第一話 灰色の空 (1)
憂いを抱いて掲げた手に、灰色の空が絡みついてくる。
狂おしく清められた街角に胎動の兆しはなく、人が作り上げた不協和の余韻だけが虚しく立ち込めていた。
辺りを見渡せば不規則に散らばる瓦礫の影。赤黒の斑を落とす家屋には大小の抜け殻が寄り添い、ビルの窓枠を穏やかな微風が吹き抜ける。
強者の気まぐれよって進化の舞台に選ばれた界隈は、醜い放熱の痕を折り重ねて沈黙していた。
それは当事者のみが知り得る高尚な終焉の証。
活動を停止した大地には一匹の虫すら見あたらず、五感に染み入る全ての要素が仄暗い。
平凡ゆえに数多の煌めきを生産してきた街並みは、始まりからちょうど九日目を迎えた朝、一途な祈りすら消し去って完全なる崩壊を迎えたのだ。生存者はいない。
――『急性殺戮衝動症候群』。
数年前に初めて発症が確認された悪疫は、適切な治療方法が確立されないまま猛威をふるっている。
惨劇の元凶とも言えるこの流行病について国家の研究機関はウィルスによる感染症の可能性を示唆しているが、それを裏づける証拠は見つかっておらず、発症前に吹くとされている風との因果関係も不明瞭なままだ。一説には国家の転覆を目論む霊的テロリズムとの関連も噂されているが、それも憶測の範囲内であることには代わりがない。
ただ確実なのは、この病が国土全域にわたって発症しているというわけではなく、極めて限定された区域に分かたれ断続的に広まっているという点だ。加えて、病そのものは致死の脅威を持たず、感染者が二次的に被害を拡大していくという事実も軽視するわけにはいかないだろう。
二度目の千年紀を越え人心の制御が囁かれる世相にあって、世界は未だに迷走を続けている。人類を侵食する狂気の繰糸は、利己に忠実な機械人形を嘲っているのかもしれない。
「……破滅を契る永遠の環。どれだけ悲嘆を重ねても、人はその呪縛から逃れることはできないのか……」
倒壊した雑居ビルの前で男が呟く。
両手を天に捧げ瞳を閉じているその姿は、信心深い宗教者の祈りを思わせた。だが彼の周囲を取り巻くのは原形を留めぬほどに陵辱された死骸と、陰鬱な焦れを刺激する腐敗臭……。
世界の汚穢を一手に引き受け、男は何の象徴であろうとしているのだろうか。
<<独善的行為及び殺戮衝動の症候群:感染者リスト(抜粋)>>
・
・
番号 S七二一六三九一号
感染日時 元年+0 四月三日
職業 司書
年齢 二十六歳(当時)
性別 男
趣味嗜好 読書。文学、神学、自然科学等、特に人倫書を好む。性善説に傾倒。
審神者の霊視による退行催眠風景
ビルの屋上から見下ろす夜景。煌びやかなネオンが輝いている。自己顕示と曖昧な認識が作った心の墓場だ。手すりに掴まって女は微笑んでいる。悲しみと喜びが両立した笑顔。時を置いて確認するとコクリとうなずいた。星を奉る定型句。祈り。大気が変わり眼前の景色が霧で覆われた。瞑目する女の横顔は威厳に満ちている。確信は揺るがない。夜景は悪意に呑み込まれた。
・
・
番号 S一〇八二一三七五号
感染日時 元年+0 四月六日
職業 巫
年齢 十二歳(当時)
性別 女
趣味嗜好 特異な家柄に生まれたため俗世の歓楽には触れず。愛犬との散歩を好む。
審神者の霊視による退行催眠風景
山の中。薄暗いトンネル。人はいないのに複数の気配が動いている。衣に引き寄せられて霊たちがやってきた。それぞれ性質を見極め退魔の行に入る。雨。桔梗の壁。白い虎。地縛霊を祓い、怨霊を祓い、動物霊を祓う。最後に残ったのはこの世に生まれることのできなかった赤子。なぜだか懐かしい感じがする。ふいに祖母の言葉を思い出す。理由がわかった。涙が出た。
・
・
番号 S一二一三八七四六号
感染日時 元年+1 十一月十八日
職業 学生
年齢 十五歳(当時)
性別 女
趣味嗜好 買物、動画投稿、カラオケ等。学友との遊興が主。喫煙癖あり。
審神者の霊視による退行催眠風景
夜の街。すれ違う人々は疲れた顔をしている。皆無理をして笑っている。友人と共に駅へ入ろうとすると、誰かの叫び声が聞こえた。転がってきたのは女の首。嫌な臭い。耳障りな鳴き声。大急ぎで逃げた。息が苦しい。それでも逃げる。足を止めた友人が頭を抱えてしゃがみ込む。血走った瞳。何かの衝撃に吹き飛ばされた。意識が遠のく前に親友を抱きしめる。ほどなくして二人は火柱に焼かれた。
・
・
番号 D一四〇八二五〇六号
感染日時 元年+2 七月五日
職業 教員
年齢 四十八歳(当時)
性別 男
趣味嗜好 兵法指南を通じて健全な人材の育成に励む。酒豪。過去に離婚経験あり。
審神者の霊視による退行催眠風景
狭い室内にけたたましい足音。気分がすぐれないので一人自宅に戻る。数時間寝込むが治まらず全身が熱を帯びてきた。外が騒がしいのでふすまを開ける。吹き込む風は気分を和らげてはくれない。愛妻が粥を持ってきてくれた。お盆を畳の上に置いた妻は血を吹いて倒れる。息子が帰ってきた。片手には蜜柑の缶詰。所持していた脇差しを腹に突き立てた。
番号 S一四〇八二五〇七号
感染日時 元年+2 七月五日
職業 学生
年齢 十六歳(当時)
性別 男
趣味嗜好 単身を常とし学内での交友も少ない。孤独を好む。父親の影響を多大に受けている模様。
審神者の霊視による退行催眠風景
心地良い音。誇りに満ちた音。汗を拭い窓の外を見る。日が暮れたので自宅へ戻ることにした。途中スーパーに立ち寄り缶詰を買う。門前まで来ると遠くの方で犬の鳴き声が聞こえた。くぐもったような声質に違和を感じるも気にせず戸を開ける。父親が立っていた。白目を剥いて痙攣している。訳もわからず殴打され外まで転がる。満月の光が暗闇を染め上げた。