第二十一話 木漏れ日のあたる場所
常緑の木々と緩やかな清流を抱いた深山幽谷。都市部を遠く離れた山肌の斜面に、偏執的な俗世の条理を蔑むかのような村落が張りついている。
自然と親しむ村里に住まうのは、心ない強者によって虐げられた流浪の民たちだ。行き場を失い神産ノ巫女の下に集まった孤独な魂たちが、まつろわぬ神々を崇めながら純朴な生活を営んでいる。
山間にひっそりと開かれた共同体は、国の為政者にとって目障りな存在であるに違いない。他者に傷つけられたがゆえに他者を慈しむ大切さを熟知する民たちは、文明の美名に隠された傲慢を見透かしてしまう。清貧がもたらした所作の一つひとつを、自惚れに曇った瞳では直視できないだろう。
もっとも、天津甕星の啓示により定められたこの神域は、認識を希薄にする隔離結界によって常に護持されているので、資格なき部外者の侵入など有り得ないのだが。
「僕たちが生きている限り誰にも手を出させはしない。ここに住まう人々は、もう充分すぎるほど苦しんだのだから……」
螺旋階段の窓辺に身を寄せていた忌は、眼下の素朴な景観に向けて呟いた。
集落から少し離れた丘陵に位置している、甕星の民の本拠『忘れられた聖女の城』。中世ヨーロッパの様式を模した山城は、特殊工作員の住居であると同時に民を統べる星護院の宮殿でもある。任務から帰還したばかりの忌は事後報告を終えて私室へ戻る途中、ふと足を止めて自らの立脚地を眺めていたのだ。
高所から見下ろす村落はいつもと変わらず穏やかだが、それだけに自己が背負った使命の重さを再認識させる。
愛すべき者たちを守る喜びに目を細めた忌は、しばらくの間景色を楽しんだ後、階段を昇って自室へと向かった。
無骨な石造の回廊を歩き一族伝来の紋章が刻まれたドアを開けると、最低限の調度品のみで構成された簡素な内装が広がっている。
手近な本棚から読みさしの書物を選び、窓際の席で目を通していると、
「おかえりなさいませ、忌さま。お紅茶でよろしいですか?」
トレイの上にティーカップとサーバーを揃えていた給仕が、部屋の主を出迎えた。
「ありがとう。いただくよ」
紺を基調としたカットソーに清潔なロングエプロンを合わせている樹理は、嬉々として本来の職務に勤しんでいる。
同志の荒ぶった感情を鎮める慰安兵たちも、平時はこのような上級工作員の専属給仕として働くことが多い。食事の準備や雑務など身の回りの世話は全て任されているし、ほこり一つ見あたらない行き届いた清掃も彼女の手によるものだ。
「何だか嬉しそうだね。良いことでもあったのかい?」
「あ、いえ、特に何も……。ただわたしにとって……こうして忌さまにお仕えできること自体が、何よりの喜びですから……」
ためらいつつも給仕にふさわしい答えを返した樹理は、自分で口にした言葉に照れてしまったのか、頬を赤く染めて手元のティーサーバーに視線を集中した。
「あ、あの……それで、星護院のご様子はいかがでしたか? 何か変わったことは……?」
狼狽を輝かせて露骨に話題を振り替えるそのやり方は、経験浅い生娘の羞恥に似て無知の幻想に満ちている。
肉体的な要件をすでに失っている樹理が未だ少女らしい面影を演じていられるのは、傷ついた精神が痛ましく凍っているからだ。生きるための取捨選択に悲しい未来を予見してしまった彼女は、保身の罠に陥ることでしか正気を保てなかったのだ。
だから忌は樹理の感情に触れる発言を意図的に控え、淡々と言葉をつなぐ。彼女の愛情表現をことごとく突き放し肉体のみの接触に終始するという軽薄さが、今の二人にとって理想の関係であるはずだから。
「……彼らはいつもと変わらない。星護院の興味は経典原理の履行そのものであって、祓がもたらす実質的な影響については何の感心も示していないよ」
おずおずと差し出されたカップを受け取り、一息吹き払ってから口に運ぶ。喉元を撫でる芳香は常に緊張を強いられている心を優しくあたためてくれたが、その功績を素直に表現することは憚られた。弱気の裏側に隠された本心を見透かされたいと樹理は願っている。心の触れ合いによって狂気の氷が溶けてしまわないよう、永遠に一定の距離を保っておくのがお互いのためだ。
どんな言い訳を繕ってみても女を傷つけることが優しさだなんて馬鹿げているし、身勝手な押しつけに過ぎないのだろうが、忌はそれ以外に彼女と接する術を持たない。
「あの、いかがでしょうか? いつものダージリンに渋めの葉をブレンドしてみたのですが……」
それでも樹理は踏み込んで来た。忌の沈黙を至らぬ自分への非難と取り違えたのであろうか、危うげな一途を漂わせながら二人の距離を懸命に近づけようとしている。
「……ああ、悪くないよ」
褒め言葉にならないよう努めて曖昧な返答を選んだが、たったこれだけのやり取りにも、樹理は真摯な瞳を輝かせ嬉しそうに微笑むのだ。
そのとき、忌の胸中に例の加虐心が飛来する。放置すれば今すぐにでも悪意に変じてしまいそうで抑制の作為を巡らしてはみたものの、やはり後ろめたさは拭えない。
多分何かが歪んでいるのだ。忌も、樹理も。歪んでいるからこそ、甕星の民は科戸ノ祓という難解な儀式を代行できるのだろう、と忌は思う。
「……そういえば、先日繋がった科戸ノ門は順調に機能しているようだ。星護院の老人たちが妙に浮き立っていたからね、間違いないよ」
テーブルの上にティーカップを置きながら、忌は新たな話題を提示した。特権を行使して樹理を抱かなかったのは、心身を傷つける安易な解決法よりも、会話の一環に平静を求める方が道理に適っていると判断したからだ。
「それでは、やはり今回も……」
「ああ、残念だけど同じだろう。九日間の神謀りを終えるまでもない。自己完結の快楽を求める人々は欲望を解放し続け、その穢れは必ず街を崩壊させる」
門の開示によって風を呼び込まれた地域は、血で血を洗うような狂気の中で数日以内に死滅する。過去、数度に亘って執り行った祓ではそうだったし、これからも大同小異だろう。これに関しては国の為政者たちも同じ見解を示している。
ただ一つ、祓に対する決定的な解釈の違いを除いて。
「忌さま、以前から考えていたのですが、科戸ノ祓とは一体何なのでしょう? 経典によれば、人々の穢れを祓って善なる性質を目覚めさせるとのことですが、これまでの経緯を振り返ってみると……」
「樹理の言いたいことは分かるよ。そう、無知な青人草たちは『殺戮衝動症候群』などという名前を与えて理解したつもりになっているけど、もちろんそんな流行病の類では無い」
急性殺戮衝動症候群。正式には『独善的行為及び殺戮衝動の症候群』と呼称され、『抑圧開放的心因反応』と呼ばれることもある。
為政者たちは風の霊威をウィルスによる感染症の一種だと捉えており、感染経路の特定とワクチンの接種によって克服できると考えているようだ。しかしそれは大きな勘違いであり、唯物思考に毒された傲慢に他ならない。
人間という種を根本的に見直さなければならない時期が訪れているというのに、なぜ連中は現実を直視しようとしないのか。
「……風はね、試しているんだ。人間が自らの手で自らの咎を清算し、その上でどのような結末を選択するのかを。獣と神、提示された進化のうち、どちらの性質を選ぼうとも各人の自由だ。夢に溺れたい者は獣を受け入れれば良いし、利他の誇りを求める者は神を受け入れれば良い。それだけだよ」
こうしている間にも、背徳の夢に憑かれた青人草が、命が尽きるまで破壊し、犯し、奪い合っている。人の器を借りた獣がそれだけ多いということだ。誇りを捨て情欲に支配されることが人々の望む自由であるならば、孤独な迷宮の中で朽ち果てるのもまた必然だろう。
「ならば、やはり人々に救いはありません。彼らは皆、自分勝手な欲望を追い求める劣等種ですから。隣人を思いやることもなく、愛する人ですら踏み台にして、きっと獣の道を歩むことでしょう」
露ほどの疑いも持たず樹理は人類を非難した。永遠の憎悪を宿した悲しすぎる瞳で。
彼女は今、背に刻まれた堕天使の烙印を思い出しているのだろうか。理不尽な暴力を許した人の未熟に、終わりのない悔恨を繰り返しているのだろうか。
樹理の辛苦はまさしくこの村の縮図だ。虐げられ、追いつめられても他人を傷つけることを拒んだ気高き人々が、神産ノ巫女に導かれて甕星の民となった。この閉鎖された空間は、刺々しい鎧を脱ぎ捨てた魂の慟哭によって支えられている。
それなのに、国の為政者どもは手を差し伸べようとしなかった。民の存在を知りながらも、強者の論理で迫害を正当化し続けてきた。
いや、権力者だけではない。処世術に長けた小賢しい知恵者たちも同罪だ。金と快楽を得るためならば裏切りすらいとわないというヤツらの悪意が積み重なって、この悲痛な集団を生み出したのだ。そして当の本人たちは、いつだって他人事を装い自分の罪を認めようとしない。
だから――
保身のために弱者をいたぶるのが人の公理であるというのなら……。
全てを敵に回してあらゆる手段を講じよう。利己に染まった心と対面させ、その罪がどれだけ醜いかを分からせてやろう。巫女に啓示を下し賜うた天上の神々もそれを望んでおられるはずだ。
人の本質が変わらない限り……人が種のレベルで進化しない限り、甕星の民という顕界の傷跡が癒えることはないのだから。
「……樹理は……この世界が嫌いかい?」
寂しい追憶が彼女の存在を否定してしまう前に、忌は透き通る程に白い天使の手を引いて自分の横に座らせた。
「あ……忌さま……」
「いいから」
手のひらを介して伝わる調和の律動。
盲目的な献身に埋没している樹理は、カチューシャで飾られた黒髪を撫でつけながら熱っぽく微笑んでいる。
「僕はね、嫌いじゃないよ。村を取り囲む木々のぬくもり、美味しい作物を育む神泉の輝き、絶え間ない慈しみを下さる神産ノ巫女、そしてそれらを支えている優しき民たち、もちろん樹理だって……。ほんの一握りだけど、この世界にはまだ希望が残されているからね」
城下を見下ろして独白する忌の横顔は、狂おしいまでの諦観に蝕まれていた。
羽根をもがれた天使は羽ばたくことができない。どれだけ慰めの抱擁を重ねても、足下の泥濘を丹念に洗い流そうとも、樹理たちは孤独な大地に縛られることを選ぶのだろう。犯された身体を削る自己否定が、無意識下に刻まれた強迫観念がそうさせるのだ。
汚れた大気。救いのない歴史。不完全な人類。もうそろそろ幕を引いても良いのではないか。
「……樹理、少し歩こうか。外へ出て空気を吸えば、戦いの疲れも癒えるだろう」
「はい、お供いたします。忌さまとお散歩だなんて久しぶりですね。嬉しいです」
さりとて忌は狂人ではない。狂人を演じて人類を欺こうとしても、選民思想の恍惚と本質的に無縁である忌は、科戸ノ祓の汚穢を見抜いてしまっている。善悪の天秤は中庸を外れて片側に寄り、不幸なまでの明晰が自戒の剣を手放さない。
いっそ妄信に耽ることを受け入れてしまえば、あらゆる葛藤は消え失せるだろうに……。
忌はこれからも、神に近しい者の義務と殺傷の咎とを同時に背負っていく。高みを目指す道程に自意識の輪廻が横たわっていても、最後の瞬間まで祈りの一貫性を失うことは無いだろう。
――永劫の時を隔てた純粋への憧憬が、澄んだ陽光を導き入れる。
人間である自分を放棄しないという信念は彼の未来を決定づける呪縛ではあるが、その正否を判断する者にこそ高潔の真意を問い質すのだ。
これより三年の後、経典に預言されていた科戸ノ神門は余すところなく開示される。
祓の成就によって目覚めた神威の守護者たちはそれぞれ八柱の神器を手に奮戦するも、定められた運命を覆すことはできない。醜い夢の一滴が心の瑕疵に取り憑いて、彼女たちは等しく自滅を与えられる。
不完全な人間が人間のまま人の罪を裁くという傲慢。
壊れた街の真ん中で夥しい返り血を浴び立ちすくむ黒犬は、愛する者を失う哀絶を知りついに過去を振り返る。
そんな彼を取り巻く風はやわらかな夢を運ぶのだろうか。
願わくば、積み重ねた罪科の悔恨と、かの日に信じた水晶の如き愛情があらんことを……。
了
ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました。
物語全体としては終わっていませんが、ひとまず区切りとなります。
次回、簡単なデータ集を書かせていただき、それで完結といたします。
こんなクドい小説を読んで下さった方には感謝しかありません。
心から、お礼を申し上げます。




