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甕星の民  作者: 憂羽
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第十一話 絶対正義(2)

 伽藍の中心に鎮座する巨大な金堂は、様々な仏閣が乱立する名勝の中にあって、圧倒的な存在感のみならず古の信徒が残した人心に対する畏怖の念をも体現している。本尊は毘廬舎那仏(びるしゃなぶつ)、それも国内一の大きさを誇ることで高名らしいが、周辺を取り巻く霊力の流れは至って平凡であり、侵入者に及ぼす霊的な驚異は皆無だ。

 かつては求道の実践的象徴であったはずの依代(よりしろ)も、今では民衆の退屈を凌ぐために捏造された、観光名所という名の記号に堕落してしまっている。それは生きた信仰の証ではなく、すでに途絶えた崇高なる熱情の残り香に過ぎない。


 だが、忌たち甕星の工作員にとってはそちらの方が却って好都合だ。例え盲信であったとしても、他者の介入を許さない閉じた信仰はそれだけで強固な結界となり、意識の交流を妨げる。人々を感化し、心に精神的な試練を与えることでその本性を浮き彫りにさせる科戸ノ祓もまた、信仰という防御壁の前に効験を薄めてしまうのだから。

 もっとも、為政者が演出する享楽主義がはびこり、“信じる”という人間の根源に関わる美徳を屠って久しいこの国において、意志強き者の出現を懸念するなど杞憂ではあるが。


「……呆れてしまうね。霊的な護持どころか空間の綻びすら修復されていない。こんなことでは、人々を救うことはおろか神霊の加護を得ることすらできはしないよ」


 識妙を宿した瞳で周辺の大気を探っていた忌は、込めた皮肉を隠しもせずに呟いた。

 視界に漂う空虚なる意志は人々の蒙昧を現すかのように次々と形を変え、保身と利己に彩られた濁世の到来を象徴している。


 自制の回路を焼き切られた心の破片は無軌道な営みの端々に劣情の拡散を忍ばせるだけで、禍根を浄化し昇華するための能力を一切持たない。自己の勢力圏を伸ばそうと足掻く割に、互いの接触を避け外部との干渉をことごとく嫌う。自己を傷つけずに利益を得ようとすることが自由であると勘違いしているのだ。

 自由なる意志、と言えば聞こえが良いが、つまりは自我の開放を肯定するための自己防衛輪に過ぎない。偽りの自由は一時の平安を経て更なる呪縛を引き寄せる。矮小な欺瞞の果てに無尽蔵の枷を生み出すという愚行が、民衆の望む自由の本質だ。


 けれど人々は気づかない。気づこうとしない。

 便宜上行為と思考が二分されているこの顕界において、表皮的な外観を繕うことで多大な恩恵が得られるのは確かだが、それに甘んじることは内的世界の崩壊を招くばかりでなく、人々の退廃を決定づける。識妙の瞳に映る霊的な平行世界が現実世界の投影であるならば、現実世界もまた平行世界の影響を受けて成立しているのだ。


 元来このような穢れを祓い清めるのが霊力を保有する神職であり仏徒の本義であったはずなのに、彷徨する自縛魂のような感情は放置されたまま世界を汚染している。かつて神国とまで謳われたこの国の霊域がこれほどまでに病んでいるのは、信心の裏づけとなる高尚な精神がすでに失われていることの証明に他ならない。


 やはりこの場所を選んで正解だった、と忌は思った。

 漆黒の瞳に映る異境の光景は、紛れもなく青人草が背負うべき罪科だ。

 人々の祈りは全て自己を救済するために費やされ、神仏の声を聞く者もまた自らを潤す功徳のみを願う。

 利他を軽んじるその姿勢こそが世界を傷つけているというのに、金銭と権威の奴隷に成り下がった人々は真実の受け入れを拒否し続けるだろう。


 ならば――


 乱れた秩序の行き着く先を、自らの穢れた心と肉体で感得すれば良い。中心帰一の終わらない夢の中で犯した罪を見つめ直すことが、穢れた衆生にできるせめてもの償いなのだから。


「残鬼坊、ナミ、そろそろ始めようか。この空虚なる聖域を神性開顕の礎とし、哀れな青人草に至純なる自由を与えよう」


 経典の一節を引用することで言葉に威厳を付与した忌は、自らに課せられた任を遂行すべく金堂に隣接する小さな池の側に移動した。少し離れて後をついて来ていた二人の同行者もそれに続く。

 清らかな真円の月を呑み込む池の水面は、人々の心を映し出す鏡であると同時にその有り様を審議するための呼び水でもある。これから行う儀式の目的を考えれば、退廃の兆候の中に浮かび上がるこの鏡面の存在はまさに神の啓示そのもので、一片の迷いすら介入しない神謀りの卓越を感じずにはいられなかった。


「ふふ、どうやら今日の僕たちは月神の威光に庇護されているようだ。祭文に併せてその霊威をお借りすれば、風の祓いは成就したようなものだよ」


 偶然を必然にすり替えてしまう求道者(スピリチュアリスト)特有の精神操作は高揚を伴う自己の存在証明を生み出し、呪術の行使に必要な集中力を約束する。


 漆黒を讃えた瞳に清浄の太陰を取り込んだ忌の内的世界は、鮮やかな月光によって中和されていく罪人の汚穢を糧に崇高なる収斂を始めていた。

 左手に結んだ契印は元より、自己の挙動全てが大いなる導きによって顕現した救済の指針である、という絶対的な確信こそ、忌が放とうとしている呪力の本質だ。彼を中心に据える精神世界の中では当然の如く彼が主人公であり、その独りよがりな世界で培われた信心の萌芽だけが、今の忌を支える唯一の真実なのだ。

 あらゆる事象を拡大解釈することによって練り上げられた忌の叡智は、欺瞞で塗り固められた狂人の優越感に似ているが、憂国の誇りに侵されている彼の心がその罪に気づくことはないだろう。


「……忌殿、お主の背中は俺とナミ殿が護るゆえ、安心して儀式に集中されるが良い」


 池の上方に張り巡らされる呪的な思念を察知した残鬼坊は、忌の精神が恍惚状態へ移行してしまう前に声を掛け、心理的な負担を少しでも減らそうと試みる。

 傍らでその様子を見守っていたナミも、慌てて首を縦に振り、


「はい、わたしもがんばります! 今日は残鬼坊のおじさんに頂いた手袋もありますから、きっとだいじょうぶです! 忌のおにいさんは安心していてください!」


 無邪気な一途さで残鬼坊に同意した後、いつものように胸の前で小さなガッツポーズを作り、手のひらを覆う手袋―正式には手甲だが―が秘める雷神の霊力を開放して見せた。

 自己暗示による昂揚を契機に意識の飛翔を遂げつつある忌にとって、そんな仲間の心遣いも単なる音と光の羅列でしかなかったが、その内側に含まれる優しさは充分すぎるほどに理解できたので、頬の緊張を少しだけ弛めて微笑みを返す。

 純正の真心は言葉を超えて伝わるものだ、と頭の片隅に浮かんだ真理の語句をおぼろげに見つめながら、忌は練り上げられた高密度の精神を起動して祭文の奏上を開始した。


「……神火晴明、神水晴明、神風晴明、善星皆来、悪星戒心……」


 清浄の定型句で構成される言霊の調べには高位の霊威が宿り、そこに忌の呪的な意志が相乗することで、周囲に渦巻く邪気を退ける浄化の効果を生み出していた。


 今から忌が執り行おうとしている祭祀―科戸ノ祓―は、高次元の精神が住まう異境との接点を開示して、人々に神々の声を届けるための崇高な儀式だ。

 悦楽遊戯に溺れることを本義とするような哀れな青人草に真の摂理を伝えるべく、神界のエッセンスとも言うべき叡智の『風』を呼び込むことが大儀の主目的だが、前準備も行わずにいきなり二つの世界をつないでしまっては、人々が吐き出した低次元の意識を逆流させてしまう可能性がある。

 甕星の民にとって青人草の穢れた息吹で神界を汚すことは略奪や強姦に並ぶ大罪であり、絶対に避けなければならない。

 科戸ノ祓に先立ち邪気払いの祭文で場を清めることは、様式を超えて厳守すべき神との約束事なのだ。


「……真なる太陰、此処に顕現す。御鏡の昭示、青人草の科を領らせ給う。吾感得す、人心の汚穢、一切が清浄なり……」


 言霊の律動に意識の大半を預ける一方で、忌は二本の指先に挟んだ数枚の呪符を眼前に掲げ、祭文の霊力が付与された息を吹きかけた。

 無から有を生み出す所作により生命の息吹を纏った呪符は、顕界の摂理を担った歓喜を表現するかのように青白く発光し、添えられた左手の手印によって存在証明を深められていく。


「……故に吾が心もまた清浄なり。請願届かずという事は無し。夜見(よみ)の誉れ、速須狭大神(はやすさのおおかみ)よ守護し給え……」


 間を置かず忌の手中から投げ放たれた数枚の呪符は、それぞれがゆるやかな螺旋を描きながら池の中心へと帰一して、その終着点であるところの満月を祝福しながら大気に溶け込んでいった。

 この瞬間、呪符はこの世界から姿を消失させ、表裏一体の異界の地で新たな生誕を迎えたことになる。

太陰を司る神々の力を借りて死と誕生の始終を演じて見せた忌は、穢れの根本を立証する呪的な象徴によって、顕界の代理人たる資格を得たのだ。


「……吾は今、星巡の秘呪を奉ずる。凡庸の星宿に非ず、天津甕星が降された二十八柱の宿なり……」


 邪気払いから転じて儀式の枢要に差し掛かった忌は、脳裏に刻まれている天文の略図を明確にイメージして、現在の状況に最もふさわしい星座を含んだ区域を選定した。修めた方位術の知識を駆使して割り出した星神の霊威を借りることで、顕界の法則を超越することが可能となる。これは、甕星の民を束ねる星護院の老人たちでさえ一目置いている、忌が独自に編み出した高次の儀式体系だ。


 天文の叡智を応用して神謀りの先導を掴んだ忌は、内的世界の抽象概念を反映させる段階に入り朱砂(すさ)を使うことにした。流れるように組み替えられる印契が意識の外殻を透過させた頃合いを見計らって、懐から取り出した小袋の口を開き、朱砂を撒き散らす。

 放たれた朱砂は、先ほどの呪符と同じ軌道を辿って池の中心へと引き寄せられ、ゆらゆらと揺れる満月を取り囲むかのように着水した。


 ――朱い月。


 鏡面の太陰は水銀の毒を取り込むことで陽性の気を増進し、周囲の水を急激に煮沸させる。

 月神の霊威に感化された朱砂は放熱の方向性を指し示すが如く跳ね回り、微細な粒子が描く緩急の軌跡が、水面上の空間に立体的な図形を転写し始めた。


「……人禍栄成、陰真滅理、劫始帝伐、掃除貧霊、一切星宿……。其は真理、其は摂理、違うことなき神謀りなれば、吾が至純なる誓いは絶対なる神の息吹とならん……」


 倒錯の恍惚が命ずるまま、忌は大きく両手を広げて天を仰ぎ見る。

 漆黒の瞳に映るもう一つの月が輪郭を失い、解き放たれた光の精が星空を白く染め上げていく。点在する瞬きの全てが一体となり、あらゆる自我の境界が溶解を赦されたその瞬間――

 神への供物である忌の意識は完全なる飛翔を果たしていた。


 それは無の象徴たる光の世界。

 全てが虚ろで、それでいて何もかもが明確に存在している矛盾に満ちた世界。

 恐怖という概念は無く、枯渇することのない喜びが湧き上がるのみだ。

 忌は一切の相対概念が消え失せた精神の狭間で、儀式が成功に終わったことを確信した。この世界への招来は、忠節を尽くした功労者のみに与えられる神よりの賜り物だからだ。

 純然たる光に包まれながら、忌は開放の心地よさに身を委ねる。自己を否定することに慣れすぎてしまった彼に安らぎをもたらすのは、きっとこのような寂しすぎる福音だけなのだ。


 いつまでそうしていただろうか、除々に輪郭を取り戻しつつある意識に呼び起こされた忌は、視線の先に赤く明滅する球形の呪方陣を認めた。

 月影の上に浮かぶ球体の霊符は、星の運用をシンボライズした数々の図形に彩られながら、神々しさと禍々しさが混在する異界の大気を放っている。


 静まり返った伽藍に葉擦れの音が響き渡り、池の中心から吐き出される微風が忌の火照った肌をかすめて過ぎ去っていく。

 それはまるで、小さな傷口から滲み出した赤い血液のように――

 ほんの少しずつではあるが、確実に周囲の大気を侵食し始めている。


「……残鬼坊のおじさん、これは……」


「うむ、ナミ殿にとっては初めての事ゆえ分からぬだろうが、これが……」


 忌は覚醒したばかりの鈍重な意識の片隅に聞き覚えのある声を感じて、


「そう、これこそが科戸ノ門。神の謀りを実現し、穢れに満ちた顕界を救う審判の風だよ」


 反射的に言葉を紡ぎ、顔をほころばして二人の同志に微笑みかけた。


 ――風。


 そう、風だ。

 我ら甕星の民の悲願。

 自己中心的な欲望に身を任せ清き心を持つ者たちを傷つけてなおその咎に気づけない愚かな人々を、この顕界から抹消する。


 崇高なる使命を帯びた異界の風は直に周辺の地域に行き渡り、全ての生命に等しく試練を与えるだろう。傲慢の陰に隠された弱さを引きずり出し、欺瞞に満ちた自己防衛論を穿ち抜いて、分厚い殻の中で怯える真実の心に嘘のない選択を迫るのだ。

 そして、自らの罪に対して誠実な解答を提示できなかった卑しき者は……。


「……見せてもらうよ。人という種に残されたわずかばかりの神性を。快楽(けらく)に抗う気高さと、堕ち行く運命(さだめ)の醜貌を……」


 自己を律することを軽視する罪深き人々は、終わりのない夢の中で欲望を拡散し、混沌を導くための捨て石となる。

 偶像崇拝に長けた観念の獣が裁かれて、利他に殉ずる清らかな魂が祝福を受けるのは当然のことだ。我々が住まうこの顕界は、人々の心を映し出す鏡であり、夢の続きに他ならないのだから。

 狂おしいまでの自己観察の中、理想を確信にまで引き上げた忌の横顔に、もはや迷いは無い。

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