毒を盛られた村①
森まで死んでいるみたいだ、と思った。
鳥のさえずりどころか、風が葉を揺らす音さえ聞こえない。
首を反らして上を見ても、薄めていない絵の具をべったり塗りつけたように黒い葉が何層も重なっていて、先が全く見えなかった。
昼間は幽かだけどあたたかい木漏れ日を届けてくれていた存在するはずの隙間は、暗い空と同化してしまって、あるかどうかわからなくなっている。
唯一の明かりは、頼りなく炎の先が揺れるキャンドルランタン。
それがいくつか、たぶん10個ぐらい、離れて点在していて、それぞれを1つにつき20人ほどの男たちが囲むように座っていた。
馬から降り、荷物と一緒に腰も地面に下ろしてから何時間経ったんだろう。
「今、何時ですか?」
隣で舟をこいでいる上官の肩を軽く小突いてから、その耳元で無声音でささやく。
するとゼンさんは、男らしい強靭な肩をびくっと兎みたいに跳ね上がらせ、目を開いたと思ったら、慌てたようにあたりをキョロキョロと見回した。
何これ面白い。
「ああ゛?」
「声大きいです」
実は恥ずかしかったのか。単に不機嫌なのか。
睨み付けてくるゼンさんの口元を反射的に右手でふさぐ。
それにしても、さっきの様子は記録しておきたいぐらいだ。ゼンさんの挙動不審な様子なんて滅多に見れない。
俺が必死に笑いを堪えていると、ゼンさんはますます目じりを尖らせた。
眼光の鋭さだけで人を殺せそうだ。
現に、声に反応してこちらを向いた何人かは、まるで目を合わせたらまずい、とでもいうように顔をそっぽに向けている。
まぁ俺は慣れているからどうってことないけど。
「何時かわかりますか?」
手をそっと離しながら質問を再度繰り返す。
「ったく。時計ぐらいもっておけよ」
「そんな高価なもの持ってません」
そういうと仕方がねえな、とゼンさんは外套の奥に手を差し入れ、懐中時計を取り出した。彼の趣味とは思えない洒落た装飾の文字盤を俺に突きつける。
9時23分。
作戦開始は11時だったはず。
ってことはまだまだか……。
何もすることの無い時間がまだ続くことを考えると、思わずため息がもれた。
もういっそ寝てしまおうか。
時計をしまうなり、さっさと腕を組んで再び目を閉じてしまったゼンさんを見て、俺も、と思って一度体制を直した。
けど、さて寝ようと思ったその時、柔らかい地面を蹄が蹴る音が俺の耳に飛び込んできた。
何だろう?
足音はまっすぐ俺のいる方向へと向かってきている。
馬から降りたのはコウモリのように真っ黒い外套を着た小柄の男。
帽子に縫われた階級章から、彼が三等兵であることを読み取る。一番下っ端だ。
「セジウィック中佐。セジウィック中佐!」
焦ったように指揮官を呼ぶ彼に注目が集まる。
同じ黒でも、金色の装飾が目立つ制服を着た男が、ふたつ隣の集団から立ち上がった。頬が少しこけた青白い顔をした神経質そうな、階級の割には若いといえる男だ。
三等兵は彼の元に駆け寄り、すぐさま小さな声で話し出す。残念ながらこの距離では何言っているのかまでは聞こえない。
「なんだろうな、リューク」
「さぁな」
左隣にいた同じ班のリュークに話しかけてみるけど、全く興味がなさそうだ。
しかし答えは案外すぐにわかった。
報告が終わったのだろう、三等兵がセジウィック中佐から少し離れる。
「ビーレル医師団長」
中佐が彼の名を呼んだ。
え? 医師に関係あること?
まわりが少しぴりっとした緊張に包まれる。
俺と同じ集団から、背の高い初老の男がのそりと立ち上がった。
ビーレル医師団長。王宮医師、薬剤師200人超のトップに立つ人。もちろん今回の遠征に選ばれた20人の中でも、言うまでもなく立場は一番上。
急ぐ様子はない。彼は緩慢な動きで中佐の元へと歩いていく。
それが中佐をいらつかせているように見えた。
けど、指揮官とはいえ、今日始めて隊を受け持つ中佐より、医師団長の方がずっと権威を握っている。文句が言えないのだろう。
セジウィック中佐は、彼があと数歩という距離に近づくなり、すぐさま話を切り出した。
「隊が補給で立ち止まる予定だった村で、原因不明の病が蔓延し出したという報告です。症状は高熱と嘔吐。今日の昼間から少しずつ倒れはじめて、今は既に村の半分がやられたそうです。心当たりは?」
ビーレル団長は銀色のあごひげに手を当て、少し考えるようなそぶりを見せた。
「バール熱だろう。この地方では時々流行ると聞く」
そうか、バールか……まわりで納得したような声があがる。
知らない人もいるみたいで、知っている人が説明をしてあげている。
けど、違う……それだとおかしい。誰も気づいていないのか。
たしかに風土病であるバール熱は異常に伝播しやすく、大勢が一斉にかかる厄介な病気だ。でも嘔吐が始まるのは3日目以降で、半日で、というのは早すぎる。それに今日俺たちが立ち寄るはずだった村、というのも引っかかる。たぶん、いや間違いなく……。
「大丈夫。症状の重いわりには死亡することもない。放っておいても問題は……」
「違う!」
気づいたときには、立ち上がってそう叫んでしまっていた。
周りからの視線が突き刺さる。
あぁ、またやってしまった。
「エヴィング君。何が違うと?」
バーレル団長がおれを睨んだ。
集団を抜け出して、彼らに近づく。数十歩あった距離をあと数歩までに埋めた。
俺は真っ直ぐに彼の目を見返した。どうか聞いてくれますように。
「毒です」
何人かがはっと息を呑む音が聞こえた。
「半分以上、ということは井戸に投げ込まれた可能性が高いです。一刻も早く水を使わないように注意をする必要があると思います」
あたりが静寂に包まれた。
中佐と団長。どちらも口を真一文字に閉じている。
「毒だと? バカバカしい」
ようやく中佐が口を開いたと思ったら、言ったのはそんな言葉。
「60人もいないような辺境の村だ。わざわざ毒なんか仕込んでどうする。我が国は傷1つ負わん」
叫びそうになった。
あんたにとって――!
けどその叫びが口から出る前に、静止するように肩に手が置かれた。
ゼンさんが、いつの間にか立ち上がって、俺の横まで来ていた。
「セジウィック中佐。ビーレル団長。俺も同じ意見だ」
その言葉になんともいえない安心感が胸にこみ上げてきた。
「補給に俺らが立ち寄るって情報をどっかから聞きつけちまったんだろう。進行が予定通りだったら、今頃半分倒れているのは俺らだ。いや、全員かもな」
敬語も使わないで堂々と話すゼンさんに、中佐が怪訝そうな視線を向ける。
「今回の奇襲作戦の情報伝達に十分すぎるほど注意を払った。するはずがないが、漏洩しているとでも?」
「ああ、そうだ」
ゼンさんはきっぱりと言い放つ。
「だからこの奇襲自体、奇襲にならないかもな。作戦の見直し、したほうがいいぜ」
セジウィック中佐は完全に混乱しているようだった。
「私の作戦は完ぺき……いや、君は指揮官に向かって、あぁ、いや、だから……」
ああ、こりゃ今日の作戦は上手く行きそうにないな。冷静な人だって聞いていたけど、机の前に立つ時だけみたいだ。
ビーレル団長は押し黙ったまま。
性格は捻じ曲がっているけど、曲がりなりにも医師団長。間違いには気づいたんだろう。
「もういい」
中佐がもういい、ともう一度繰り返す。
「病だろうが毒だろうが、作戦を続行する。医師、及び薬剤師は当初の予定通り、我々兵士が負傷した場合に備え、後方で待機するように」
「見捨てるんですか! ただ巻き込まれた……いや、俺たちのせいで危険にさらされた人たちを!」
「エヴィング!」
団長が怒鳴る。額に深い皺が刻まれていて、怒っていることは明白だった。
「毒だとしてもどうする。材料も何も無いこんな山奥で解毒剤を作れるか? 20人しかいないのに何人人員が割ける。2,3人赴いたって何も変わらない」
「けど!」
「次は減給じゃあ済まさないと言ったが? 君は膝を折ってまでして、手に入れた仕事を自ら手放すのか」
それは激昂する俺を静めるには有効すぎる言葉だった。
「……それは、脅迫ですか」
「いや、忠告だ」
「……はい。すみませんでした」
ちくしょう……。唇を噛み締めて、俺は後ろに下がった。
心臓の中で獣が暴れているような苦しさだった。悔しい悔しい悔しい。
半分呆れ、半分同情。
そんな視線のアーチをかいくぐる。
元いた場所を教えてくれるキャンドルランタンの明かりを、怒りで霞む視界でとらえ、重たい足を引きずるように歩いていく。
けど、俺がたどり着く前に、突如明かりがふっと消えた。
ランタンが地面をガラン、と転がる音がした。
「おい誰だ、明かり倒した奴!」
怒鳴り声が響くけど、誰も名乗りあげない。
急に暗闇に呑み込まれた不安のせいか、あたりが少しざわついた。
進もうか迷っていた俺の襟が、不意に後ろから強い力で引っ張られる。
「後は俺がなんとかする。行ってこい」
早口で耳元で囁かれた言葉を理解するのに、一瞬かかった。
わかりました……ゼンさん。俺、やってみせます。
承知、という意味を込めて大きく頷くと、大きな手の平が俺の背中を叩いた。
「ランタンはどこだ。マッチなら俺が持ってるからよこせ」
踵を返し、ゼンさんの声から遠ざかる方向に動く。
俺がいた場所。つまり荷物が置いてある場所は、端の端。
上手くいけば後ろからそっと近づいて回収して、そのまま消えられる。
そう考えて、一度集団から遠ざかろうとした俺の背中を誰かが叩いた。
気づかれた!?
反射的に飛びのいて、その人物から距離をとろうとする。
「はい。荷物」
しかし聞こえたのは覚えのありすぎる声で、一気に強張った肩の力が抜け、安堵
がわいた。
「リューク!」
「うるせぇ。気づかれるだろ」
遠慮なしに頬を引っ張られる。いてーよ!
「あんたん、たおしあの、おあえだろ」
そう聞くと、にやりと笑う気配がした。頭の中であの不敵な笑みが浮かび上がる。
「それだけだと思う?」
荷物を抱えていない方の手に握らせられたのは、何かの取っ手。
「んじゃさっさと行け」
小さく頷くと、リュークは隙の無い猫のような動きで身を翻し、離れていった。
ありがとう、リューク。帰ってきたらちゃんと礼を言おう。
おれは荷物を背負うと、暗闇の中、喧騒から遠ざかる方向へと足を進めた。