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甕星の民  作者: 憂羽
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第十五話 太刀語り(1)

 もし戦闘行為の本質が個人の私欲を満たすための方略に過ぎないとしたら、人は仇敵を討つが如く兵器を憎み、幾年にも亘り研鑽されてきた戦闘技術を破棄しなくてはならないだろう。

 利己的な享楽のために人を傷つけ、力による圧力で弱者の言い分をねじ伏せてしまうようなやり方は、人間の尊厳を貶める恥知らずの愚行だ。自我の拡充を第一義とする狂気、と言い換えても良い。

 個人主義という滅びの理論が幅を利かす昨今、このような理想論など一笑に付されるのが関の山だろうが、利他の崇高さに畏敬を覚え人間の正道に沿う高潔な生き様を望む者が現存するのもまた確かなことだ。


 少なくとも良知はこの感傷的な価値観を信じている。露ほどの疑いも持たずに。

 人間は理想を掲げるからこそ気高く生きていけるのだし、彼が亡き父親から教授された兵法にはそれを体得するための体系が内包されている。幼い頃より武術を学んで来た良知の心身には、利他に奉ずるための具体的な技術と、戦いの狂気を浄化する無二の理が宿っているのだ。


 ――人間には死を賭してでも守るべき正義がある。


 誰だって死ぬのは怖い。渡世の快楽に目覚め始めた若年ならば尚更のこと、死は何よりも避けるべき絶対的な悪行に違いないだろう。

 だが繰り返し耳にした武人の訓戒を肯定し、日々の精進の中で自己犠牲が持つ正当性を理解していた良知は、死への恐怖に直面しながらも何とか踏みとどまることができた。

 例えそれが欺瞞に満ちた初学者の過ちだったとしても、動物的な本能を人間的な理性で押さえ込み、保身よりも大義を選んだという自負が彼の心に奇妙な安らぎを与えている。


 低俗な利益を追い求める薄っぺらな戦いからは決して得ることのできない、人の本性に根ざした充足感。

 自ら進んで盾となり亜衣たちを先に進ませたことは、充分に彼の存在証明となり得る熱い誇りの証だった。この何物にも代え難い不可侵の決意は、如何なる神であろうと阻むことはできない。



 かくして少年は、殺意の影が織り成す檻のまっただ中にいる。

 《黒犬》が放った式神は単体の能力こそ低いものの、呪的な統率力を基盤とした集団戦には目を見張るものがあり、過去多敵を相手にする経験に恵まれなかった良知は始終苦戦を強いられていた。


 飛び交う爪牙に身をさらしながら、もう五匹は斬っただろうか。手負いの三匹を残した現時点で、打撲、裂傷が数十カ所、肋骨の何本かは確実に折れている。

 いずれも致命傷には至っていないが、極度の緊張も手伝ってか呼吸は乱れ、酷使された肉体は刀を握ることすら苦痛を感じる程に疲弊しきっていた。


「くそっ……無為月心流(むいげっしんりゅう)剣客(けんかく)が、こんな訳の分からん犬もどきに苦戦するなんてよ……!」


 継承した流儀の名前を思い出すことで挫けそうな心身を鼓舞した良知は、周囲を取り囲む戌の挙動を全身で探りつつ間合いに留意した。

 良知が修めた『無為月心流兵法』の撃剣は、大半の剣術がそうであるように、人間と戦うことを前提に編纂されている。解剖学レベルでの人体研究、呼吸や反射といった生理現象の応用、加えて宗教的な精神活動の認識にまで踏み込んだ精緻な術理も相手が人間であるからこそ有効であり、式神のような規格外れを前にしては多くの技術が無効となるのだ。


 冷ややかな深紅の瞳は意志を映さず、創造主の命令をなぞるだけの四肢からは攻守の兆しがまるで感じられない。よって敵の呼吸を読み意識の隙間を見いだすといった微妙な駆け引きよりも、予測を廃した即時の対応力が求められる。

 危険を感じた瞬間に身を躱し、敵の動きが止まったところへ渾身の一撃を振り下ろす。先天の反射神経に頼らざるを得ないそんな稚拙な戦法だけが、未熟な少年の誇りを託す一縷の生命線となっていた。


「……雑念に執着せず、己が剣を信じてただ打ち込むだけ、か……。実際にやってみると、親父が言ってたようにはいかないもんだな」


 掲げた剣先で戌との距離を計りながら、良知は傷の痛みに囚われつつある心の働きに苦笑した。

 どうやら人間というものは、外部からの情報が少なければ少ないほど内的な問題点に意識が集中するらしい。形なきものを捉え、静から動へと転じる一瞬の隙を待ち続けているという緊迫した状況が、当面の不安要素である肉体の故障へと配慮を促しているのがはっきりと分かる。

 打撲。裂傷。骨折。

 不快な苦痛を伴って疼く損傷部位は、曖昧で不確実な自らの正体を偽ることによって、肉体的な感覚のみならず思考をも支配しようと画策しているかのようだ。


 良知は細く息を吐き出しながら、心身の防衛機能が捏造した嘘を看破するべく自らに言い聞かせる。


 ――痛みなんて単なる符号に過ぎない。


 もし良知が何の心得もない普通の少年だったとしたらきっとこの状況は打破できなかっただろうが、彼には自己の弱さに打ち勝つだけの誇りがある。生死の狭間で練られた至高の叡智を受け継いでいるという、武術家特有の誇りが。

 だから、痛みなどという嘘だらけの感覚に騙されたりはしない。


 痛みは幻想だ。痛みという感覚はあっても、痛みという現象はこの世に存在していない。それは伝達手段を持たない肉体の悲鳴を脳が代替しているだけで、武人の信念を退けるだけの強制力を持ってはいないのだ。

 だったら、執着せずに無視してやり過ごせばいい。自己観察を怠り、揮発的な感覚と同化してしまうから本望を失ってしまうことになる。配慮したとて痛みは治まらないのだから、今の自分に不必要な感情など理知の刃で斬り捨ててしまえば良い。簡単なことだ。


「……親父に言わせれば、迷いは恥、ってとこか。痛みを度外視すれば体は動く。まだまだやれるだろ……!」


 生前の父親から幾度となく聞かされた口伝の道歌“仇敵の太刀こそ円く月心、五陰の迷いを恥と知るべし”を反芻しながら、良知は不敵に笑ってみせる。世間の多様性に触れていないがゆえに完璧なまでの自己完結を保持している、若輩だけに許された真っ直ぐな笑み。流儀の哲学と自己の内的世界が観念的な一致を果たしたことによって生じた傲慢が、彼に盲信にも似た確信を与えているのだ。

 

 僅かな疑念をも拒む純色の無知は、強さの中に弱さを抱え、弱さの中に強さを抱えるという矛盾によって支えられている。そしてその矛盾を意に介さない無謀な心理を若さと呼ぶのであれば、背反する二つの要素から強靱な輝きのみを抽出することは充分に可能だろう。

 つまり良知は、自己の内的世界で練り鍛えられた純正の鋼を以てすれば、いかなる障害をも退け、死と隣り合わせの窮地ですら笑って切り抜けられるという、因果関係を超越した検証不能の夢物語に傾倒しているのだ。

 この上なく甘美で、激烈な行動原理を忍ばせた若き武人の妄信は、やがて知識として蓄えられていた自制の観念に囁きかけて、脆弱かつ醜悪な凡夫の決心を高みの領域へと押し上げる。


 折れず、曲がらず、確証の障壁に囲まれた、決して犯されることのない――

 即ち、信念。


 己の行動が絶対的な正義に直結しているという歓喜と、血尿が常となるような激しい稽古の日々を経てようやく手にした一握の自信が、彼の一挙一動に形而上的な説得力を与えているのだ。

 このような心境に至って良知の脳裏は闇夜の満月に等しく澄み渡り、感情の汚穢を映さない清浄の鏡面となる。負った傷への危惧、未熟な技術への懐疑、喧嘩別れした女への妄執など滅びの性質を帯びた思考はすっかり影を潜め、彼の行為をせき止める柵はことごとく軽視された。


「オレは負けない。武人の正義を体現しているオレが負けるはずがない!」


 信念の発露を躍動する言霊に変えて、良知は自身の心中に望むままの情景を焼きつけた。下ろしたての画布に一途な衝動を託すかのような、損得勘定を介さない決死の自己暗示。それが現在と未来とを隔てる不可侵の淵を懐柔して、過程よりも先に結果が優先されるという超越者の境地を引き寄せている。


 内的世界を席巻する自浄作用に戦闘行為の本質をうかがっていた良知は、不意に突き刺すような違和を背中に感じ、柄に添えた掌の握りに留意した。実際に視界に入れなくとも、拡大した意識は背後より迫り来る戌の爪牙をありありと察知していたから、振り向きざま、転身の勢いを利用した渾身の横一文字を薙ぎ払う。

 紫電の煌めきに一寸遅れ、濃密な闇を斬った確かな手応えを感じたとき、上下に二分された戌の顔面が目の前にあった。鼻先から分断された醜貌の上部には鈍い輝きを放つ深紅の双眸、下部には大きく開かれた状態で垂れ下がる牙鳴りの顎、裂け目より露呈する体内の中心部には禍々しい障気を発する呪符の存在が見て取れる。


 明滅する呪符の鼓動に勝機を見いだし、水平に薙いだ両腕を上段に跳ね上げた良知は、跳躍する戌の下に潜り込みつつ、刀の軌道が闇の心臓部を捉えるように斬り下ろした。

 月光を帯びる玲瓏が戌の胴体を侵食し、穢れた存在意義を中立の霊気に還元する。

 滅び行く戌の後方に突き抜け、血振りの所作で剣先にまとわりついた呪符の切れ端を振り払いながら、世界の真理はすべからく正義の二字に集約されている、と良知は思った。


 過度の精神集中がもたらす神懸かり的な反応力を我がものとした良知は、再び敵の気配を察知して身構えた。

 左後方より迫る霊的な圧力。すでに撃剣の有効距離にまで近づいている。


「……バレバレなんだよ!」


 自らが想い描くビジョンに沿って事態が進行していることに余裕の笑みさえ浮かべている良知は、慌てることなく手首を返し、後方の戌に向けて剣を突き立てた。

 タイミングを見計らった絶妙の一撃は彼の確信そのままに戌の喉元を貫通し、体内に隠されていた呪符ごと穿ち滅する。刀身を引き抜いて振り返ったときには、すでに戌の表皮は剥ぎ取られ、顕現の残り香である暗影の右旋が哀れに渦巻いていた。


「次でラストか……。他愛ねぇな」


 数分前の劣勢が嘘のように二匹の戌を祓い終えた良知は、残る一匹の強襲に備え意識を集中する。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 静まり返った参道の真ん中で戌の行動を待ち続ける良知。風にあおられた木々の葉擦れがやけに耳 障りで、細く息を吐き出しながら雑念を退けようと努める。


 下手に動き回らず自らの技量を信じて敵の爪牙を迎撃する、というのが彼の選んだ作戦だったが、その思索に反してなかなか好機は訪れない。それどころか、自己の内面に向いていた微細な意識が、この切迫した緊張感をやわらげようと企てている心の作為を発見し、人が備える適応能力に怒りにも似た疎ましさを覚えてしまった。


 良知は、今の自分が命の遣り取りをしているという恐ろしくも誇らしい現実を再認し、散漫になりつつある意識に一本の強固な柱を打ち立てた。次いで、正面に掲げていた刀の角度を少しだけずらし、正眼の構えにわざと隙を作ってみる。人体の急所が集中し、胆力の妙を司るとも言われている正中線を晒すことで、能動的に敵の行動を限定しているのだ。

 この試みは、この期に及んで日常へ帰ろうとする自己の脆弱性への戒めという意味でも有効に作用するはずだ。そう考えるに至って、彼の心には再び鉄壁の信念が蘇り、不安に揺らいでいた絶対的確信の修復に成功する。


「……すぐ仲間のもとへ送ってやる。早く来いよ」


 良知はいつでも動ける体勢を維持しながら、注意深く周囲を見回した。未だ姿を現さない戌の影を追い、前後左右に意識の網を展開する。

 心臓を締めつけるような圧迫感と、全身を突き刺す不快な違和感。除々に強まる敵襲の兆候に急かされて、良知はこれから起こりうるいくつかの可能性に思慮を巡らせ……そしてふと気がついた。

 爪、牙、体当たり、疾駆、逃走、跳躍。戦闘の中で得た戌の行動パターンを分析しているうち、偶発的に弾き出された一つの答え。


 いくら敵が規格外の呪的生物であったとしても、これだけ短時間の間に全長二メートルにも及ぶ巨体を隠し切ることなど不可能だろうし、そうかと言って、創造主の命令をなぞるだけの獣が目的を果たす前に逃げ帰るというわけもなかろう。

 ならば、これ以外には考えられない。灯台もと暗し、というやつだ。

 剣術試合の常識に囚われて平面的に観ずるから駄目なのだ。今戦っている相手は人間ではない。もっと自由に、視野を広めて、闊達(かったつ)な立体的思考で現実を見つめれば自ずと道は開けるはずだ。

 間違いない、敵は――


「……少年よ、上だ!!」


 どこからともなく聞こえて来た声に教えられるまでもなく上空より降り掛かる殺意を察知していた良知は、体を捌き間一髪のところで戌の直下攻撃を逃れた。


 奇襲の一撃を躱されそのまま地面に降り立った戌は、着地の衝撃を緩和するために深く体を沈める。

 良知はその一瞬の隙を見逃さなかった。土埃が舞い敵の正確な位置は目視できなかったが、自己の命運と日々の研鑽を信じて一心に刀を振り下ろす。

 迷いを排除した渾身の太刀筋は、濃密な闇を斬り裂いたときの鈍い圧力を通過して玉砂利の地面に突き刺さった。勢い余って地面を斬ってしまったのは失態だが、今の良知にはそれを自責するだけの余裕はない。刀身に付着した呪符が大気に溶け込んでいく様を一瞥すると、急ぎ剣を引き抜いて構えを新たにする。


 黒犬の仕掛けた罠を打ち破り、第一級補佐褒賞クラスの功績をあげたにも関わらず、目尻を通過する冷や汗を拭うことも憚られるほどの警戒を維持しなければならないのは、先程の声が気に掛かっているからだ。

 戌の奇襲を示唆した言葉の裏に、どのような感慨が込められていたのかは分からない。ただ確かなのは、重厚な気迫を内包し澄み切った達人の境地を滲ませるその声に、聞き覚えがあるという事実だ。

 唐突に押しつけられた福音。目先の利害に敏感な彼の肉体は拒んでいたが、その実、深層意識は驚喜していたかもしれない。

 決して交わってはならぬ、しかし求める復讐の完遂には避けては通れない、忌避すべき不協和の邂逅(かいこう)――


「よもや忌殿の式神を只一人で討ち滅ぼすとは……。久方ぶりに逢うてみれば、雄々しく成長したものだな、復讐者の少年よ」


 背後を振り向くと、男が立っていた。つい数秒前までは誰もいなかったはずの空間に、人間のまま人間を超えた求道者の身体が厳かな侵入を果たしていた。

 その距離およそ三メートル。近い。剣の道を修めた者にとっては、すでに必殺の間合いだ。


 良知は構えた剣先の延長を男の喉元に突きつけて、少年の未熟を嘲笑うかのような傲岸極まりない来訪に応じる。

 涼しげで、無防備で、一切の否定的観念から解き放たれた男の笑み。この男は殺そうと思えばいつでもオレを殺せたのだ、と思った。


「あんた、残鬼坊……無心斎(むじんさい)か」


「如何にも」


 薄汚れた着流しとその腰に携えられた武人の魂が、高位の精神操作によって排除したはずの悪感情を呼び覚まそうとする。

 真物の超越者を前にしては、若い自分が行使するにわか仕込みの境地など児戯に等しい。良知は、色褪せてしまった誇りの正体を見透かされたような気がして、この場から逃げ出したい衝動に駆られた。


 自己完結の内的世界に奔った小さな亀裂。

 彼はその訓練された習性によって、敵と対峙すると同時に自己の心とも対峙していたから、その受け入れがたい綻びの咎を自分の心の中に認めることができた。

 醜悪な哀しみより、予測の域を出ない恐怖よりも――

 生存を至上とする心の防衛機構が語りかけて来る。

 お前は殺されることよりも自己の弱さに負けることが怖いのだ、と。

 そうでなければオレはきっとオレの脆弱性に支配されてしまう、と嘘だらけの心の片隅で良知は思った。

【武技】

・無為月心流抜刀術/撃剣・朔突

最短距離を奔る突き。

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