第十話 絶対正義(1)
観光地と隣接するように設けられたアーケードの往来は、この国の本性を表した縮図のようだ。
退屈を凌ぐためだけに時間を浪費する若者や観光を終えて帰途についている家族連れなど行き交う人々の主義や立場は様々だが、皆申し合わせたかのように笑顔を浮かべ、宵の口が醸し出す高揚感にその身を委ねている。
なんてわざとらしい笑顔なんだろう、と商店街の中程に位置するファーストフード店の二階から人の流れを観察していた亜衣は思った。
忙しない歩行は意識せずとも人との衝突を回避し、興味の対象を絶えず変化させている瞳が流れ作業のように相槌を打つ。行為と内面がアンバランスというか心の動きを反映するはずの肉体が完全に独り歩きをしていて、人間の所作というよりは周囲の変化に敏感すぎる臆病な猫の仕草だ。
出先の街でまさかこんな光景を目撃するなんて思ってもいなかったので少し驚いた。これでは亜衣が住んでいる首都の光景とまるで同じだ。この街を訪れる人々ならば、古風な景観そのままの素朴な空気を備えていると想像していたのに。都心部を離れても人間の本質は変わらないのだ。
亜衣は中身を飲み終えて氷だけとなったカップをストローで掻き回しながら、目の前に座っている二人の同僚へと視線を移した。
普通に女子高生をやっていたならば出会うことがなかったはずの二人。
陰陽の術を行使して国の安寧に奉仕する尊き家柄に生まれた生粋の箱入り娘である一葉は、幼い頃から独特な教育を受けてきたらしく世間知らずな面があるが、それを補って余りある程の優しさを持っている。
一方の良知も今時珍しいくらいに熱い男で、前時代的な理由で学校を辞めて以来毎日のように激しい稽古を重ねている。今ではこうして亜衣と共に行動するまでに成長しているが、先天的な才能に恵まれなかった彼が神威の能力者として認可されるまでには相当な努力を強いられたに違いない。
流行を追うことに熱心な女子高生という立場からすると明らかに近寄り難い雰囲気を持っている二人ではあったが、亜衣にとっては、つまらない馬鹿話に笑い合うだけの同級生なんか目じゃないくらい特別な存在だ。目標を見つけて一生懸命に生きている彼らは胸を張って誇れる立派な親友だと思う。
亜衣は真剣な表情でハンバーガーを頬張っている良知の顔を一瞥した後、窓の方に向き直りそこに映る自分の顔を見た。
慣れ親しんだ少女は、窓の外側から物憂げにこちらを見つめている。
自分で言うのも何だが、眉も瞳も鼻も口も髪型も決して悪くはないと思う。メイクで誤魔化している部分が無いわけでもないが、その顔を構成するパーツのほとんどがお気に入りだし、学校一とはいかないまでも男友達に困らない程度の人気はあった。動画アプリには固定ファンがいて、自撮りを投稿した際にはかなりの高評価も付く。
つり上がった瞳のせいか時々冷たい感じがするなんて言われるけれど、世間的に見てもそれなりの水準には達しているはずだ。
けれど学校を離れて神威の任務に就いていると、そんな自分のチャームポイントが頼りなく思えてきて弱気になってしまうときがある。
しっかりとした信念を持ち、命を賭けて他人に尽くそうとしている仲間の姿を見ていると、自分のいい加減さが浮き彫りになるようで後ろめたい気分になるのだ。
もちろん亜衣にだって大義を背負って戦っているという自覚はあるが、他の能力者たちが持っている意志の強さに比べれば、所詮は努力を伴わない薄っぺらな覚悟に過ぎない。上辺だけを取り繕った信念なんてたかが知れている。
こんな消極的な考え方は好きではないしどんどん自分らしさが失われていくようで嫌だったが、今の亜衣にできるのは、せいぜい“お気楽で自己中心的な女子高生”というマスコミが作り出した安直なイメージを利用して自分の存在に記号的な説得力を持たせることくらいだった。
気になっている男の前でも自分を演じ続けなければならないというのは少し切ないが、本当の自分に愛想を尽かされる心配もないのでその点では気が楽だ。嘘も方便、という言葉があるがきっとそれは真実なのだろう。
亜衣は窓に映るもう一人の自分から目を逸らしカップのストローを口に含んだ。溶けた氷ですっかり薄まってしまった炭酸飲料はほろ苦くて、それが彼女の気持ちを更に沈ませる。結局のところあたしも商店街を歩いているあの人たちと同じなんだ、と思った。
暇を持て余す女子高生そのままの仕草でカップを弄びながら、亜衣はゆっくりと顔を上げた。視界の片隅で手入れの行き届いた前髪がフワリと揺れる。有名モデルも通う人気の美容室でカットしてもらった前髪は密かな自慢だったから、彼女はほんの少しだけ気分を上向きにすることができた。
気持ちの支えを維持するため指先で前髪を整えながら、亜衣はそれとなく目の前の良知に視線を移す。相も変わらず真剣な表情の良知は、彼女の視線に気づく様子もなくアップルパイを頬張ることに全神経を集中していた。
せめてコイツがあたしのことをカワイイって誉めてくれれば自信を持つことができるかもしれないのにな、などという淡い想いが脳裏をよぎったが、それは期待するだけ無駄だろう。無粋を絵に描いたような良知に限って、そんな気の利いたことが言えるはずがない。
けれども、それであっさりと引き下がってしまうのはやはり癪だ。プライドが許さない。
ならばせめて少しだけでもこちらを振り向かせてやろうと一計を案じた亜衣は、良知の隙をついて彼が大切に残しておいたフライドポテトに手を伸ばした。マニキュアで飾られた細い指先が彼の好物を連れ去っていく。予想外の展開に体を硬直させる良知の姿を見て作戦の成功を実感した亜衣は、何か大きなことを成し遂げたかのように嬉しくなった。
と、そんなとき――
前触れもなく、テーブルの端に置いてあったスマホから通知音が鳴り響いた。
亜衣の行動に身構えていた良知も、子供のような笑顔でアイスクリームを食べていた一葉も、皆一斉に真剣な表情となり視線を一所に集中させる。
来た! と亜衣は思った。
三人がのぞき込むスマホのディスプレイには、先発の諜報員から送られてきた最新情報が映っていた。マップに引かれた赤いラインが、諜報員指定の休息ポイントであるこのファーストフード店から特異点までの最短ルートを示している。現場までの距離はおよそ2キロメートル。走って移動できる範囲だ。
手短に情報を引き出し頭の中に叩き込んだ三人は、顔を見合わせ、何かを確認するかのようにうなずき合った。
言葉はなくとも互いが何を言おうとしているかは分かる。
輝きを増す瞳。小刻みに震える唇。緊張に強ばる頬。急激に高鳴る鼓動すらも、その全てはただ一つの目的へと収束している。
神威の能力者である亜衣たちの存在意義が、明確な理由を伴ってその輪郭を現そうとしていた。
――世界の平和を守るために。
反射的にそのスローガンを思い描いた能力者たちは、正義の使徒として任務へ赴くことに言い知れぬ高揚感を覚える。
行くぞ、と小さく呟いた良知が席を立ち、一階へとつながる階段の方へ駆け出した。次いで、そのすぐ後を一葉が続く。
テーブルの上に置き去りにされたポテトを口にしながら二度と訪れることがないかもしれない店内の景観を見回した亜衣は、大きく伸びをしてからゆっくりと腰を上げた。
一歩足を進める度に体中を巡る緊迫感が濃度を増し、防衛本能に根ざした逃避の衝動を中和していく。迷いは自己を滅ぼす足枷に過ぎず、代用が利かない最高の価値観を用いてねじ伏せなくてはならない。
――これは、あたしたちにしかできないことだから。
固い決心を胸に秘めた亜衣はもう一度だけ周囲を見回してから、一気に階段を駆け下りる。
そんな彼女の小さな背中を気に掛ける者は誰一人としていない。大義を貫こうとする尊い少女に与えられたのは、祝福ではなく限られた世界でのみ有効な一握りの誇りのみだ。
自動ドアをくぐり商店街の往来へ飛び出ると、右手の方角にすでに小さくなっている良知と一葉の姿が確認できた。出遅れる形になった亜衣は急いで後を追おうとするが、突如近づいてきた通行人の一人に引き留められる。
どこかで見たことがあるような記号的と言うべき風貌で道行く人々と同化していたその男は、脇に抱えていた革袋を亜衣の眼前に差し出した。
全長六尺ほどの細長い革袋。縦に置くと亜衣の身長を優に超える長さだ。
濃褐色の表面には数枚の咒符による封印が施されており、ほんの僅かだが霊的な波動を放出している。
男の正体を察した亜衣は、目配せで謝意を表してから革袋を受け取った。そして、手のひらに意識を集中させ発生した力を袋の中身に流し込むと、袋の内部から予想した通りのよく練れた灼熱の圧力が返ってくる。
それは結縁者が発する力に袋の中身が呼応した証。間違いなく、彼女が手にするべき武神具の鼓動だ。
亜衣に武具を手渡すことで使命を終えた男は、「ご武運を」という激励の言葉を残しすぐに人混みの中へ消えていく。訓練された見事な引き際で立ち去った彼もまた、秘密裏に敵勢力の動向を探るという本来の任務に戻ったのだろう。
革袋を握りしめ踵を返した亜衣は道行く人々の間をすり抜けながら、あたしは一人じゃなくてたくさんの仲間に支えられているんだ、と思った。行動の正当が証明されたようで重かった足取りが軽くなり、妙に誇らしい気持ちになれた。
恍惚にも似た満足感を反芻しながら商店街を飛び出ると、左右に広がる観光地の舗装路が亜衣の視界に飛び込んできた。先ほど送られてきた通信機のマップを脳裏に思い描きつつ、優秀な神威のスタッフが示した通りの最短ルートを選択して目的の地へと急ぐ。
走る速度を速めるほどにマイクロミニのスカートが揺れ形の良い太股が外気に晒されるのが分かったが、今はそんなことを気にしている状況ではないのでとにかく全力で夜の観光街を駆け抜ける。
しばらく走っていると右手にたくさんの亀が住んでいることで有名な大きな池が見えてきた。昼間通りかかったときは大勢の観光客で賑わっていたのに今は不自然に思えるくらい静まり返っている。若年とはいえ亜衣とて神威に属する能力者なのだから少し考えればその不自然さの原因に突き当たったはずなのだが、使命感に燃える彼女の心は恐怖を剋する一途と引き替えに冷静な判断能力を欠いているので、自分にとって都合の悪い情報は一切受け入れることができない。
全ての物事に先入観というフィルタを通さなければならない盲目は死地に赴く戦士にとって致命傷だが、そんな急造の覚悟が何度も彼女の命を救ってきたのもまた事実だ。諸刃の剣とも言える一長一短の自己制御だが、彼女の年齢と負わされた運命の重さを考慮すればそれも仕方のないことなのかもしれない。
程なくして、流れゆく景色を顧みることもなくひた走っていた亜衣の横顔に疲労が浮かび上がる。普段は気楽な女子高生としての生活を謳歌している亜衣にとっていきなりの全力疾走は厳しかったのだろう、呼吸は乱れ、今すぐ立ち止まって休憩したいという当然の衝動が足の動きを鈍くさせる。右脇に抱えた革袋が、やたらと重く感じられた。
だが、そのような肉体の悲鳴などに屈するわけにはいかない。少しでも早く現場にたどり着いて敵の行動を阻止しなければならないのだから。人の生死を左右する重大な任務を前にして自分の甘えを優先させてはいけないという単純な理屈くらい亜衣だってしっかりと理解していた。
不必要な感情など軽く無視して、ただひらすら目標を見据えていれば良い。
――これでもあたしは正義の味方なんだからね!
心を奮い立たせる言葉でなんとか苦しみを凌ぎながら、亜衣は走り続ける。
やがて、車道を挟んだ向こう側に大きな朱色の鳥居が見えてきた。道路に車の往来が無いのを確認して横断歩道を渡ると、先に到着していた一葉が出迎えてくれる。
どうやらこの辺りが、マップに示された自然公園で間違いないらしい。
宵の闇に忽然と現れた懐古趣味的な領域。
道沿いの土産物屋や鳥居の向こう側に見える近代建築の博物館が興ざめだが、それを補って余りあるほどの自然や寺社が付近一帯を彩っている。
公園を設計した人間がきちんと定石を踏まえていたとするならば、今立っているこのアスファルトの通りはいわゆる表参道で、あの満月の下に鎮座する巨大な仏閣まで続いているのだろう。
想像していた以上に観光地化が進んではいるが、それでも辺りに漂う独特の気配からはこの国が失って久しい惟神の精神を感じ取ることができた。
いずれにしろ、近代と古代の意志が交錯し違和感と思慕が混在した不協和の空間は、いかにも甕星の狂信者たちが好みそうな環境だ。
現場を一望しておおよその土地勘を掴んだ亜衣は、鳥居の側で待機していた良知の前にゆっくりと立ち止まった。
「はぁぁ……やっと着いたぁ……」
制服の胸元を指先で掴みパタパタと扇ぎながら、亜衣は呼吸を整えるために大きく息を吐く。
「さすがにノンストップってのは……はぁ……キツイわね……」
「お前な、あれくらいの距離でへばっているようじゃまずいだろ。いつもヘラヘラ遊んでないで、ちょっとは鍛えた方がいいんじゃないか?」
亜衣とは対照的に平然と構えていた良知が呆れ顔を浮かべた。
「何よ、その言い方はぁ。あたしはあんたみたいな体力バカとは違うのよ。ごく普通の女子高生なんだから仕方ないの!」
まくし立てるように反論し、言い切った後で再び息を弾ませる。
「体力バカってお前……。あのな、オレはそれだけ鍛えてるってことだよ。大体、体力が無くて困るのはお前自身だろうが」
臆する様子もなく意見を返す良知だったが、そんな態度が人に不快感を与えるという事実に本人は気づいていないらしい。いくら正論だとはいえ、いや正論だからこそ自分の弱みを握られたと感じて棘が立つ。話の内容ではなく言い回しが問題なのだ。
礼儀作法の初歩である単純な機微も理解できていないなんて良知は子供よね、と亜衣は思ったがそれを口にするのは止めておいた。こんな口論はお互いが不愉快になるだけだし、これまでの経験から良知に悪気がないことも分かっているからだ。
上辺だけのつき合いを嫌うがゆえにいつも本気の助言をしてしまう類の人間なのだ、彼は。
正直、もう少し距離感を調節する技術を勉強して欲しいとは思うけれど、本人が自分で気づくまではいくら言っても無駄だろう。
「まあ、あんたの言うことは分かるけどさ……。まあいいわ。それよりどう? もう準備はできてる?」
すっかり正常な呼吸に戻っていた亜衣は、状況確認という手段で話題を逸らすことにした。
「あ、はい。わたしは大丈夫ですよ。いつでも突入できます」
ふんわりと微笑みその場で一回転して見せた一葉は、上半身に巫女が祭祀に用いるようなデザインの装束を羽織っている。一葉によれば、『撫物衣』と呼ばれるその衣は彼女の家系に伝わる戦闘用の衣服らしく、災厄を吸い寄せるための特別な咒術が施されているらしい。
「咒符の準備も、ほら、この通りです」
広い袖口の中に仕込んである咒符の束を見せて、一葉はもう一度やわらかく微笑んだ。
「あはは、さすが一葉。ホント優秀よねぇ……いい子いい子」
素直で素朴な一葉の態度に嬉しくなった亜衣は、自分の胸ほどの高さに位置する黒髪の頭を撫で回す。
「あ、亜衣さん……」
子供をあやすかのような亜衣の態度に困惑する一葉だったが、優しすぎる性格のせいかはっきりと否定することができないらしく、手を挙げてささやかに抵抗はしてみるもののあまり効果は上がっていないようだった。
「はぁ……お前、本当に緊張感ねぇな。方違が困ってるだろ。もうその辺にしとけって」
されるが儘の一葉を見かねたのか、良知がため息混じりに意見した。
「あはは、あんた分かってないわねぇ。これはいわゆる愛情表現ってやつなんだから、別にいじめてるわけじゃないのよ。ね、一葉?」
一葉の顔をのぞき込むように同意を求める亜衣だったが、当の本人は明らかに困っている様子で視線を泳がせている。
「んなわけないだろ。どう見たって弱い者いじめにしか見えないっての」
「何よそれぇ、言ってくれんじゃないのよ。だいたいねぇ……」
と、そこまで言って発言を止めた亜衣は、ほんの一瞬だけ何かを考えているような素振りを見せた後、したり顔で手を叩き良知の顔をのぞき込んだ。その表情は、亜衣のいたずら心を如実に示しているいつもの含み笑いだ。
「あはは、なんだそうかぁ……。もう、良知ってば、あたしたちがあんまり仲良しなもんだから嫉妬しちゃった? ホント、素直じゃないんだから」
一葉から良知へとお遊びの対象を変更した亜衣は、あえて相手の反論を誘発するような口振りを意識している。
「はぁ? お前何言って……」
「分かってるって。あんたも頭撫でてほしいんでしょ。それならそうと早く言ってくれればいいのにぃ」
いたずらっぽく微笑んで強引に話を進めた亜衣は、たじろぐ良知の頭に手を伸ばした。
「うおっ! お、おい、やめろって!」
大袈裟に体を反らして亜衣の手を避けた良知は、致命的な剣の打ち込みが降り掛かってきたかのようにバックステップして間合いを取る。戦闘時でもなかなか見ることのできない鋭い動きだ。
「ちょ、ちょっとぉ、そんなに嫌がることないじゃないのよ!」
生真面目で応用の利かない良知のことだから素直に頭を撫でさせてくれるとは思わなかったが、想像していた以上に拒絶されたので少し切なかった。たまにはあたしに合わせてくれてもいいのに、と思った。
ほんの些細な、他人にとっては取るに足らないことでも、本人からすればとても重要な意味を持っているということは往々にしてある。特に年頃の女の子は男が思っている以上にデリケートで傷つきやすい生物なのだから、良知はその辺りをきちんと理解しておかないといずれ痛い目を見ることになるだろう。
「あんたねぇ、あたしがせっかく誉めてあげるって言ってんだから、もっと素直になりなさいよね」
「何言ってんだよ。オレは別に誉めてくれなんて頼んでないだろ」
当然と言わんばかりに即答する良知の態度に、亜衣の負けず嫌いな性格が頭をもたげた。教育を兼ねてもう少しいじめてやろうと思い立った亜衣の脳裏からは、自分が二人の部下を諫めるべき立場にあることなどすっかり抜け落ちてしまっている。
「もう、分かった、分かったわよ。結局あれでしょ、あんたはあたしみたいなタイプよりもペッタンコの方が好きってことよね!」
「な……お前、まだ言うか! それは誤解だって昨日ちゃんと言っただろうが!」
「だってさ、あんたって何かあるといっつも一葉の肩を持つし、そう思うのが普通じゃない?」
「普通じゃねぇよ! お前、全然分かってねぇな! いいか、オレはな、人を外見で判断しないんだよ。大切なのは人として誠実に生きているかどうかだ。いくら顔が良くても、思いやりがない女なんて最低だろうが!」
反撃を試みるうちに独自の恋愛論にまで突入した良知だったが、こうなってしまってはもう完全に彼女のペースだ。いくら反論してみても、今の亜衣にとっては主導権を握るための糸口にしかならず、ましてや良知の青臭い恋愛観など興味の範疇外だ。
「あのぅ……ですから、ペッタンコって一体何のことですか?」
更に、話の腰を折るような一葉の天然ボケが追い打ちをかける。
「はぁ…………もういい。止めだ、止め!」
これ以上は分が悪いと判断したのだろうか、良知は大きなため息と共に会話を打ち切った。
「あのな、今はこんなことをしている場合じゃないだろ。早くしないと、また連中に後れを取ってしまうことになる。そうなったら、オレたちだけの問題じゃ済まないんだぜ」
亜衣としてはもう少し言い争いを続けてもよかったが、話を逸らした良知の態度を降伏宣言と見なしここらで許してあげることにした。それに冷静になって考えてみれば良知の言うことも一理ある。すっかり失念していたが、ここは公共の遊戯場などではなく、敵対勢力が潜む戦いの場なのだ。
「とりあえず、こっちはもう準備できてる。後はお前だけだ」
良知は左腰に携えた打刀の鯉口を切って数センチ持ち上げた後、柄頭を軽く叩くようにして元に戻した。
チン、という澄んだ鍔鳴りが響き渡り、その清浄の音霊が緩んでいた三人の心を引き締める。
「……ま、準備たって特にすることはないんだけどね」
良知の言葉を受け手元の革袋に視線を落とした亜衣は、自分にしか聞こえない程度の小声で神咒の奉唱を始めた。言霊との同調を意識して袋の表面に視線を送ると、その先で激しい炎が立ち上り、そしてすぐに消滅する。
燃え尽きたのは、革袋に貼付されていた咒符だ。
特定の作法で咒符を燃やすことで、袋に施された封印を解いているのだ。
「これ、さっき諜報員の男のコが届けてくれたのよ。けっこうイケメンだったわ」
いつもの調子で軽口を叩きながらも、亜衣は休むことなく封印の咒符に意識を送り込んでいく。
封印の要が一枚ずつ解かれていく従って、袋から洩れる霊気の胎動がより明確になっていくのが感じられた。
「……はい、これで終わり、っと」
最後の咒符を燃やし幾重にも重ねられた封印を解き終えた亜衣は、何の感慨もなく袋の口を開いた。
肌を焦がすような高密度の圧力が走り抜け、一呼吸の後に亜衣の手に収まっていたのはよく練れた気を放つ一条の槍。
鞘を払うと、炎のような刃文を浮かべた紅蓮の刀身が現れる。
――降魔槍・禍火焔。
宿主の特異能力に呼応して、清浄の神火を纏い、あらゆる魔を祓い清める。
稀少な霊的金属とそれを精製するための高度なテクノロジーによって鍛え上げられた、呪的開発班渾身の武神具だ。能力者の中でも特に尊い人材にのみ託される『守護者』と呼ばれる神器の一柱であり、その霊威は記紀等の神話に登場する神伝の武具に追随するとさえ言われている。
国内のあらゆる霊能者が集う神威の中にあって、これを手にしているということはそれ自体が栄誉であり、揺るぎのない地位の保証を意味していた。
本来ならば、何の後ろ盾もない凡庸な系譜の出身である亜衣が結縁者として選出されることなど有り得ないのだが、現実に部隊長という地位を得てそれなりの成果を挙げているという事実を考えれば、やはりそこに何らかの事情が隠されていると考えるのが妥当だろう。
表向きには、亜衣が持つ特異能力のポテンシャルが主な理由とされている。確かに亜衣は類い希なる強い力を持ってはいるが、神威の内部評価で言えばかろうじて上位に食い込んでいるという程度に過ぎず、神器の数が五柱に満たない現状から見ても決定的な条件にはなり得ない。
とすれば、彼女自身が保有する実務能力の外に要因があると推測するのが自然な流れだ。
実は、当事者である亜衣はそのことについて薄々感づいている。
権力と金が何よりも大好きな大人たちの陰謀、と彼女は解釈しているが、つまり国家の平和維持を目的とする神威の組織内にも、主導者を異にする複数の派閥が存在しているということだ。
何のことはない、たまたま亜衣のパトロンとなった人間が身分相応の欲を出し、己の私腹を肥やすために彼女を体裁良く利用しただけなのだ。
バカみたい、と亜衣は思うが、それが正義を標榜する組織の実態ならば成否を問わず受け入れなくてはならない、とも思う。
どれだけ実力があっても、個人レベルの努力で体制を揺るがすことなどできないからだ。
簡単に諦めてしまうことに疑問を抱かない“今時の”女の子である亜衣は、自分にとって都合の良い現実のみを受け入れて、後は身に余る難題として解決を先送りにしてしまう。
例え傀儡に成り果てようとも自分自身が堕ちることなく正義を貫いていれば何の問題もない、というもっともらしい信念の中に盲信の原理が混在していることに気づいてない。
だからこれからも、その弱さに付け込まれ、利用され続ける。
「禍火焔、か。久しぶりに見たけど相変わらず強烈だな。近くにいるだけで肌がヒリヒリするぜ」
「あはは、すごいのは槍じゃなくて、それを使いこなすあたしの可愛さと実力よん」
冗談めかして言った亜衣は、携えた手槍を頭上に掲げ一回転させる。
刀身に発生した真紅の焔光が渦巻く熱風の尾を引いて、選ばれし少女の横顔を照らし出した。
愚かで、切なくなるくらい純粋で――
「……それじゃ、そろそろ始めよっか。さっさと終わらせて、何か美味しいものでも食べに行こ」
二人の仲間に微笑みかけアイコンタクトで想いを伝えた亜衣は、率先して歩き始めた。
鳥居の前で一旦立ち止まり展開されていた隔離結界を槍で引き裂いた後、その隙間から内部へと侵入していく。
少し緊張した面持ちの一葉が続き、刀の柄に手を添え不慮の事態に備える良知が最後尾を護っている。
自己の利益を軽視し、価値ある指針に殉じようとしている少女たちにとって、正義という動機を持て余しながら日常の境界を潜り抜けることはごく自然な行為だ。
その背中には、内側に収束する葛藤を退けるのに充分な誇りと信念がある。
人類が理想とする最終地点を目指す者は、善の仮面を被ったペテン師が唱える汚物のような矛盾に気づくまで、戦い続けなければならない。
懊悩に打ち勝ち真摯に歩けば歩くほど、その足跡に報いは訪れない。
あるいは目を背けることで勝ち得た恍惚の中に、その命の灯火が果てるときまで。
なかなか戦闘シーンになりませんが、もうすぐです。
相変わらずの三人の掛け合い。亜衣の不安定な心理を描写できてると良いなぁ。
【武神具】
・降魔槍/禍火焔
『守護者』と呼ばれる神器の一柱。亜衣専用の武器。
【武具】
・撫物衣
一葉が戦闘時に着る巫女装束。災厄を引き寄せる。
・打太刀/月戒
良知が所持する日本刀。
【術】
・九韻の印を解く言歌
武神具の封印を解くための術。




