第十六話 太刀語り(2)
聖者の咆哮を思わせる啓示の風は、池の水面を波立たせながら無知蒙昧な青人草を救わんと叫び続けている。
人々の傲慢によって疲弊する顕界に本来の活力を取り戻す。神産ノ巫女が賜ったその神託を実現するために選び出された方策が、人々の心根を試す科戸ノ祓だ。
風が備える精神的な働きは、完全なる清浄を顕示して人の奥底に潜む穢れた欲望を浮き彫りにする。穢れた欲望とは、煎じ詰めれば他人を利用して私欲を満たそうとする卑しい感情であり、利己に回帰することは明らかだ。
動物的な充足に重きを置いたがために、人はこの弱肉強食のシステムを安易に受け入れてきた。様々な葛藤を抱きながらも、本音と建前をすり替える狡猾さで自他を欺き、立場の強い者だけを生かす歪んだ歴史を紡いできた。虐げられる側の、小さくて弱い、あまりにも切実な祈りの声を踏みにじりながら。
人々はそろそろ気づかなくてはならない。世界の軋みに耳を傾け、真摯に願わなければならない。
――新たな時代の到来を。
力強き者が力弱き者を守るという、そんな当たり前の価値観さえ失われた心なき時代など、終焉を迎えて然るべきなのだ。
「利己の毒は人の神性を失わせる。降り積もる淫らな塵を取り払い、心を清浄に保つことが、神の子たる人間の責務であったはずなのに……」
哀れみと怒りが混在する視線で星空を仰いだ忌は、その瞬きの一つひとつに人の本性を再認する。
神の手を離れ自立の幻想に酔いしれた人間は、いつしか慎みを忘れ傲慢になった。反射的な感情のみで営む日々に疑問を抱くことさえなく、快楽のみを珍重する愚かな種族に堕落してしまった。
世界を腐敗させるその傾向は、これから先も変わることはないだろう。きっと気づかない。仮に気づく者がいたとしても、その希有な存在は虐げられ、残酷な嘲笑の中で自ら口を閉ざさなくてはならないのだから。
「欲望が欲望を塗り替える穢れた歴史を経て、人の器を借りる獣の魂があまりにも増えすぎた。この惨状の放置は、人の未来を閉ざすことにつながる。人々がいつまでも気づこうとしないのならば……誰かが、何らかの方法で悟得のきっかけを与えてやらなくてはならないんだ」
終わらない夢の中で迷走する哀れな人々の背中を押して、真実に目覚める手助けをする。その具体論が他ならぬ科戸ノ風であるわけだが、この風の意図はあくまでもきっかけを与えることに終始しており、それ以上の力は持ち合わせていない。そこから先は、風の審判を受ける個々人の裁量に委ねられている。
よってこの儀式は、巷の戯画娯楽や文芸などで展開されている独善的な救世の類ではない。ましてや、神威の連中が吹聴している、人の欲望を操作して発狂に追い込むような大虐殺でもないのだ。
「僕たち甕星の民には揺るぎない大義がある。全ての民は神の前で平等であり、だからこそ、自らの手で自らの罪を贖わなければならないと、そう信じているよ」
破滅へと向かうこの国を救うため――
心優しき人々が安寧の中で暮らして行けるように。
忌は方陣の安定を促す呪的な作業を続けながら、心に刻みつけられた不可侵の決意をあらわにする。それは、神の代理人という使命を担った自己を鼓舞させる言霊でありながら、戦闘という非人間的な行為でしか語り合えない為政者の走狗……神威の能力者たちに対する弁明でもあった。
すぐ隣で興味深げに耳を傾けている、ナミに向けて放たれたのではない。
この神聖なる禊の地に足を踏み入れた異分子の気配を、忌はすでに感じ取っていたのだ。
「立場の違いが本質的に同一であるはずの魂を隔ててしまった。真理に目を背け、あくまでも僕たちの邪魔をすると言うのならば……相応の神罰を覚悟しなければならないよ」
ひときわ強く吹き抜けた審判の風が、望まぬ縁で結ばれた神敵の到来を知らせる。
「…………なんだ、気づいてたのね。あいかわらず自分勝手な独り言が笑えたからさ、もう少しだけ聞いてようと思ってたんだけどぉ」
軽薄な口調で忌の背中を挑発しながら、槍を携えた少女が姿を現した。
この場にあまりにも不釣り合いな、もはや記号的でしかない高校指定の制服に身を包んだ《迦具土の娘》。そしてその後方には、若輩ながら退魔の世界ではすでに名を馳せている撫物符咒士《土御門ノ穢レ》が控えている。
「……忌のおにいさん……あの方たちは……」
「ふふ、彼女たちが神威の能力者……敵だよ」
来訪者の正体を知るなり、ナミは手甲に蓄えていた雷を解放して臨戦態勢に入った。敵を認識した瞬間に意識の切り替えを完了する。生まれて初めての実戦にしては及第の対応だったが、対峙しているうちに何かを感じ取ったのだろうか、すぐに緊張をやわらげ力の放出を止めてしまった。
「……あのー……忌のおにいさん?」
「なんだい?」
「……あの方たちが敵さんですか? ……わたしには、それほど悪い人たちには見えないですけど……」
敵の第一印象を述べて忌を見上げたナミは、困惑の表情で首を傾げている。
「ふふ、悪い人ではない、か。ナミの瞳がそう判断するのであれば、それが正しいのかもしれないね。何しろ彼女たちは、悪の組織からこの国を守る正義の味方だから……」
呪方陣への集中を維持しつつ後方を振り返った忌は、そこでようやく二人の神敵と正対した。
ナミが言った通り、視界に収まる年若い少女たちからは、おおよそ悪を連想させるような不穏な空気は感じられない。
どこまでも純粋で、真っ直ぐな、強い信念を秘めた瞳。それは、彼女たちが標榜する正義に恥じない輝きを放っており、敵という概念に対して“仲間をいじめる悪い人”という程度の情報しか持ち合わせていないナミが躊躇するのも無理はなかった。
「でも、困ったね。例え彼女たちに悪意がなくとも、僕たちと相容れないのは確かなんだ。彼女たちが信じている正義という概念は、常に対立勢力を必要とする危険極まりない思想だからね」
子供を教化するような口調を意図的に演出した忌は、嘲りの笑みを浮かべて敵を一瞥する。あからさまな皮肉が込められたその態度に、未熟な迦具土の娘は苛立ちを隠せない。
「何ゴチャゴチャ言ってんのよ! あんたの喋り方ってほんとウザいわね。いつも遠回しで、嫌味っぽくってさ! それに、危険なのはあんたたちの方でしょ。こんな気持ち悪い風で人の心をもてあそんで……また大勢の人が死ぬわよ。何の罪もない人たちが、あんたたちの身勝手に殺されるのよ!!」
激情に触発されて正義の言葉をがなり立てる迦具土の娘は、嫌悪を含ませた視線で悪の暴徒―つまり忌のことだ―を射抜いている。
画一的な思考で他者を裁く、自分本位の精神構造――
やはりこの娘も勘違いをしている、と忌は思った。
神威の能力者とは言っても、所詮は飼い慣らされた為政者の犬だ。この国に住まう大多数の人間たちと同様、思考の自由を封印され、真実を見極める能力を奪われているのだ。
権力者が提示する情報の一切を受け入れて、それが善良の規範であると信じて疑わない。
何が本当で、何が嘘なのか。そんなことには感心を持たず、必要としているのは、自分を守ってくれる居心地の良い存在理由だけなのだろう。
例えば、行動の意義を全面的に無効化してしまう、“正義”というスローガンのような……。
「君たちは、この風がどういうものなのか、本当に理解しているのかい?」
「はぁ? 今さら何言ってんのよ。知ってるから、わざわざこんなところまで来てんじゃないの。霊的テロ鎮圧のプロよ、あたしたちは」
優越感をのぞかせる呆れ顔で、迦具土の娘は続けた。
「風は霊的テロリズムの主軸でしょ。人の心に悪意を植えつける。風を浴びて悪意を植えつけられた人間は、除々に理性を奪われていき、最後には発狂にまで追い込まれてしまう。つまり、風の目的は人々に混沌と混乱をもたらすこと。そうすることで少しずつ国のシステムを消耗させ、最後には転覆させちゃおう、ってコトでしょ。うちの諜報班は優秀だから、あんたたちの情報なんて筒抜けなのよ」
与えられたマニュアルを暗唱するかのような口調。
忌は、見当違いも甚だしい少女の解説に、憤りを通り越して憐れみを覚えた。
「……理路整然とした見事な解説だけど……。どうやら、君たちが得ている情報には多くの嘘が含まれているようだ。風は、この国に真の清浄をもたらす禊そのものだ。善良な人々を選別し、邪なる者には自らの手でその罪を償わせる。それがこの風の本質。人の心を操作して破壊活動を行わせるなど、甕星の民が望むところではない」
二つの主張はいつまでも平行線をたどり決して交わることはないだろうが、それでも、無駄だとは分かっていても、忌は言わずにはいられなかった。
この穢れた顕界の中で、甕星の民と渡り合える唯一の存在。
至近距離で風に吹かれながらも夢の憑依を免れている、高位の精神力。
天津甕星の教義を理解することさえできれば、我々と同じ道を歩むことも可能であったはずなのに――
「うっさいわね! 言い訳は見苦しいっての! そっちの言い分がどうであれ、この風が原因で多くの命が奪われるのは間違いないんだから! あんたたちは人殺しなのよ! さっさと儀式を中断して、刑務所の中で罪を償って来なさいな!!」
正義の確信に満ちた少女の怒声は、しかし忌の心に届いてはいない。
互いに分かり合おうとする努力が水泡に帰したとき、遠くから聞こえてくる傲慢な声音は、単なる音の羅列に成り下がっていた。
「自覚してないみたいだから教えてあげるけど、あんたたちは国全体を敵に回しているのよ! 絶対的に悪なんだから! 社会に負けた甘ちゃんテロリストの妄想に、国を巻き込まないでよね!!」
場の沈黙を優勢の兆しと捉えたのだろうか、迦具土の娘は矢継ぎ早に暴言を発する。
理知を放棄した威圧的な態度に、忌は失望にも似た哀しみを覚えた。
彼女は他者の言葉を軽視するあまり自己を過信してしまっている。安易に他人を理解したつもりになって、相対的な優劣に一喜一憂している。
――利己的な自己完結こそが人を傷つける。
甕星の民にとっては常識の範疇でしかない人情の機微にすら、神威の能力者は到達していないのだ。
理想とかけ離れた醜い現実を目の当たりにして、忌はもはや反論する気も失せてしまっていたが、閉ざされた心の片隅でふと思った。
結局この少女も凡庸な青人草と同じ。あざとい精神構造の恩恵で今は正気を保っているが、いつかは狂気に支配されてしまう、風に裁かれる側の罪人なのだ、と。
「……どうやら今日も、君たちとは分かり合えないようだ」
忌は踵を返して二人の能力者たちに背を向けると、再び呪方陣へ意識を移した。
拒絶を想起させるその行動は「もう何も話すことはない」という意志の表明。少なくとも忌はそう思っていたし、敵もそう受け取るであろうと考えていた。
けれどそれは、彼の弱さがもたらした偽りの認識だ。行為と思考の裏側に隠されている心の作為を、忌は当然のごとく見逃している。
皮肉にもそれを見破ったのは、自分より劣ると決め込んでいた迦具土の娘だった。
「はぁ? 分かり合えない? ふざけたこと言わないでよね! 先に結論を出して逃げたのはあんたの方でしょ! 前から思ってたんだけどさ、あんたたちって都合が悪くなるとすぐに逃げちゃうわよね。なんかさ、それって仲間はずれにされた子供がいじけてるみたいでウザいのよ。ま、辛い現実から逃げたいだけの甘ちゃんが傷をなめ合うために作ったのが甕星の民なんだから、ムリないかもしれないけど」
少女が発した強烈な批判は、あらゆる逃げ道をふさぎながら忌の心に深々と突き刺さった。
……なるほど、他者の言葉を軽視して理解したつもりになっていたのは、自分自身だったというわけだ。
強制的に押しつけられた真実は、未だ拭いきれない弱さの輪廻を思い出させる。
忌は久しく忘れていた冥い感情の芽生えを感じた。
「……ずいぶんと言ってくれる……。君は、本当に何も分かっていないね」
自己観察を強めた忌は、心を波立たせないよう注意しながら反論の材料をかき集めた。その上で、弱みを握られてしまったという屈辱を、大義ある伝道の方便にすり替える。
僕は、人を傷つけることで優越感を満たしてしまったあの少女を教化しなくてはならない、と忌は思った。それが彼女のためであり、真の慈愛につながるからだ。
……断じて、鬱憤を晴らすための姑息な手段ではない。
「ふふ、逃げているのは僕たちではなく、君たちの方だよ。この国を汚している根本の原因を知りながら、私利私欲を満たすためにそれを放置し続けているのだから……」
「あんた何言ってんの? この国を汚そうとしているのはあんたたちでしょ。神威は世界の平和を守るために作られた特務機関よ。あんたたちみたいな連中をのさばらせないために、こうしてがんばってんじゃないの。つまんない言いがかりは止めてほしいわね」
「……違うよ。君は、騙されている。神威は君が思っているような組織ではない。世の中は表裏一体の理屈で構成されている。君たちが知っているのは、表のいわば建前の部分だ。美しい正義の裏にこそ真実が隠されている。いいかい、神威の上層部が企てている本当の目的は……」
「あんたねぇ……もういいわよ、ご苦労さん。適当なコト言って、あたしを動揺させようって魂胆? 表と裏なんて、そんなのあるわけないし。残念だけどさ、あたしはそんな妄想に騙されるほどバカじゃないのよね。それとも、門が定着するまで時間を稼ごうとしてるわけ?」
迦具土の娘は、忌の真意を探りながらも、優越感が見え隠れする余裕の表情を崩さない。
「ま、どっちにしたって、あんたたちがやってることの言い訳にはならないわよ。どんな大義名分があったって、殺人は許されることじゃないし。無差別テロの首謀者が何言っても、説得力に欠けるでしょ」
「説得力……ふふ、説得力、か。君の口からそんな言葉が出るなんて、驚きだね」
忌は少女が洩らした何気ない一言に反撃の糸口を見いだし、できるだけ思わせぶりに聞こえるよう目的の単語を繰り返してみせた。
「……何、それ? 何が言いたいのよ?」
言葉少なだが、予想に違わぬ反応を示す迦具土の娘。
忌は自分の計略にはまろうとしている少女の戸惑いに加虐的な充実を感じたが、それを表に出さないよう留意して演技を続ける。
「僕には分かるよ。抽象的な感情論で上手く隠してはいるが、君の心は今、渦巻く怒りの炎で充満している」
「……はぁ? 何かと思えば、あたしが怒ってる、って言いたいわけ? 当たり前でしょ。あたしはあんたが嫌いなの。自分たち以外に生きる価値はない、みたいな偉そうな態度がさ、すっごくムカツクのよね!」
「つまり、それは正義感かい? 煮えたぎる怒りの矛先は、悪に従事する僕に向けられているというわけだ」
「…………!? そうよ! 他に何があるっていうのよ! 霊的テロの撲滅! それが能力者に与えられた使命なんだから! 神威は甕星の狂信を絶対に許さないわよ!!」
忌の思惑に感づいたのか、迦具土の娘は巧妙に会話の論点をずらそうとする。しかし、信念を自演する語調とは対照的に、斜に構えた彼女の体は抑揚を失い、顔を背けて視線を合わせようとはしない。
危機を遠ざけようとする防衛姿勢が、逆に、隠された弱点を浮き彫りにしている。
識妙の読心術を用いるまでもない。もう一押しで、彼女が築き上げた保身の壁は崩壊するだろう。
「僕が知りたいのは神威の理念などではない。君がひた隠しにしている、怒りの根本的な原因だよ」
「な、何よ、腹立つわね……。そうやって思わせぶりなことを言って、結局はただの時間稼ぎなんでしょ? バカみたい」
「ふふ……本当にそう思うかい?」
ゆっくりと振り返り、狼狽する少女の瞳を見据えながら、忌は感情を込めない口調で淡々と言った。
「本当は分かっているはずだ。君が批判したいのは……怒りを向けているのは、僕とは違う別の存在だということに。正義などという曖昧な概念よりも大切な、もっとごく身近な問題に対して怒っているんじゃないのかい?」
「……あー、もう! うっさいのよ! いいわよもう! ウザい! あんたと話すことなんて何もないんだから! 黙ってろ!!」
質問が佳境に入るよりも先に、迦具土の娘は強引に話を打ち切ろうとした。その手法は、数分前に発した強烈な批判―都合が悪くなるとすぐに逃げる―を自ら再現するという実に無様なものだったが、おそらく彼女は、それを恥じることよりも、脆く傷つきやすいプライドを守ることを重視したのだ。
耐えることに慣れていない若年ゆえ、当然の帰結なのかもしれないが――
無責任だよ、それは。
忌は少女が放つ逃避的な弱さに言いようのない禍々しさを覚え、躊躇することなく言葉を紡いだ。狙いすました一撃が、呪詛よりも残酷な、心を引き裂く汚穢の刃物に匹敵すると理解した上で。
「そういえば……《復讐者》の少年は、一緒じゃなかったのかい?」
「………………!?」
少女の瞳が大きく見開かれる。過敏すぎる反応だった。
「もしかして、喧嘩でもしたのかい? それとも、君の無神経に愛想を尽かした少年に……拒絶されてしまったとか……」
宙に視線を泳がせて黙り込んでいる迦具土の娘は、月下にさらされた屈辱の所在を探すかのように呆然と立ちつくしている。
決して知られてはならない事実が、それを知るはずのない男の口から洩れたのだ。その衝撃は、彼女の心にただならぬ負荷を与えたに相違ない。
教化が目的とはいえ少し傷つけすぎたか。自責の念に駆られて迦具土の娘を一瞥した忌は、ふと、周囲の大気に感情的な不協和がほのめくのを感じた。
純粋な憎悪によって展開された結界内を微細な振動が趨り抜け、世界を司る法則そのものに干渉しようとしている。
肌を焼く霊力のうねり。猛り狂う熱気の渦は、意識の糸が放たれた忌の顔面を中心に収束を始め――
次の瞬間、空間が爆ぜた。迦具土の娘の霊的な集中力が、激しい爆音を伴う火焔の解放を成就したのだ。
「わ、わぁっ! 忌のおにいさん!?」
すぐ隣で爆発を目撃したナミは、四散した火の尾が自分に降り掛かるのを気にも留めず、泣き出しそうな表情で忌の足にしがみついて来る。
残り火の向こう側に見えたその光景は、色めき立つ忌の心に平静をもたらした。例え作られた感情であったとしても、他人に心配されるのが快かったのだ。
「……ふふ、正義の味方が不意打ちとは驚いたね」
着火の寸前、わずかに体を捻って回避行動をとっていた忌は、火傷一つない顔に笑みを浮かべることでナミの優しさに応える。
「……わぁ! 無事だったんですか! よかったです! わたし、忌のおにいさんの頭がなくなってしまったかと思って……」
忌の足にしがみついたまま、安堵の吐息をもらすナミ。不意を突くという点では評価に値しない迦具土の娘の奇襲だったが、攻撃の要となる火焔自体はそれなりの力を秘めていたようなので、幼いナミが過剰な反応を示すのも無理はない。甕星の神法に当てはめるならば、おそらく、第三階梯に属する程度の威力はあったのではないだろうか。
だがそんなことよりも忌は、もし仮に今の攻撃で自分が死んでいたとしたら、その後ナミはどうしていただろうか? ということの方が気にかかっていた。
存在意義を失った哀れな傀儡は、自我を確立する新たな主従関係を求めるのだろうか。
それとも、誉れある甕星の民の一員として最後まで戦い続けるのだろうか。
もちろん彼が望んでいるのは後者の方だ。主神、天津甕星より賜った大義を貫き通す信心だけが、人という種に進化を授け、ひいてはこの国の安寧を約束する。
我々は自己の全存在を賭けて他者に奉仕しなくてはならないのだ。
自説を拡充し、ついには幼い命の権利をないがしろにする姿勢をも肯定してしまった忌の顔には、自然と笑みがこぼれている。
暗い情熱をたたえたその笑みは、彼が欲する清らかな誇りの体現――
……いや、きっと自虐的な嘲りであったに違いない。
「……残念だ。無益な争いは避けたかったんだけど……君たちがその気なら仕方ないね。」
迦具土の娘の奇襲を宣戦布告と解釈した忌は、足を肩幅に開いて戦闘態勢を整えた。左手は後方の池へ、右手は前方の敵へ。それぞれの指先には黒塗りの蠱神霊符が掲げられている。科戸ノ門に呪力を送りながらの戦いとなるので激しい行動はとれないが、ナミのサポートくらいは充分に可能だろう。
「ナミ、戦闘だ。準備はいいかい?」
「は、はい! 準備はいいです!!」
緊張の面持ちで返事をしたナミは、胸の前で小さくガッツポーズを作って意気込みを表現してみせた。仕草の端々に幼さが残ってはいるものの、手甲の雷に照らされた横顔は子供ながらに精悍で迷いがない。神威の能力者たちは式神の円陣と先程の心理戦で消耗している。勝てる見込みはあるはずだ。
「それじゃ、始めようか」
忌は戦術の基本にのっとり、まず手始めに敵の弱点から攻めることにした。弱点とは他でもない、前哨の論戦によって出鼻を挫かれた迦具土の娘のことだ。激情に任せて襲撃の火焔を放った後、立ちすくむ彼女の瞳からは意志の光が消え失せている。混乱のあまり一時的に戦意を喪失しているのだろうが、いずれにしてもこの好機を逃す手はない。
「ナミ、まずはあちらの……」
小声と目線で迎撃の対象を示唆した忌は……標的との間にもう一つの人影があることに気づいた。
迦具土の娘をかばうように立ちはだかる撫物の巫女、土御門ノ穢レ。衛星のような軌道を描いて浮遊する五枚の償物咒符は、こちらに対する明確な敵意の現れだ。
「……あなた……卑怯ですよ!!」
一貫して守り続けてきた沈黙を破り、忌の蠱惑的な瞳を見据えたまま少女は猛り叫んだ。
「どうしてこんな非道いことを……人の心を弄んで、傷つけて、目的を遂げるためならば手段を選ばないのですか!?」
メガネの奥に清冽な気丈を閃かせ、押し込めていた悲憤を解き放つ。その姿は、従順を受容した華奢な容姿からは想像できないほどに激しく、強い。
真心を投影する怒声の晴明は、濁世の穢れを祓う絶佳の音色。小賢しい駆け引きを経て封じられてしまった忌の叡智を呼び覚ますべく、深奥に訴えかけてくる。
「……身を盾にして同志をかばう献身は美しいけれど、それは言い掛かりというものだよ。第一、戦意の無い僕たちを先に攻撃したのはそちらの方だ」
「嘘です! 自分の方から仕向けたくせに!」
忌が講じた欺きを一瞬にして看破した土御門ノ穢レは、傷ついた迦具土の娘を癒すために弁護を続ける。
「あなた方はいつもそうです。大義を振りかざし、自分の手を汚さず、建前を繕って、綺麗なふりをして、正当防衛を演じて、他人に押しつけて、相手の弱みにつけこんで、自分に嘘をついて!! 虚構で塗り固めた救世に、一体何の意味があるというのですか!?」
声を発している間、土御門ノ穢レは一度も目を逸らさなかった。過去、同じような状況で何度か顔を合わせたことはあったが、これほどまで感情を露わにしたのは初めてだ。それだけ彼女たちの絆は強く、自他を問わない純粋な関係が保たれているということなのだろう。
人間が秘める清浄の性質にただならぬ執着を寄せている忌にとって、その光景は少女の髪を揺らす救世の風と同等に価値があるものだった。
ただ一つ、彼女が発言の中で意図した責任転嫁に不満はあったが……。
「……ありがと、一葉。あたしは大丈夫、まだまだ冷静だから……。あんたってほんと、正義の味方っぽいマジメちゃんよね」
土御門ノ穢レの一途な想いが伝播したのであろう、自己の弱さを克服した迦具土の娘が、火焔を纏う催魔の槍を頭上で一回転させた。まだ少し足取りがおぼつかないものの、その瞳からは殺伐とした激情がすっかり消え失せている。
内的な思慮の世界から引き上げられ、責任転嫁への考察を中断した忌は、数ある疑問を放置して敵への意識を新たにした。迦具土の娘が立ち直った今、少しでも有利に戦闘を進め、科戸ノ門が定着するまでの時間を稼ぐのが最重要だ。
「……あんたのやり方ってさ、ホントにサイテー……。上からは殺してもいいって言われてるし、覚悟しなさいよね!!」
「ふふ、正義の名の下に、だね。それとも、個人的な理由からかい?」
「うっさい! どっちでもいいわよ、そんなこと! 一葉、準備はいい!? さっさとやるよ!!」
忌の目線に槍を突き出して宣戦布告を行った後、やや前のめりに構える迦具土の娘。
「亜衣さん……わたしはいつでも行けます! 大勢の人を不幸にするこの風を、必ず止めないと!!」
そのすぐ後を、ふんわりと微笑した土御門ノ穢レが続く。
両者共に、最初の対面時とは比較にならないほど霊気が充実している。精神が身体を超越し、苦労して仕掛けた式神の円陣も心理的な動揺を与える謀略も、結局は徒労に終わったようだ。
この状態の二人を相手にするのはナミにとって重荷だろうが、いよいよとなったそのときには、《不腐妣》という通り名の由来、彼女が保有する無二の異能が発動するだけのことだ。それはそれで興味深い。
「ナミ、何も心配することはない。門が定着するまでの間、彼女たちを足止めできればそれでいい」
「は、はいっ! わたし……せいいっぱい、がんばります!」
甕星の民と神威。
対立する思想が巡り会い、互いがその接点に価値を見いださなかったとき、そこには必ず衝突が生まれる。軋轢の解決に使われる策は往々にして戦闘であり、真摯な指導者が長い年月をかけて磨き上げてきた魂の叡智はいとも簡単に葬り去られるのだ。
「君たちの相手は、この少女……《不腐妣》にお願いするよ。見かけに惑わされて油断しないことだね」
世界に清浄をもたらすはずの科戸ノ祓が、薄汚れた血の交換によってしか達成されないというのも滑稽な話だが、そんな当たり前の疑問にすら忌は考え及ばない。仮に認知したとしても、その素朴な問いに彼の神は何も答えてはくれないだろう。
いつだって、戦いに真実などない。あるとすればそれは、戦闘の昂揚が理知の刃を錆びつかせ、真理との邂逅を阻み続けるということだけだ。
その証拠に、忌は此度の不毛なやり取りの中で魂を陶冶する恰好の見識を自ら放棄してしまった。階層構造の自己観察によって知らなければならなかった心の作為を、あえて見過ごさなければならなかった。
全ては、自己弁護と小賢しい必要悪の罠へ沈んで行く。
忌と亜衣の心理戦でした。亜衣の口調が激しくなっていますが、風の中にいるのも原因の一つです。
【術】
・汚れし御霊を連ねる火焔
瞳から意識の糸を放ち、つないだ場所に霊的な爆発を発生させる。




