侯爵令嬢のアンヌと婚約者のアストラッドはこじれている。
わたくしの婚約者は麗しく優秀なけど真面目な人だ。
わたくしはヴァラディン王国で生まれた。王国でも指折りの名家で有名なフィラルディア侯爵家の長女だ。父がジェラルディンといい、母はレイシアといった。二人とも同い年の幼なじみで40を2つ越したくらいの年齢だった。そんな両親だが現在は冷えきった仲となっている。
義兄が一人いる。わたくしは一人娘で侯爵家の跡継ぎにと従兄弟のヴァインズが養子として迎えられていた。ヴァインズは三歳上で今年で23歳になる。
さて、婚約者のアストラッドはヴァインズより二歳上で25歳だ。王国でも随一の名家のヴァレンチノ公爵家の嫡男で現在は宰相補佐官を務める。
そんな彼は深みのある藍色の髪と淡い灰色がかった銀色の美しい瞳の眉目秀麗な青年だ。ヴァラディン王国では1、2を争う美男として有名だった……。
「アンヌ。今日も元気そうだな」
そう言ったのは婚約者のアストラッドだ。
わたくしも笑いながら答える。
「ええ。ラッドも元気そうで何よりよ。父様がラッドに話があると言っていたわ」
「え。ジェラルディン様いや。フィラルディア侯爵が?」
「そうよ。何でもあなたの領地の今年の収穫量について相談したいとか。早く行って来た方がいいと思うわ」
「わかった。わざわざありがとう。行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
わたくしが言うとアストラッドは侯爵邸ー我が家に急ぎ足で行く。それを見送ると東屋に向かう。近くにいたメイドのジェニファーも一緒に来た。
「アントワーヌ様。アストラッド様は最近、お仕事で忙しいようですね」
「そのようね。けどわたくしは大丈夫よ。父様やラッドの助けになりたいし」
「アントワーヌ様…」
ジェニファーが心配そうにこちらを見る。大丈夫だと笑って東屋のカウチに腰掛けた。
翌日、ジェニファーの心配は的中した。アストラッドがわたくしにも黙って実家のヴァレンチノ公爵家の別邸に子爵家出身の令嬢を囲いこんだと執事から知らせが入る。
「それは本当なの。ルマン」
ルマンというのは目の前にいる執事の名だ。ルマンは深々と頭を下げたままで答えた。
「そうです。アストラッド様はその子爵令嬢に大層ご執心とか。既に愛人にして身籠っているとの噂もございます」
「……そんな。ラッド、信じていたのに」
「旦那様にも知らせが入っています。まもなくいらっしゃるかと」
お覚悟をとルマンは言う。仕方なくわたくしは父のジェラルディンの訪れを待った。
わたくしは本来の名をアントワーヌ・フィラルディアという。縮めてアンヌと呼ばれていた。ジェニファーはアントワーヌ様と呼んでいるが。
さて、父が来たのでわたくしは応接間のソファに腰掛けていた。ソファから立ち上がって浅く礼をする。
「父様。お忙しいところをすみません。アストラッド様の事は聞いているようですね」
「ああ。たく、あいつめ。我が一族を侮辱する気か」
「父様。まだ、事の真偽は判明していません。落ち着いてください」
父はふうとため息を吐きながらわたくしの向かい側のソファに座った。眉間にしわを寄せて疲れたような表情をしている。
「……アンヌ。実はアストラッドが使っている別邸の場所と囲っている子爵令嬢の名前がわかった。別邸の場所はヴァラディン王国の北部にあるウィズという町にある。後、子爵令嬢の名前はイルナ・コンティという。イルナ嬢はなかなかに強かな女性らしいが」
「ウィズという町ですか。王都からは離れていますね。イルナ嬢といえば、わたくしが王立のヴァンフォーレ学園に通っていた時に同じ学年でした。とても背が高くて顔立ちも綺麗な人でしたね。性格は明るく温厚な感じだったかと」
「話した事があるのか?」
「いいえ。友人から教えてもらっただけです。遠目から眺めた事があるくらいですし」
わたくしが言うと父はなるほどと顎に手を当てた。まさかなと思った。あのイリナ嬢にはヴァンフォーレ学園に通っていた時から噂はあったのだ。
数々の有力者の子息と親密になっているとかヴァラディン王国の王子殿下とまで恋仲になっているなどだが。確か、第一王子はアストラッドと同い年だし既に既婚の身だった。お子様も二人の王子が生まれている。第二王子が四歳下でわたくしより一つ上だ。この方はわたくしと同級生だったとある公爵令嬢と結婚していた。
この公爵令嬢は国でも有数の美貌と頭脳を誇り性格も気は強いがなかなかに冷静な一面を持つ方だ。政務にも精通していて第二王子を立派に補佐している。仲も良く他の令嬢が割り込む隙もない。
第三王子はわたくしと同い年で同じ学年だった。まだ独身で婚約者も何故かいない。この方もなかなかの美男である。若い令嬢や貴婦人達から熱い眼差しで見られていた記憶があった。主に夜会でだが。
「まあ、アンヌ。アストラッドの浮気が本当かどうかは後日に回すとして。今はゆっくり休みなさい」
「はい。父様はどうしますか?」
「私はとりあえずイリナ嬢とアストラッドの事やお前との婚約をどうするか陛下やヴァレンチノ公爵と話し合う必要がある。明日にでも王宮へ行ってくるよ」
「わかりました。沙汰は邸で待ちます」
「そうしてくれ。じゃあ、夕食を食べたらいい。レイシアが後で来るだろう」
父はそう言うと立ち上がった。応接間を出ていくのを見送ったのだった。
一週間が経った。ルマンやジェニファーから新たな情報がもたらされた。アストラッドの囲いこんだイリナ嬢はなかなかの浪費家らしい。
「何でもイリナ嬢は勝手にアストラッド様の別邸に押しかけて愛人どころか本妻気取りでいるとか。アンヌ様の悪い噂も流してアストラッド様が婚約解消するように仕向けていると聞きました」
「ひどい事をするわね。ラッドは何をしているの。イリナ嬢がしている事を野放しにしているなんて」
「……アストラッド様も何とかイリナ嬢に別邸を出ていくように働きかけてはいるようです。けどなかなかイリナ嬢は応じずにいるとか」
ルマンの話を聞いてアストラッドも今回の事は不本意なんだとわかった。別邸にイリナ嬢が無理やりに押しかけて居座っているらしい。が、彼女の目的が今一つわからなかった。何で別邸にわざわざ本妻気取りで来たのか。
「……ねえ。ルマンに頼みたい事があるの」
「どうかしましたか?」
「今からわたくし身支度をするわ。ヴァレンチノ公爵家の別邸のあるウィズに行きます。ジェニファーとルマンも付いてきて」
わたくしが言うとジェニファーとルマンは顔を見合わせた。ちなみにルマンは35歳くらいで銀縁の眼鏡をかけている。黒髪を撫で付けていて薄い藍色の瞳を今は見開いていた。
「お嬢様。今から行くのですか?」
「ええ。後、騎士のレオンも同行させて。急ぐわよ」
てきぱきと指示を出した。ジェニファーとルマンは急いで支度を始めたのだった。
外出用のワンピースに編み上げのブーツ、帽子を着こんで背中の真ん中辺りまである薄い茶色の髪は三つ編みにしている。それを帽子の中にしまいこんで馬車に乗った。ジェニファーも簡素なワンピースに踵が平らな靴を履いて帽子を同じように被っている。
ルマンが御者になり馬に乗って騎士のレオンも付き従う。四人で出発した。
しばらくして王都を出た。がらがらと車輪の音の中でわたくしはイリナ嬢の事で考えていた。ジェニファーも心配そうにこちらを見ている。
まず、イリナ嬢は20歳でコンティ子爵家の次女だ。母は本妻ではないらしく平民出身の愛人だった。ただ、イリナ嬢は美しい金色の髪と淡い銀の瞳の冷たさを感じさせる美貌の持ち主だ。それに目をつけた父のコンティ子爵が別邸から本邸に彼女が10歳の時に引き取った。淑女としての厳しい教育を受けてイリナ嬢は社交界デビューをする16歳の時には完璧な令嬢として噂になる。引く手あまただったのにわたくしの婚約者に目をつけた。
それが腑に落ちなかった。「ジェニファー。イリナ嬢に会って話を聞いてみたいわ。そのために邸を出たの」
「そうだったんですか。お嬢様がいきなり言い出したので驚きました。イリナ様に会って話をするためなんですね」
「そうよ。ウィズまでは遠いけど。ラッドもわたくしが行けば。知らせを聞いて来ると思うわ。その時に婚約解消を言い渡すつもりよ」
はっきりと言うとジェニファーは痛ましげな表情でわたくしを見つめた。
「まあ。お嬢様、アストラッド様と婚約解消をするのですか?」
「そうよ。父様にも後でお願いするつもりだわ」
笑顔で告げるとジェニファーは黙り込んでしまった。馬車は重い沈黙に包まれたのだった。
ウィズに入り、ヴァレンチノ公爵別邸にたどり着いた。別邸は白亜の宮と呼ばれていて白い大理石造りのしゃれたこじんまりとした建物だ。
エントランスホールに繋がるドアをルマンが叩いた。すぐにドアは開かれてメイドが応対する。
「あら。どちら様でしょうか?」
「わたくし共はフィラルディア侯爵家の者です。コンティ子爵令嬢がこちらにいらしていると聞きました。主がお会いしたいとかで」
「まあ。フィラルディア侯爵家といったらアストラッド様、若様の婚約者様のご実家ではないですか。わかりました。イリナ様にお伝えします」
メイドはルマンにそう言うと中に急いで行った。わたくしは馬車から降りてジェニファーとレオンの三人で待っている。
少し経ってメイドは別邸に入るように言ってきた。わたくしはルマンを先頭に中に入った。エントランスホールを通りイリナ嬢のいる二階の部屋に向かう。
部屋の応接間にメイドはわたくしとジェニファーを通した。ルマンは廊下で待つ。
応接間はベージュの壁紙に白木造りの家具、絨毯も薄い黄緑色で落ち着いた感じだ。わたくしの部屋とはまた違い、上品な色調になっていた。
凝った刺繍が施されたクリーム色のクッションが置かれたベージュ色のソファに問題のイリナ嬢らしき若い女性が座っている。
「……あら。騒がしいと思えば。泥棒猫が来ていたのね」
「な。泥棒猫はそちらの方でしょう。アストラッド様の本妻気取りで歴とした婚約者殿の地位を脅かすなんて。常識を疑います」
「メイド風情が生意気な事を。けど、婚約者ねえ。もしかしてフイラルデイア侯爵のご令嬢かしら?」
ジェニファーが反論するのを黙らせた女性はわたくしに視線を向けてきた。
「……そうよ。わたくしがフイラルデイア侯爵の長女で名をアントワーヌ・フイラルデイア。あなたがイリナ・コンテイ子爵令嬢ね?」
「そうですわ。まあ、婚約者様が直々に来るとは。何かございましたか」
「白を切るつもりね。はっきり答えて。あなたがアストラッド様に自分を本妻にするように迫ったと聞いたわ。どういうつもりなの」
「あたしはどうこうするつもりもないわ。ただ、あたしはこの世界の主人公でヒロインなの。アストラッドはいい鴨ですよ。ねえ、アントワーヌ様。あなたはこの世界の悪役令嬢なのよ。アストラッドを攻略して結婚する為には。あなたは障害で邪魔な存在なの。だから、消えてもらうわ」
イリナ嬢はにこりと笑いながら意味不明な事を言う。ヒロインや悪役令嬢と聞いてもピンとこない。
「何を言ってるの。あなたが主人公でわたくしが悪役令嬢?あり得ないわ」
「ふふ。御託はいいわ。ジェーン、イルア。この女を捕らえておしまい」
「わかりました。アントワーヌ侯爵令嬢。失礼致します」
ジェーンイルアと呼ばれたメイド達はわたくしの両腕を強い力で掴んだ。ぎりと指が食い込む。痛さのあまり眉を寄せるとイリナ嬢は面白そうに笑った。
「いい気味ね。あんたさえいなければ、あたしが公爵夫人になれていたのよ。だからしばらくは地下牢にいなさい」
わたくしは腕を振り払おうと暴れた。が、ジェーンとイルアの二人により強い力で押さえ込まれる。そのまま、引き摺られていったー。
カツンカツンと足音が響く。ジェーンが地下牢の一つの前で立ち止まる。かちゃりと鍵が開けられて中に入るように言われた。
仕方なしに入れば、イルアが再び鍵を掛けて扉も閉めた。
「お前はずっとここにいるのよ。イリナお嬢様に会わなければ婚約破棄だけで済んだものを。のこのこと来るからこういう事になるんだ」
「……そう。じゃあ、わたくしを最初から幽閉するために敢えて情報を流したわけね」
「ふはは。バカな奴。やっと気づいたか。が、お嬢様はお前を本気で嫌っていた。運が悪かったな」
そう言ってジェーンとイルアは地下牢を去っていった。わたくしは絨毯も敷かれていない石床に直に座った。ふうと大きな息を吐いたのだった。
夕方が来てわたくしは今が真夏だという事を思い出した。ジメジメとした空気の中で汗ばむのを抑えられない。アストラッドも父もいないので助けを求められそうになかった。
壁に寄りかかり鉄格子越しに外を見てみる。暗闇の中、ジェーンとイルアが置いていった蝋燭の灯りだけが頼りだ。わたくしは食事もないので空腹を持て余していた。
(ジェニファーとルマンは大丈夫かしら。何事もなければいいのだけど)
そう思って一晩を過ごした。
翌朝になっても誰も来ない。わたくしは寝不足と空腹でくらりと眩暈がした。本格的に体調が良くない。それでも壁に寄りかかってやり過ごす。ふと、地下牢の廊下にガチャガチャという金属の擦れ合う音や複数の人の足音が聞こえた。
「……こっちだ。ご令嬢はここにいるはずだ!!」
「はっ。アストラッド様。あちらではありませんか?」
そういう声がしてわたくしのいる地下牢の前に複数の蝋燭の火が見えた。カツンカツンと足音が近づいてきて深みのある藍色の髪と淡い灰色がかった銀の瞳が蝋燭の灯りでぼんやりと浮かび上がった。
「……ああ。茶色の髪に琥珀の瞳。まさしく君だ」
「もしかしてラッドなの?」
「そうだよ。酷い目に遭わせてすまなかった。イリナ殿は俺が捕まえて王宮の騎士団に引き渡したから。でも無事で良かった」
アストラッドは安堵したらしくほっとした笑みを浮かべた。鍵を開けてわたくしを牢屋から出してくれる。
アストラッドにいきなり抱きしめられた。ほうと彼は息を吐く。しばらくそうしていた。
しばらくしてアストラッドや彼の部下達と共に地下牢から出た。アストラッドはふらつくわたくしを見かねて小さな子のように抱き抱えて地上に出る。
半日ぶりの日の光は眩しくて目を細めた。アストラッドは近くに馬車を待たせていると言ってそちらに行く。その間も抱き抱えられたままだ。
馬車の扉を開いて中に乗り込むとやっと降ろしてくれた。が、心配なのか隣に座ってわたくしを寄りかからせる。
「疲れたろう。ゆっくり休むといい」
「でも」
「いいから。寝ていないんだろう。顔色が悪い」
仕方なしに言われるがままに目を閉じた。アストラッドが頭に手を置く。そのぬくもりにほっとしながら意識を手放したー。
さて、わたくしは二日ぶりにフイラルデイア侯爵邸もある王都に戻ってきた。
父と母、義兄の三人が待ち構えていた。当然ながら両親にはこっぴどく叱られた。義兄からもお説教をもらい、「アンヌ。今度から出かける時は必ず俺らに言ってからにして」と忠告されるし。
ただ、必死に謝る事しかできなかった。後、婚約者のアストラッドは以前にも増してわたくしへのスキンシップを積極的にするようになった。もう、デロデロに甘やかされる。
今日もそうだった。わたくしを膝の上に乗せて頭を撫でている。
「アンヌ。今日も可愛いね」
そう言われて顔が熱くなるのを止められないのだった。
その後、アストラッドの話によるとイリナ嬢やジェーン、イルアの三人は捕まり王宮の騎士団に引き渡された。ただちにイリナ嬢は王宮の地下牢に入れられて裁判にかけられた。彼女は以前にも同じような手口で他の貴族の令嬢を強姦させたり監禁してゴロツキ共を雇って暴力を振るっていたらしい。
そのせいで亡くなった令嬢もいたという。イリナは処刑ー斬首刑が決まり三日後に実行された。ジェーンとイルアも絞首刑になった。
わたくしが監禁されたとルマンとジェニファーが父と母、アストラッドには知らせたらしい。すぐにアストラッドは行動に移した。
実はイリナ嬢に声をかけたのはアストラッドの方だったらしく彼女に恋情を抱いていると見せかけた。これは陛下と第一王子殿下の秘密裏の命だった。
イリナ嬢に気があると思わせて油断させて罪状を調べるために近づいたのだとか。
アストラッドは後で謝ってくれた。こうして令嬢の連続監禁事件は幕を閉じた。わたくしはアストラッドと無事に結婚できた。幸せな日々を送ったのだった。
終わり