勇者Ⅱ 旅の始まり
最初に違和感を覚えたのは匂いだった。
ぼんやりとした意識の中、植物の青々とした匂いが鼻腔をくすぐる。
目を開けると緑の空間にいた。
高い木々、空を覆い隠すほどの枝葉。
木々の隙間から日光がかすかに零れる。
僕はどうやら仰向けに倒れていたらしい。
上半身を起こし、周りを見回す。
何本もの高い木々が伸び、どの方向を向いても奥が見えない。
地面は湿り気を含んだ苔むした土、草が生い茂っていた。
水気を含んだ冷たい空気が肌寒い。
どうやら森の中にいるらしい。
森の中といっても、それ以上の情報はわからず、ここがどこかもわからない。
頭を押さえて、今までのことを思い出す。
白い部屋、女神を自称する少女。異世界“セフィリア”、魔王退治、交通事故、取引。
夢のような出来事だったが、それは妙な現実感を持って頭に中に残っていた。
もし全てあの女神の言う通りだとすると、ここは異世界“セフィリア”ということになる。
僕はここが本当に異世界か半信半疑になりながら、もう一度あたりを見回す。
木々に囲まれた森の中、時おり枝葉が揺れかさかさと音を立てる。
突然、ギャアギャアと音がして、思わず飛び上がりそうになる。
鳥の鳴き声だろうか。
いや、もしかしたらクマとか野犬とか危険な野生動物もいるかもしれない。
そうだ。とにかくこの森から出なければ。
今はまだ明るいが夜になったらますます危険で、このまま遭難する可能性だってある。
ここが異世界だろうと、現実世界だろうとここにいるのはまずい。
僕は立ち上がり、森を出るために歩き出すことにした。
どちらに向かえばいいか、そう考えている時に悲鳴が響いた。
「きゃああああああっ!!」
少女の悲鳴。
気づいたら僕はその声の方向へ走り出していた。
悲鳴があった場所は声の感じから、そう遠くない。
不安とか恐怖の感情があったが足は止められなかった。
木の根や石でつまづきそうになりながら走っていると、大きな木の陰から何かが飛び出した。
ぶつかる!
僕はとっさに片足で踏みとどまるが、体勢を崩してまい、そのまましりもちをつく。
「いってて……」
顔を上げると、ぶつかりそうになった相手がわかる。
白いローブを着た人物が転んでいた。
フードを被っていて顔は見えないが、体格から僕より年下の子供に見えた。
「大丈夫か」
僕は慌てて立ち上がり、フードの人物に近づく。
「あ、あの、追われているんです! 助けてください!」
女の子の声。彼女は僕を見るなり、書こう一番にそう言った。
声の感じから、おそらくさっきの悲鳴はこの子だとわかった。
「助けるって」何からと訊こうとしたとき、それは現れた。
彼女を追って来たもの、それは二体のゴブリンだった。
醜悪な顔、小柄だが筋肉質な体、手に持った棍棒。
それは白い部屋でみた姿そのままだった。
追って来たゴブリンたちは僕を見て、一瞬驚いたように目を見開くが、さほど大した相手ではないと考えいやらしく笑う。
その笑顔は強者が弱者をいたぶるときに見せるそれだった。
に、逃げなければ……。
僕は少女の手を引いて立ち上がらせようとするが、「いたっ!」言って少女はバランスを崩す。
少女は歯噛みをしながら、左足を抑える。
どうやら少女は転んだときに、足をくじいたらしい。
どうすればいい?
迫りくるゴブリンたちと、足を抑える少女を交互に見る。
彼女を置いていけば逃げられそうだが……。
僕は……、僕は……。
くそっ!
僕は近くに落ちていた木の棒を拾い上げる。
なかなか太く、しなりがあり頑丈そうな棒だ。
武器として心もとないが、何もないよりはマシだろう。
僕は少女を背にして立ち、ゴブリンたちに向かって木の棒を構えていた。
ほとんどやけくそだった。もうなるようになってしまえ。
ゴブリンたちは顔を見合わせる。
そして一体のゴブリンが咆哮を上げ、僕に向かって飛びかかる。
自分の身長を超えるほどのジャンプ力を見せ、全体重をかけて棍棒を振り下ろす。
僕は左腕を上げ防御する。
これから来る痛みを覚悟し、歯を食いしばって目を閉じる。
打撃音。
………………?
想像していたよりもはるかに軽い打撃だった。
てっきり腕が折れることも覚悟したが、痛みは軽い。
僕はとっさに反撃をする。
右手に持った棒でゴブリンを横っ腹を思い切り打つ。
ゴブリンは体ごと大きく吹き飛び、その先の木にぶつかって、木の根元に倒れる。
ゴブリンの肉体は黒く変色し、そして灰のように崩れて消えた。
僕は自分がしたことながら、今見た光景を信じられずにいた。
僕の筋力は高校一年生としては平均的な方だと思う。
それなのに小柄とはいえ、それなりの体重を持ったゴブリンを吹っ飛ばすなんて、信じられない。
いや信じられないといえば、さっきのゴブリンの攻撃だって、あんな軽い痛みで済むのはおかしいのだ。
もしかして僕は強くなっている……?
女神が何かの力を与えてくれて、僕の身体能力が上がっているのかもしれない。
これなら僕は戦えるかもしれない。
僕は残った一体のゴブリンをにらむ。
そのゴブリンは仲間がやられたことに驚き、警戒するように睨み返す。
低く唸り声をあげて、まっすぐ向かってくる。
もう恐怖はだいぶ薄れていた。
僕はそのゴブリンの頭にめがけて、棒を振り下ろす。
だがゴブリンは振り下ろした棒を真横によける。
空振りし棒は地面を叩く。
ゴブリンは棍棒で僕の右手を叩き、その攻撃で思わず棒を離して、後ろによろめく。
ゴブリンはジャンプし、僕の頭をめがけ棍棒を振り下ろそうとしている。
僕は痺れるような右手の痛みに耐え、左手で拳を繰り出した。
がむしゃらに出した攻撃だが、パンチはゴブリンの顔面に当たりそのまま吹っ飛ぶ。
そして一体目のゴブリンと同じように二体目のゴブリンは黒い灰になって消えた。
僕はただ呆然と立ち尽くしていた。
僕は今までこんな喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかったのと、魔物みたいな非現実な物と戦ったということから、困惑していた。
いや、いまだに異世界“セフィリア”に来たということすら実感できなかったのかもしれない。
「あ、あの……」
後ろから声がかかり、振り返る。
そこには白いローブの少女が立っていた。
「あの、助けていただいてありがとうございます」
少女はフードを下ろし、頭を下げる。
少女の顔を見た瞬間、僕は思わず「あっ」と声を上げた。
「め、女神……!?」
その少女は白い部屋であった女神と同じ顔をしていたのだ。
しかし似ているのは顔だけで、何か違和感がある。
白い部屋の女神は神秘的というか、現実離れした雰囲気をまとっていたが、目の前の彼女は違う。
なんというか、普通の女の子のようだ。
少女は最初はきょとんと首をかしげていたが、少しして「ああ!」と何か納得したような顔でうなずいた。
「もしかして、あなたは勇者さまですか?」
「えっ、勇者?」
「ええ、今日は夢の中で女神様のお告げがあったんです。『あなたは森の中で勇者に出会うでしょう』って」
その言葉を聞いて、僕は女神の言葉を思い出す。
『あなたはセフィリアで一人の少女に出会うでしょう。彼女はセフィリアの良き案内人になってくれるでしょう』
その少女の特徴を訊いたところ、女神は『会えばわかる』というようなことを言っていた気がする。
もしかして目の前にいる少女が案内人なのか?
少女はにっこりと笑う。
「私は教会で僧侶をしている、マーテルと申します。」
彼女は僕の手を掴んで言った。
「どうかよろしくお願いします。勇者様」
これが僕とマーテルの出会いであり、この旅の始まりであった。




