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甕星の民  作者: 憂羽
18/22

第十八話 狂った道化(1)

 滑稽なほど丁寧なお辞儀で「よろしくお願いします」と場違いな挨拶をしたその少女は、小さな手足を振り回しながら亜衣に格闘戦を仕掛けてきた。

 《不腐妣》と呼称されていた華奢な少女。オーバーサイズのTシャツから伸びる手は細く、とても格闘に適しているとは思えないが、接近戦の拳技に特化されたスタイルはなかなか様になっている。


「あんた、初めて見る顔ね。チビッ子は家に帰ってテレビでも見てなさいな!」


「すいません、わたしは忌のおにいさんを守るんです! アニメを見ている場合ではないんですよー!!」


 蔑視の軽口に生真面目な返答で応じた少女は、亜衣の足を止めるべく左右のパンチを繰り出してきた。

 左ジャブから連携して右のストレート。基本に忠実な連続攻撃だが、動作が大振りで見切りやすく、かといってスピードに長けているわけでもない。

 ただ――

 幼い体型からは想像できないほど、不自然に重かった。槍の柄で受け流しているにも関わらず、身体の中心にまで衝撃が響いてくる。更に、少女の掌を覆う禍々しい手甲からは暗闇に映える瑠璃色の光が放電しており、規格外の怪力に加えて霊的な力をも警戒しなくてはならないのは明白だった。

 容姿が容姿だけに侮っていたが、用意周到な《黒犬》が自身の護衛を任せているという事実から考えても、油断は命取りになるだろう。


「もう……ホント、やりにくい!!」


 しかしながら、この年端もいかない少女を傷つけるのには少なからず抵抗があった。彼女がどのような経緯で甕星の民となったのかは分からないが、自分自身の意志でテロに参加したとは考えにくい。

 きっと洗脳され、呪的な調整によって高められた身体能力を利用されているだけなのに……。

 それでも亜衣は戦わなければならないのだ。


 ――世界の平和を守るために。


 自分の行動はこの国の命運に直結している。自分が汚れるだけで大勢の人が助かるのならば、多分あたしは汚れなければならないのだろう、と思う。


「……スキあり、です!!」


 そんな亜衣の迷いを不腐妣は逃さなかった。槍の防御をかいくぐった曲線軌道の拳が、無防備な右脇腹に打ち込まれる。

 肝臓を突き抜ける鈍重な痛みに息が詰まった。続けざま、脇腹にあてがわれた手甲より発生した雷が、亜衣の肉体を侵食する。


「…………ぁっ!!」


 絡みついた雷撃が全身を仰け反らせ、その痺れを伴う衝撃に耐えきれず亜衣は膝をついてしまう。咄嗟に簡易結界を巡らしたおかげで致命傷を免れはしたものの、拳打と雷撃の複合攻撃は想像を遙かに超える威力を秘めていた。

 甘っちょろい感傷で相手の境遇を哀れんでいる場合ではない。下手をすれば命を奪われているところだ。


「あの……だいじょうぶですか?」


 足先に力を込め立ち上がろうとしていた矢先、頭上から声が聞こえてきた。罪のない表情でこちらをのぞき込む不腐妣は、敵である亜衣を気づかう素振りを見せている。

 こちらを油断させる目論見なのか、あるいは戦いに慣れていないのか。どちらにしても、自分が戦局を掌握しているとでも言いたげな少女の行動は、神威の一部隊を預かる亜衣のプライドを刺激するには充分過ぎた。

 あたしはコドモに心配されるほど落ちぶれてはいない、と亜衣は思った。


 もし彼女が平素の洞察力を発揮していたならば、目の前の綺麗な瞳に何の下心も含まれていないことくらいは簡単に見抜けたはずなのだが、戦闘という非人間的な行為は些細な思いやりさえも許してはくれない。

 だから亜衣は、心に湧き上がる苛立ちの正体から目を背けてしまうのだ。子供の純真を疑っている自己の汚さを認めても、解決することのない嫌悪が募るだけで益はないのだから。

 大人に利用される少女への憐憫は、この時点ですっかり消え去っていた。


「……このっ……調子のってんじゃないわよ!!」


 風になびく前髪をかき上げて揮発的な感情を抑制した亜衣は、屈んだままの体勢で両手を突き出した。

 少女の腹部を捉えた左右の掌に、驚くほど柔らかな手応えが返ってきたが、そんな痛ましい感触も歪んだ熱狂をなだめるだけの抑止力を持たない。


「一葉ぁ! まずはこのチビっ子をなんとかするわよ!!」


 体をくの字に曲げて吹き飛んだ不腐妣を一瞥し、亜衣は後方の一葉に指示を出した。

 はためく撫物衣をそのままにコクリと頷いた一葉は、高位の精神を導いて術の行使に入る。


「……我、陰陽五行、神代の理をもって願い奉る……」


 術の始まりを知らせる言霊は、清浄の霊気を奏でながら術者の祈りを明瞭にした。確固たる輪郭を与えられし誓願は、辺りを浮遊する結縁の武神具―降神符・葛葉(くずは)―に自然律を送り込み、世界をシンボリックに操作するための法則を凝縮させる。


「……陰陽の氣、昇りて陽、降りて陰。五行の氣、巡りて相生、違えて相剋……」


 一葉の周囲を旋回していた五枚の咒符は言霊の霊威に応えるかのように光り輝き、次第に白銀のピンポン球へと姿を変えていく。


「……細雨(ささめ)銀糸(ぎんし)に願うは降神。御名に仇なす妖鬼を避け、荒ぶる御霊を祓い清め給え……」


 咒言による力の指針を受け入れた衛星は、荒々しい攻撃性を象徴しながら小刻みな振動を開始した。

その様を確認した一葉は、衣の袖口から一枚の咒符を取り出して眼前の空間に配置する。そして、細い指先で数種の手印を切り結びながらそっと息を吹きかけた。

 放たれた照準の符は、吸い込まれるように不腐妣へと――


「…………急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 術の完成を知らせる定型句と共に、待機していた衛星から無数のレーザー光線が吐き出された。攻撃の要となる銀色の糸は、一度上空へ向かった後それぞれが大小の放物線を描いて不腐妣―正しくは少女の前に浮かぶ咒符―へと急降下していく。


「わ、わわぁっ!!」


 銀糸の圧力によって再び吹き飛ばされた不腐妣は、降り注ぐ光の雨と地面の間で哀れな痙攣を余儀なくされた。

 手、足、腹、胸、頭、あらゆる部位を貫かれた幼い肉体は、赤い体液を撒き散らしながら地面を跳ね回る。

 死んじゃったわね、と亜衣は思った。

 一葉が行使したのは『禍式神咒(かしきしんじゅ)細雨(ささめ)』と呼ばれる退魔の業だ。対象の破壊だけを目的とした五行金氣の針が、狙った相手を無惨に刺殺する。可哀想だが、あの少女はもう生きてはいないだろう。


「……さ、次はあんたよ。こんな小さな子を見殺しにした罪、ちゃんと償いなさいよね」


 横たわる骸から視線を逸らした亜衣は、方陣の前で傍観していた黒犬を睨みつける。吹き荒れる風に漆黒の瞳を細めていた男は、仲間が殺されたにも関わらず涼しげな顔で微笑していた。


「……ちょっと……何笑ってんのよ……」


 命を軽視する黒犬の態度は亜衣をひどく苛立たせた。不敵と言うにはあまりにも無神経な笑み。この男は、無辜の少女を戦場に引きずり出し、彼女が将来的に得たはずの笑顔や幸せを奪ってしまったことに何の負い目も感じていないのだ。


 気に食わない。

 絶対に認めてはいけない!


「このっ……!」


「亜衣さん、離れて下さい! まだ終わっていません!!」


 込み上げる憤怒に我を失いそうになったとき、一葉の声が亜衣を呼び戻した。


「……金氣、黎明(れいめい)(つゆ)に水を採る、水氣、木の兄(きのえ)と混じりて榊の緑樹を生じ……邪なる土氣、(つちのと)を相剋によりて祓わんと欲する……」


 後方より聞こえる新たな咒言に、亜衣は思考と事態との食い違いを見つけた。

 まだ終わっていない、という一葉の言葉を反芻しながら周囲を見回す。程なくして、黒犬が浮かべていた微笑の真意を亜衣は知った。


「…………どうして」


 土煙の向こう側に、ゆっくりと起きあがる全身血だらけの少女。肉が削げた両腕で小さな肩を抱きしめながら、もの悲しくたたずんでいる。

 その凄惨な光景は、心奥に封じた罪悪の扉を強引な囁きでこじ開けて――

 直後、すり替えられた憐憫は不可解な恐怖へと変貌した。


「……咎を纏いし依身(よりみ)に宿り、五彩の獣を断つは白銀(しろがね)、西の(すな)より導き来たりて、我の願いを聞き入れ給え……」


 抑揚を強める言霊が大気に漂う霊的な粒子を招集し、刺々しい気塊を練り上げる。

 直接目視しなくとも、背後に感じる霊気のうねりで一葉がどのような術を修しているかは察していたから、亜衣は何とか自分に言い聞かせることができた。

 ――符を依代(よりしろ)とする聖獣の召喚。

 今度こそあの少女は死ぬ。どれだけ打たれ強くても、呪的防御に長けていたとしても、穢レの伝承者のみが紡ぐことを許された護方咒は、確然たる祓いを約束するはずだ。


「……散じて滅す。其は清浄なる神代の神咒(かじり)白ノ言乃葉(しろのことのは)……」


 少女の死を望んでいるわけではない。しかし亜衣は、ほんの僅かな誤算が円滑な未来像に亀裂を生じさせることを本能的に知っていたから、自己を肯定するために哀れな生贄を捏造してしまった。

 他者を踏み台にしなければ成り立たない正義なんて、葛藤を呼び込む悪因でしかないのに……。


「…………急々如律令!!」


 神伝の作法によって具現化した護方獣は、白色の殺意を纏って亜衣のすぐ横を駆け抜けて行った。

 全長五メートルに届こうかという虎の気塊は、音もなく疾駆して不腐妣に直撃する。跳ね飛ばされ、宙を舞い、抵抗が不可能な状態で、少女は脇腹の肉を喰いちぎられた。

 あっという間の出来事だ。時間にして一秒にも満たない。


 スローモーションの世界の中で、役割を終えた白虎は西の空に霧散し、不腐妣は頭から地面に落下する。

 亜衣は少女の頭蓋が砕ける鈍い音を聞いたような気がした。


「……今度こそ……」


 手槍を握りしめ、亜衣は小さく息を吐いた。

 過去に幾度となく悲惨な戦場をくぐり抜けてきた亜衣だったが、これだけ幼い子供を相手にするのは初めての経験で、心は釈然としないやり切れなさで一杯だった。この場に居合わせたのが感情に流されやすい平凡な人間だったならば、嫌悪を引き金に風に裁かれていただろう。

 もちろん、自己の行動原理を脅かす悪夢を終わらせることが最優先だったから、少女の死に安堵を覚えたのも事実だ。

 正義を実現するため、より多くの人々を救うために、多少の犠牲は不可欠だから……。


 それゆえ、幽鬼の如く起き上がり風にゆらめいた少女の姿は、亜衣の心に深い罪の意識を喚起する。


「……あんた……なんで生きてんのよ……!?」


 腹を喰い破られ体の各所に穴を穿たれても、幼い戦士はまだ動いている。虚ろな瞳で耐え難い痛みを訴えながら、懸命に足を引きずっている。


 どうして?


 どうして死なないの?


 どうしてそこまでするの?


 錯乱する脳は多角的な思考を許さず、清潔な部屋に汚れた塵を降り積もらせた。


「ちょっと…………さっさと死になさいよぉっ!!」


 少女の脇腹からのぞく臓腑の赤が、亜衣から明晰な思索を奪い去っていた。

 怒り、憐れみ、哀しみ、恐怖。方向をすり替えられた感情は、安易な発散を企てて当面の敵へと注がれる。


 震える膝を無理矢理に動かし前のめりに飛び出した亜衣は、直立が精一杯の傀儡に槍を突き出した。躊躇することなくねじ込まれた紅蓮の穂先は、不腐妣の喉元を違えることなく貫き通す。驚くほど気楽な手応えに言い知れぬ不安がよぎったが、邪魔な矛盾を払拭するかのように少女の体を引き倒し、首の裂け目から血が噴出するのを確認してから意識の糸を放った。

 術のイメージを固定すべく脳裏に描かれた残酷な心象。そこには、人間性の放棄をいとわない自分がいる。

 涙が溢れ出しそうになった。


「せめて苦しまないように殺してあげるから!!」


 悲壮な弁解を忍ばせた叫びが、術の発動を確定する。

 高次の精神操作によって生み出された灼熱の霊焔。植えつけられたのは、邪念の温床となる少女の顔面だ。


「……ぁ……ぅぐ……!!」


 虚ろに喘いでいた瞳が大きく見開かれ、血ぬめりの肌がぶくぶくと泡立つ。

 脳内に顕現した火焔によって皮膚が焼かれているのだ、と亜衣が認識したときには、すでに不腐妣の上半身は連なる数本の火柱に犯されて、その発生元である頭部は黒い肉片を撒き散らしながら破裂していた。

 まるでホラー映画のワンシーンを見ているようだ、と亜衣は思った。


 奇妙なほどに現実感のない現実。

 立場と行動の矛盾が、思考を含めた体中の感覚を麻痺させていくのが分かる。弛緩した指先が槍を落としそうになったが、寄せ集めた気力を総動員してそれを阻止した。

 何かにしがみついていないと、心が壊れてしまいそうだった。


「……随分と惨いことをするね。相手は子供だよ」


 傍観を決め込み少女の窮地にも平然と儀式を継続していた黒犬が、亜衣の勇断を非難した。漆黒を讃えた瞳が、死者への同情に歪んでいる。


「……子供でも、あんたたちの仲間よ。こうしないと……また大勢の人が死ぬんだから……」


「大勢の人、か……。つまり、君は不特定多数の他者のために自らの手を汚したというわけだ」


「……そうよ。あたしたちは、あんたたちの霊的テロから罪のない人々を守るためにここへ来たのよ。だから……世界の平和のためなら例え子供だって……」


「……正義を貫くためならば僕たち悪人の命を絶つこともいとわない、というわけか。なるほど、まさに正論だね」


 黒塗りの呪符を方陣に投げ入れた黒犬は、言葉の虚偽を射抜く切実さで亜衣を見据えた。視線の裏側にあからさまな侮蔑を含ませて。


「でも、無理はしない方がいい。君たちが標榜する正義は、人の罪を昇華するほどの大義を持たないのだから」


「なによ、無理なんかしてないわよ! あたしはただ、自分たちのことしか頭にないあんたたちが嫌いなのよ! どんな言い訳をしてみたって、弱い人たちを一方的に傷つける甕星のやり方は、卑怯で汚い単なる暴力なんだから!!」


 正義に生きる女子高生という記号的な人格を演じながら、きっと良知ならこう言うだろう、と亜衣は思った。

 誰からも認められず否定に否定を重ねる現状を打破するため、もしくは、肯定を信奉し他者の心に自己の居場所を見つけたがる女性特有の願望を満たすために、最も大切に想っている男の象徴を手繰りよせたのだ。

 献身を軽んじ自己防衛を画策している時点で彼女の正義は破綻しているが、今の亜衣はそのような欺瞞を用いなければ精神のバランスを保てないほどに追いつめられている。


「……あんたの態度ってさ、嫌味でホントにムカツクのよ。さっさと黙らせてあげるから、覚悟しなさいよね」


 頭上で一回転させた火焔の槍を脇に構え、亜衣は黒犬と対峙した。

 平和のために甕星の民は排除しなくてはならない、と正義の名分を心中で復誦しながら足を進める。途中、焼け焦げた少女の遺骸を迂回するときは、努めて視線を上向きにした。


「前から聞きたかったんだけど、あんたたちってさ、国を敵に回してまで何がやりたいわけ? 政治に干渉したいわけでもなさそうだし……あげ句の果てには小さな子供まで連れ出してさ、狂っているとしか思えないわよ」


「……それならば、悪のテロリストに純真を利用されているだけの子供を殺そうとした君も、僕たちと同様に狂っているよ」


 会話の論点をすり替えて道理を取り戻そうとした亜衣だったが、冷酷な黒犬はそれを許さない。隠された汚濁を引きずり出し、息が止まりそうな悪意の棘を突き立てる。

 不愉快だった。この男には他者への礼節というものが根本的に欠けているのだ。


「やっぱあんたって…………もういい! 今日こそは終わらせてあげるから!」


 勝利のためならば手段を選ばない、狂気に取り憑かれた人間の末路を目の当たりにして、亜衣は覚悟を決めた。

 この男は危険だ。ここで殺しておかなければ多くの人が不幸になる。殺すことが即ち善なのだ。

 思考を放棄し正義の理念に染まった亜衣は、ためらうことなく火焔術の糸を飛ばす。が、その悲壮な精神の躍動は、微笑した黒犬の不可解な一言によりいとも簡単に断ち切られた。


「ふふ、そんなに心配することはない。君は狂ってなどいないし、誰も殺めてはいないのだから」


「…………え?」


 呵責(かしゃく)の狭間に滑り込んだ矛盾だらけの希望。混乱の因子を投げ込まれた心は、平静を演じようとしていた努力を忘れて新たな渦流(かりゅう)を創り出す。

 それはあたかも、大海に投じられた一滴の暗色が、超越的な神秘を行使して静水を血液に染め変えるように――

 無論、その赤い海面に浮かぶのは、惨たらしく暴行された少女の遺体だ。


 亜衣は自分の行動を振り返り、手のひらに残る罪悪感と高熱に晒された頬の火傷を再認した。


「な、何言ってんのよ……またお得意の動揺作戦ってわけ? それとも、この期に及んで命乞い?」


「……何を怯えているんだい? 僕たちを殺すことが、君の正義なんだろう?」


 虚勢の障壁を築いてみても、自我を侵食する心象は消えることはない。不愉快な風の愛撫を許すごとに血の海で泳ぐ自分の姿が固着して、現実と虚構との距離を縮めていく。感情の環を断ち切ろうとすればするほど、悪い予感は容赦なく絡みついてくるのだ。

 もしかするとこういうのが夢に憑かれる瞬間なのかもしれない、と薄弱な感性が一つの仮説を導き出したとき、ジャリ、と後方で玉砂利がこすれ合う音がした。


「……彼女は死なないんだ。いや、死なないというよりは、死ねないというべきか」


 完成した恐怖の到来は、不可逆の杭となって心臓を穿つ。


「彼女は腐らずの姫。外道の錬金術によって生み出された不死の傀儡……。ほら、穢れた八柱の雷神を引き連れて、黄泉国(よもつくに)からのご帰還だ」


 黒犬の視線に魅入られた亜衣は、呪詛のような強制力に抗えぬまま振り返った。


「…………あ」


 平衡感覚を狂わせる、忌避すべき真理との対面。

 闇夜の一角を切り抜いた絵画のような平面に、八つの放電が張りついていた。

 頭、胸、鳩尾、陰部、左腕、右腕、左足、右足。醜く変貌した破損箇所を修復するように、濁った瑠璃色が体表を覆い隠している。空間を軋ませる雷光の発生源は、ゆらゆらと蠢く手甲に違いなかった。


「…………ダメ、来ないで……」


 いびつな頭部を揺り動かし、破れた腹から生焼けの臓腑を滴らせながら、少女の遺体がゆっくりと歩み寄ってくる。


 亜衣は反射的に身構えようとした。心を脅かす怪物との間に、わずかでも遮蔽を置きたかった。けれども、非日常の光景によって凍らされた体は少しも動いてくれなくて……。

 多くの苦楽を共にしてきた肉体の裏切りに失望し、それでも強引に足を動かそうとすると、急に膝の力が抜けてその場に崩れ落ちてしまった。


「……イヤ…………動け……動いてよぉっ!!」


 膝を叩いて肉体の鼓舞を試みるが、虐殺の罰を突きつけられた手足は沈黙を守り続ける。


 もう限界だった。背筋を駆け巡る悪寒こそが今の自分にふさわしい反応だと感じた。

 一介の高校生に過ぎない亜衣を急造の戦士に仕立て上げていた嘘が、魂の純化機能により暴かれて――


 素肌に触れる玉砂利の冷たさから無慈悲な死を連想したとき、亜衣はこらえきれず嘔吐した。

 ポロポロとこぼれ落ちる涙の一粒ひとつぶに、強さの欠片を奪われていくようだった。


「……同じ対象に向かって、憐れみ、怒り、恐怖する。君の心は本当に矛盾しているね」


 方陣に掲げた左手の印を組み替えながら黒犬が言う。その口調には、優位に立った者が時折見せる弱者への憐憫が混入していたが、両の手のひらで口を塞いでいる亜衣は何も言い返すことができない。のみならず、肉が焦げる臭いに鼻孔の奥をまさぐられ、克己の努力も空しくもう一度嘔吐した。

 羞恥と悔しさの中で、逃げてしまいたい、と反射的に思った。


「……あたしは…………ホントは、こんなの、イヤ……」


 理知を遠ざけた本能が、御しきれない悲鳴の吐露を始める。


「……イヤ……イヤなのよ……殺すとか殺されるとか、強いとか弱いとか……だって、そんなの楽しくないし、辛いだけだし……いつもあいつと一緒にいられるからって……がんばれると思ったのに……でも怖いし……イヤ……やっぱりイヤ…………イヤなんだってぇっ!!」


 感情に忠実な少女を演じて逃避を正当化することが、彼女にあてがわれた唯一の足掻きだった。

 その醜悪な祈りは風の標的となり、亜衣の魂を異界に引きずり込もうとする。だが心が崩壊する寸前、頬に打ち込まれた感情の熱が取り返しのつかない事態を阻止してくれた。


「……亜衣さん! しっかり! しっかりして下さい!!」


 ピシャリ、と頬が弾ける音を聞いた亜衣は、おぼろげな心で同行者の存在を認識した。

 いつもと変わらぬ、理路整然とした優しさ。冷静で厳しいけれど、決して人を傷つけようとしない瞳だ。

 一葉は亜衣の肩に手を乗せたまま足を折り曲げ、吐瀉物に膝がつくのも気にせずこちらを見つめている。


「……大丈夫です、亜衣さん。わたしたちは間違っていません。敵の作戦に惑わされてはダメですよ」


 平易な言葉で励ましながら、ふんわりと微笑みかけてくれた。

 亜衣は自分の頬を伝う涙の質が変化したことに気づき、感謝のあまり部下である一葉に抱きついた。恥も外聞なくすがりついて、壊れかけた心を修繕しようとした。

 誰でもいい、自分の行動を肯定してくれさえすればそれで良かった。


「亜衣さんのおかげで、充分に敵の戦力を削ぐことができました。後はわたしがやりますから、ゆっくり休んでいて下さい」


 やわらかな所作で亜衣の抱擁を抜け出した一葉は、袖口から取り出した数枚の咒符を体の周囲に浮かばせた後、凛々しく立ち上がって黒犬の前に歩み出た。

 世間知らずゆえ純粋な優しさを保持している撫物士の横顔からは、持ち前の柔和さが完全に消え去っている。


 感情を飼い馴らしたまま、彼女は怒っていた。


「甘すぎるね。全てを捧げる勇気が無いのなら、戦場になど来ない方がいい。見せかけの正義は虫酸が走る」


「……あなたは本当に非道い人です。勝利のためならば反魂(はんごん)で自然律を歪めることすら厭わない……。もう、許しません」


 挑発に応じることなく静かに言い放った一葉は、人間の尊厳を踏みにじる黒犬を睨みつけた。連綿の自律によって昇華された仁愛(じんあい)が、膨れあがった感情の正しい使い方を諭しているかのようだ。


「どうして人は、他者を傷つけなければ生きていけないのでしょうか。道に通じ、世を憂える人間であるならば尚更その苦悩は大きく、あなたの魂も、本当は他者の犠牲など望んではいないはずなのに……残念です」


 怒りの端々に隠しきれない優しさを現しながら、一葉は眼前の咒符をそのまま二本の指先に巻きつけた。邪悪な観念を祓うかのように輝く白銀の指先。それを矢尻に見立てて、弓を引き絞るような恰好をとる。

 単なるポーズではない。目視することはできないが、一連の動作は平行世界に隠されている不可視の矢を射るための術式だ。


「ふふ、穢レの一族が継承する神殺しの兵器というわけか。噂には聞いているよ。けど……」


 神をも屠ると言われる神代の強弓を前にしても、黒犬は余裕の表情を崩さない。


「申し訳ないが、今日のところはお相手を辞退させていただく。もう、ここにいる必要はなくなったからね」


 何かを確信したかのように微笑んで、印を切り続けていた左手の動きを止めた。

 一瞬の静寂。その後――


「…………!?」


 妖しく明滅した呪方陣より、一陣の突風が吹き抜けた。

 荒れ狂う嵐の如く木々を薙ぎ、人々を混乱へと誘う悪意の風は、急激に霊威を増して遙か彼方の市街地へと勢力範囲を拡大していく。


「儀式は成った! これにより、この地は清浄の試練場と変ずるだろう。後は、大いなる天津甕星の神謀りを以て人々の神性開顕を待つのみだ!」


 愉悦の表情で空を仰いでいる黒犬を視界の片隅に収めながら、亜衣は心の中心が激しく揺さぶられるのを感じていた。今までとは比較にならないほど感情の動きが明瞭となり、その過敏が正負のバランスを危うくしている。少しでも気を抜けば、理性を奪われて一つの感情に染まってしまいそうだ。

 何度居合わせても慣れることのない、この忌まわしい感覚。


 風。

 混沌の風。

 人々の命を奪う殺戮の風……。


 また負けちゃった、と亜衣は思った。


「……さて、開かれた門を前にして長居は無用だ。今日はこれで失礼するよ」


「逃がすとお思いですか?」


「ふふ、如何に君が優れた能力者だとしても僕たちを止めることはできないよ。この風の中で殺意を抱くことはまさに自殺行為だからね。それに……」


 申し合わせたかのように瑠璃色が閃き、雷撃に絡め捕られた一葉の体が崩れ落ちる。黒犬の微笑に狙いを定めていたため、背後に迫っていた不腐妣に気づけなかったのだ。

 逃がしてはいけない、という部隊長として当然の考えがよぎったが、我が身を守ることに執心する亜衣は気力を振り絞ることができない。

 そうしている間にも、呪的な逃亡を謀る黒犬と不腐妣は、肉体の存在を希薄にして周囲の景色と同化を始める。


「いつもながら君たちの献身には敬意の念を禁じ得ない。けれど、早く気づくべきだ。神威が守ろうとしている無辜の青人草こそが、この顕界を滅びへと向かわせていることに。この辛く虚しい戦いは、君たちにとって無価値なんだよ」


 這いつくばる能力者二人に投げかけられた視線は、不思議なくらいの哀切に満ちていた。勝利の恍惚や弱者への偽善といった傲慢は全く見受けられない。そこにあるのは……他者を傷つける代償に刻みつけられた、救いようのない自己嫌悪だ。

 やり切れなかった。勝利者が勝利を望まない戦いに、どのような意義を見いだせばよいのだろう?


 口ごもった亜衣が顔を上げたときには、もう敵の姿はなかった。

 張りつめた緊張を一息に断つ、日常生活にも起こりうる雛形としての諦念。風を吐き出す呪方陣の脈動を戦闘の終焉となぞらえた亜衣の胸に、いつもの喪失感が押し寄せる。けれど、そんな自分が何を失ってしまったのか、何を求めているのか、といった肝心な部分への解答を、機能を弱めた心は教えてはくれない。


 取り残された戦士に与えられたのは、拒絶が育むひとひらの猜疑だけだ。

ナミは人間ではなく人工生命なので「死ねない」という特性を持っています。

亜衣の精神が不安定なのは、風の影響を受けているからです。平時では、もう少し安定しています。


今回もたくさんの術が出ています。


【術】

・護方神咒/白ノ言乃葉

符を依代として聖獣を召喚する。西方、白虎が穢れを祓い清める。


・神殺しの強弓

平行世界に隠されている不可視の矢を放つ。


・深き闇を亘る戒めの炎

対象の内部に数本の火柱を発生させる。強力な火焔を連続で浴びせる。


・伊邪那美の瑠璃糸

ナミの武神具-祟神の手-より発生する雷撃。


・黄泉戸喫

放電の霊力により破損箇所を修復する。


【武技】

・拳法/無心斎伝

ナミが無心斎より伝授された拳法。ボディブローが強烈。

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