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甕星の民  作者: 憂羽
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第十九話 狂った道化(2)

 体の重心を崩されると同時に奇妙な無重力を感じた良知は、ふわりと浮き上がり大きく一回転した後、固い地面に叩きつけられていた。


 受身の衝撃で一時的に記憶が混乱してしまったが、玉砂利の冷たさに平静を取り戻しながら除々に状況を把握する。

 自分は追いつめたはずだ。稀代の達人と謳われた駒杵無心斎、残鬼坊を。『霊剣・月戒(げっかい)』と共に父親から譲り受けた、皆伝の証である『月輪之契印(がちりんのげいいん)』で。勝利は目前だった。

 確かに、技量不足のため完璧とは言い難い未熟な剣技になってしまったのも事実だ。本来あの技は密儀の作法を象徴する十八の段階を経て完成する奥義であるが、良知は六つの段階を踏むに留まっている。道場内での履修ならまだしも、いざ実戦となると焦りが先行して潜在力の半分も引き出せなかったのだ。


 経験の浅さ、という一言ではとても悔やみきれない不覚ではあったが、今の彼が振るいうる最高の技であったことは間違いなく、それゆえ先見的に勝利を予感したのもあながち高慢なことではない。

 なのに、残鬼坊の首を薙いだと思った瞬間には、満月の残滓を仰いで地面に組み伏せられていた。罪悪の観念を忘れ、人の命を絶つ覚悟を定めていたにも関わらず、だ。


「……少年よ、剣の冴えに比べ、(やわら)はまだまだ未熟のようだな」


 背後から威厳に満ちた超越者の声が聞こえてきた。うつ伏せになっているため顔は見えないが、剣を握っていたはずの左腕は背に回され、肩口に強い圧力が掛かっている。

 良知は空いている方の腕で地面を這い、体を捻って上を向こうとした。が、痺れるような感覚を伴って可動範囲を狭められた手足は、金縛りにあったかのように動いてはくれない。肩関節を捨てる気構えで足掻いてみても結果は同じ。察するに、残鬼坊は卓越した術理を以て腕一本を制しながら、抑え込んだ良知の挙動を巧みに封じているのだ。


「……柔術か。剣術だけじゃなく、組討ちも一流ってわけだ……」


「間合いが近かったゆえな。お主から剣を奪うためにも、こちらの方が妥当だったのだ」


 元来柔術と呼称される素手の技は、剣術修行者が両手を封じられたときの対処法として発展させてきたものだ。よって残鬼坊がこの術理に通じていたとしても何ら不思議はない。

 問題なのは、避けられるはずのない薙ぎ斬りを躱した上で至難の反撃を成就させた残鬼坊の技量そのもの。圧倒的な力を前にして、不退転の覚悟が通じなかったということだ。

 はなはだ口惜しいが、心身を辱める鈍痛に嘘はない。勝者は誇りを守り、敗者は地を舐める。力弱き者は、自己の正義を証明することさえできないのだろう。


「やはり、強いな。あれで決まらなければ、もうオレに手はない……」


「うむ、まこと見事な剣であった。怒りがお主の心を曇らせておらなんだら、倒れていたのは我が方であったかもしれぬ」


「……世辞はいい。経緯はどうであれ、実際に倒れているのはオレの方だ」


「否! 世辞ではない! あの瞬間、お主は俺を追いつめたのだ。あのまま剣で応じれば加減が出来ぬと悟ったゆえ、咄嗟に柔を用いたのだ。俺に剣を諦めさせたのは紛れもなくお主の力量よ!」


 敗者の胸中を優先しあくまでも謙譲を貫く残鬼坊だったが、あらゆる事象に欺瞞の種を見る若い疑念は、先駆者の温情を曲解なしに受け入れてはくれない。

 風が奏でる葉擦れの音に不快な焦燥を聞きながら、この男はどこまでオレを愚弄すれば気がすむんだ、と良知は思った。

 残鬼坊の礼節を支えているのは断じて優しさではない。

 余裕の裏側に隠された憐憫。悪びれもなく融和を差し出す優越感……。


 ようするに残鬼坊は、二人の力量差を遠回しに誇示しているのだ。剣で対応していれば先刻の交錯で勝負は決している。お前程度の若輩ならばいつでも殺してみせよう、というのが本音なのだ。

 考えてみれば、敵に背を向けて這いつくばっている体勢の良知は、まさしく生殺与奪の権を掌握されている。残鬼坊が戯れに剣を振り下ろせば、今すぐにでも首が落ちるのだ。


「…………くそっ」


 屈辱だった。

 己の全存在を賭けた一撃がいとも簡単に流されて、その偉業を成し遂げた敵は敗者を見下す優越感に浸っている。憧れは無惨に覆されて、釈然としない感情が良知の自尊心を傷つけた。


 武術家の決闘とはもっと高潔なものではなかったのか? 些細な所作にすら美意識を巡らせ、どこまでも理想的な主客関係を求めるのではなかったのか?

 それともオレは武術家として認められていないのだろうか? 残鬼坊にとってオレは、一山いくらのチンピラに等しき存在なのだろうか?

 暗影に沈む心は、暴かれてはならない秘密を隠し通すかのように邪推を募らせる。

 せめて誇りが欲しかった。命を投げ出して戦う自分にふさわしい、清き魂の証明が欲しかった。


 無念の戦慄(わななき)が全身を駆け抜けて、


「オレは生き恥をさらすつもりはない……殺せよ!!」


 渇望の本質を見出せないまま、覚悟の言葉が口をついて出た。この恥辱をそそぐためには潔く死ぬしかない、と思った。


「うむ、よくぞ言うた。その挺身、まさに武人の誉れよ。……だが、まだ殺さぬ。無益な殺生の禁は、甕星の民にとっても絶対律ゆえにな」


「…………!? ふざけるな! 甕星の民が今までにどれだけ多くの人を殺してきたか! その独善的な傲慢がどれだけの人を不幸にしてきたか! 知らないとは言わせない!!」


「お主の理屈も分からぬでは無いが……。しかしな、無益な殺生を好まぬという言に嘘は無い。甕星の民は、戦禍を招くお主ら神威との邂逅すら望んではおらなんだのだ」


 少年の覚悟を軽くあしらいながら、残鬼坊は偽善の論理を語る。

 求道者の悟りを感じさせるその態度に妙な憤りを覚えた良知は、またしても感情の障壁を広げて過敏に反応した。

 這いつくばったまま反論しても弱者の遠吠えに過ぎぬと理解はしているが、正体不明の焦りに後押しされて、叫びを止めることができなかった。


「きれいごと言ってんじゃねぇ! なら、この風は何だ!? この混沌の風を吹かせるのは、人を狂わせて殺し合いをさせるためだろうが! 自分の手を汚さなければ人が死んでもいいってのか!?」


「……何度でも言おう、少年よ。科戸ノ風は覚醒の因子。巧妙に隠された人の罪を暴き、不変の道理に基づいてその穢れを断罪する。表層化する行為の正邪は当人の心に委ねられておるゆえ、我らの一存ではどうにもならぬ事よ。……お主の同志にも、風の恩恵を受けて能力を手にした者もおるであろう? 悪しき者は狂気に堕ち、清き者は生存するための力を手に入れる。それが嘘偽りの無き風の本質よ」


「…………!? またそうやって他人に押しつけるのか!? 自分たちの身勝手を棚に上げて、犠牲者たちを辱めるのか!? 見損なったぜ! 親父に聞かされてきたあんたの武勇伝も、所詮は誇張された絵空事だったってわけか!?」


 良知が信奉する正義の観点からすれば、残鬼坊の虚言全てが憎むべき悪行だった。

 かつて父親が崇敬した伝説の武人。自分は一生かかってもあの人に追いつけはしないと、笑顔混じりに語って聞かされた憧憬の対象。

 その落ちぶれた姿は裏切りにも等しく、良知は死によって与えられる誇りの美を更に強く意識する。

 自己防衛の裏側に隠された、あざとい作為を放置して……。


「真実を見るのだ! お主は神威の理念に踊らされておる! 彼奴らは人間の善意に付け込む毒虫! 気高き者を酷使して私腹を肥やしておる! 為政者の言が常に正しいとは限らぬのだ!」


「黙れ! 神威はこの国を真剣に憂えている! 所属する能力者たちも、情に厚く思いやりに溢れた人ばかりだ! 勝手な推測で批判するな!」


 神威は正義の集団だ。善を以て悪を断つ、誇り高き武徳の体現者だ。

 そう信じているからこそ良知は、復讐という目的を神威の理想に交差させる道を選んだ。

 もし仮に、神威が残鬼坊の言うような組織であったとしても――

 少なくともオレは自分自身に嘘をついていない。だから……この場で死んでも後悔しないだろう。この国の男たちがそうして来たように、潔く散って誇りと美意識を昇華することが自分の生きた証明になるのだ。


「そこまで言うたからには、お主……命が惜しくないというのだな?」


「…………! 当たり前だ! 復讐を誓ったあの日から……とうの昔に覚悟はできている!」


 気高い決心に呼応した全身が大きく揺り動かされる。魂の奥底より響く切実な震えだと感じた。


「……そうか……なればもうよい。これで話は終わりにするとしよう」


 不意に肩関節の拘束が解かれ、体に自由が戻った。思想の衝突を経て斬首に至ることを予測していた良知は、突然の解放に困惑する。

 どうして殺さない? という疑問が脳裏を専有し、膝頭を地に置く体勢のまま立ち上がることができなかった。


「これ以上の論議は無意味だ。今日の所は……痛み分けとしておこう」


 剣を鞘に収めながら、片手落ち極まりない裁定を下す残鬼坊。

 あからさまな憐れみは少年の心奥深くに波紋を呼び、屈辱の輪を広げながら諦めに似た静寂を施していく。

 やはりオレは完全に格下なのだ、と良知は思った。


 勝負は決していた。敵に背を取られ、いつ殺されてもおかしくない状況だった。それなのに、残鬼坊は数々の暴言を看過して強者の余裕を見せつける。つまりそれは、良知が甕星の民にとって取るに足らない存在であるということだ。

 無慈悲に尽きる冒涜。しかしその無礼を反芻すればするほどに、体を支配していた屈辱の戦慄きは不思議と収まっていく。


 ――諦観。

 震えを諫めた抗力に名前を授け、良知は心に折り合いをつけようとした。

 が、彼はすぐに知ることになる。自分自身にかけられた欺きの呪。自己を過大評価する半可通こそが欺瞞の源泉であるということを。人が背負う咎の中で最も醜く、それだけに討ち破り難い蒙昧の性質を。


「屈辱であろうが許せ。お主はまだ若い、逸る必要は無いのだ。この難行を乗り越え、更なる高みを目指すが良かろう。死すべき時に死し、生くべき時に生くのが武人の大勇ゆえにな」


「……なんで……なんで死なせない……? オレを馬鹿にして楽しいのか……!?」


 無謀と感傷を包含する若輩の叱責を受けた残鬼坊は、しばしの逡巡の後に目を細め、


「……すまぬ。俺は武士として、人間として……怯えている者を斬ることは出来ん」


 静かに、荘厳に、辛い現実を告辞するかのように呟いた。


「…………なに?」


 理知の器から弾き出された意識で呆然と問い返す。言っている意味が理解できなかった。


「……怯えて、いる……?」


 模索の一環に自問してみると、激しい目眩に襲われた。世界がぐるぐると回転し、拒絶と求道のせめぎ合いによって生み出された遠心力が、粘着的な白濁の霧を薙ぎ払っていく。

 残鬼坊の宣告は、伏せられていた暗愚をほのめかすことで戦士が知るべき酷な智慧を啓発した。


 ……オレは……怯えている!?


 その真実を認めてしまえば、自分を支えているたった一つの自信までもが無に帰してしまう。そんな予感があったが、心を戒める呪詛は黄金の溶液となって新たな奔流となる。

 羞恥の啓示が喚起した、価値観の流転。

 そう、屈辱でも、ましてや誇りでもなかった。

 体を震わせていた嫌悪の正体は、多くの矛盾を孕んだ死への恐怖だ。正当な躍動だと確信していた屈辱の怒りは、単なる虚勢の産物。名誉を実践するための思想は下劣な策謀に取り込まれ、死への不安を隠す方便に成り下がっていたのだ。


 ……姑息で小賢しい男だ、オレは!


 狂おしい衝動が胸を突き上げ、思考の虚偽を露呈する。

 もう一度心を欺けば良かった。逃げてしまえれば良かったのに――

 逃避を疎み続けてきた良知の精神構造は、それを許してはくれない。


 力が抜けた。恥の求心力が、自尊を引き裂いて舞い狂っていた。

 オレは――


「……負けた、のか……」


 残鬼坊に。

 そして自分自身に。


 戦いの終わりは急激に訪れ、暴かれた欺瞞を祝福しながら一陣の突風が吹き抜ける。


 風。

 混沌の風。

 自責の象徴たる敗北の風……。


「……どうやら滞りなく遣り(おお)せたようだな」


 赤く明滅する風上の空を仰ぎながら残鬼坊は呟いた。

 言われるまでもなく任務の失敗を察していた良知は、踵を返した残鬼坊の背中を呆然と見上げることしかできない。皮肉なことに、透過性を増した精神は風が取り憑くべき夢の破片をことごとく祓っており、その福音がより一層自虐心を強くしている。


「……お主は今、己の裡に巣くう虚偽の根幹に触れておる。ゆえに、この風に呑まれる事も無いであろうよ」


 安寧を打ちのめす苦渋の真理を残して、幻想は消えた。


「お主は必ず強くなる。自己を陶冶する耐え難き行路の暁にまた相まみえよう。……無為月心流兵法、石上良知よ」


 肩越しに振り向いて盟友の名を呼んだ残鬼坊は、威厳と仁慈(じんじ)を兼ね備える顔貌で子供のように笑った。


「…………あ」


 無意識に手を伸ばして引き留めようとしたが、男の背中はすでに消えていた。現れたときと同様、一切の気配を絶った見事な去り際だ。


 一人取り残された良知は、通り過ぎていく風に煽られながら、ほんの数分前に起こった命の遣り取りを回想する。

 切り結ぶ太刀。怯えを映す刃文。根本的に異質な超越者の圧力。折れた肋骨に気が回らないくらい、極限の攻防が続いていた。生き延びられるはずのない戦いだった。


 良知は今一度、生存を実感するために両の手のひらを凝視する。地に膝をついたまましばらくそうしていると、突然封じられていた回路が開いて熱い気持ちが溢れ出した。

 求道者の道理を訴えるその真摯は良知にとって馴染み深いものであったし、如何にして制御するかという具体的な方法も心得てはいたが、彼はあえて理知を放棄する術を選んだ。

 惰弱な感情をかなぐり捨てて、振り上げた握り拳を思い切り地面に叩きつける。

 何度も、何度も、皮膚と砂利の摩擦によって血が噴き出しても、肉が削げ白い骨が見えてもなお殴り続けた。


 痛かった。

 拳ではなく、心が。


 それはともすると自己陶酔に陥る愚かな行為だったのかもしれないが、不器用な少年は新しい誓いと戒律を刻むために肉体的な実感を必要とした。

 きっとこの痛みが何かを変えてくれる。苦難を乗り越えるための覚悟を授けてくれるかもしれない。

 人間には、曖昧な予感に頼らなくてはやり切れないこともあるのだと、若い良知は始めて知ったのだ。

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