮がちに忌の様子を伺っていた樹理は、その言葉を聞いた途端「ありがとうございます」と顔をほころばせた。
あまりにも純粋すぎる反応に、忌はつられて微笑んでしまう。姑息で小賢しいだけの駆け引きが存在しない樹理とのやり取りが忌は嫌いではなかった。
お互い言葉を交わすこともなく窓の外を眺めていると、時の流れが希薄になったように感じられ、室温を整える空調の音が仮初めの平穏を象徴する。
――享受することは決して許されないのに。
二人の間を流れる空気がこの街に来た理由を忘れさせてしまう前に、忌は立ち上がった。
きれいに飲み干したカップをテーブルの上に置くと、両手でトレイを抱える樹理を一瞥し、その足でベッドに向かう。
「……少しクッションが強すぎるけど悪くはないね」
感触を確かめるように腰を下ろすと、乱暴なスプリングが忌を押し返す。その抵抗はやはり好みではなかったが、寝具の無骨な頑強さはこれから課せられる役割を無難にこなしてくれるだろう。
「樹理、横においで」
飾らない言葉で、手短に樹理を呼ぶ。
窓の側で柔らかな月明かりに包まれていた樹理と視線が交わり、まるで互いの思考がつながったかのような錯誤を覚える。
いくつかの意志が込められた視線の意味を樹理は充分に理解していたから、コクリと小さくうなずいてカーテンを閉めた。
「……少し、お待ち下さいね」
感慨を示すことなく羽織っていたストールを脱ぎ、丁寧に折り畳んでイスの背もたれに掛ける。
ワンピースのボタンが一つひとつ外され、樹理の素肌が衣服の拘束から解放された。
透き通るほどに白く、儚くて――
まるで天使のようだ、と忌は思った。
一度でもこの光景を目にすれば、樹理に与えられた《穢れなき熾天使》という通り名の意味を、それが比喩などではなく紛れもない現実であるということを感得できるだろう。
けれどその背中には、預言者イザヤが伝えたような六枚の羽根はない。代わりに、肩口から腰部にかけて大きな傷跡が奔っている。
樹理の背を侵食する烙印は、当時高校生だった彼女に欲情した塵芥にも劣る暴漢が理不尽に刻みつけたものだ。彼女が彼女であることを否定する原因となった、禍々しい烙印だ。
樹理だけではない。甕星の民を束ねる『神産ノ巫女』の下には、いつだってこんな傷ついた寂しい魂だけが集まる。
忌は、隣に座った樹理を力強く抱き寄せてほんの一瞬だけ見つめ合った後、唇を重ねた。
慣れた所作でそれに対応する彼女が切なくて、彼女を抱くのはこれで何度目になるだろう、と思った。
二人を包み込むのは、顕界に集う獣の性質が生み出した歪な聖域そのものだ。
甕星の民の術者、忌と樹里の登場シーンです。
悲しい二人です。
【術】
・識妙呪
唱えることにより精神世界を見ることが出来る。