第七話 「刃が通らねえ、動きが速い!」
確かな殺意をもって迫りくるその巨体を、二人は横に跳ぶことで回避した。四メートルを越える大蜘蛛はついさっきまで彼らが立っていた場所を踏み潰し、床に散らばる仲間の肉片を盛大にぶちまける。蜘蛛は左右に避けた二人へとゆっくり体を旋回させ、まるで威嚇するかのように大きく鋏角を持ち上げて唸り声を上げた。
「京介君、気を付けて! 蜘蛛の口のまわりにある二本の鋏角、毒があるかもしれない!」
ベレッタを蜘蛛に向けて構えながら真冬が叫んだ。
「了解だ! 毒なんざなくてもあんなもんに触れようとは思わねえけどな!」
対して京介も大声で答え、腰のホルスターから大振りのサバイバルナイフを引き抜き地を蹴った。実践においての役割は真冬が攪乱、京介が直接攻撃。銃ではなく、敢えてナイフを手にしたのは室内での速さを突き詰めるためだ。それに銃や爆薬の類を安易に使えば蜘蛛だけでなく、他の生物まで招き寄せてしまう可能性がある。今はただでさえ仲間を一人欠いているために、それはあまりに危険。消音加工の施されている真冬の銃はともかく、京介は極力銃を使うわけにはいかなかった。
今までに蜘蛛と戦ったことがないわけではない。相手が蜘蛛一匹ならばサバイバルナイフ一本でも対処できる。倒すことができなくても、逃走経路を切り開くことくらいはできるはずだ。
京介はそう見越して蜘蛛の死角を全力で走り、すれ違い様にナイフで後ろ足を力いっぱい斬りつけた。京介のコンクリートさえ易々と切り裂く刃が蜘蛛の脚を寸分たがわず狙い通りに走り抜ける。だが――
(……ッ!? 何だこの感触!?)
京介の予想とは裏腹に、蜘蛛の脚を抉りとり肉をまき散らすはずであった刃は甲殻の表面に僅かな傷をつけるに留まった。ダメージを与えられた様子は見られない。
蜘蛛はさも鬱陶しそうに巨大な鉤爪のついた脚を振り回した。蜘蛛にとっては普通の脚でも人間から見ればそれは鉄製の棍棒、またはギロチンと大差ない。当たれば即死、少なくとも再起不能の大怪我は免れない。
そんな蜘蛛の反撃を寸でのところで躱しながら京介は叫んだ。
「どうなってんだこの蜘蛛! 刃が通らねえ、動きが速い!」
服を掠めながら通過していく鉤爪の間を掻い潜り何度も斬りつけてみるが、やはり効いている様子は見られない。これでは先にナイフの方が折れてしまいそうな勢いだ。
さらに問題なのが蜘蛛のスピード。脚を振り回されるだけでも脅威だというのに、そのスピードが通常の蜘蛛に比べて段違いに速い。真司を細切れにして見せた〝糸〟も警戒しなければいけないために、次第に京介のナイフは防戦一方になっていった。
だが京介の死角、蜘蛛の側面から空気を捻り潰したかのような破裂音がしたかと思うと、蜘蛛は攻撃の手を止めてくぐもった呻き声を上げた。続けて二、三回同じ音が響き、蜘蛛は大きな音を響かせその場に崩れ落ちた。
見れば真冬の持つベレッタから薄青色の硝煙が上がっている。トリガーを引いたのだ。彼女の持つそれは消音装備のために銃声はほとんどしないが、殺傷力は通常の装備に比べて僅かに劣る。しかしそれでも蜘蛛の動きを止めるには充分な効果を発揮したようで、ナイフでは傷をつけるだけで精一杯だった甲殻が弾け飛び、蜘蛛は明らかな苦痛に苛まれている。
京介はその隙を逃さず横に飛び床に手を付きながら転がるようにして距離をとった。
だが安心したのも束の間だった。蜘蛛は逃げた獲物を追うように上体を反らし腹部を晒したかと思うと、京介を狙い、信じられない速度で〝糸を撃ち出した〟のだ。
「うぉ……ッ!!」
それを避けることができたのはただの偶然だった。京介は視界に白い塊が見えた瞬間、ほとんど無意識に体を右に逸らしたのだ。その直後、脇腹を掠めながら白い弾丸はものすごい轟音と共に背後の壁に突き刺さり、さらにそれだけでは勢いは止まらず、壁に大穴を穿ちながら隣の家屋にまで破壊をもたらした。もしこれの直撃を受けていたなら京介の体など原型を残さずゴム風船のように爆散していただろう。
冷たい汗がどっと京介の背中を伝った。
「京介君、耳を塞いで目を閉じて!」
今しがた目にした死の恐怖に態勢を崩し、決定的な隙を晒している京介の耳にそんな叫び声が聞こえた。蜘蛛の体でその姿は見えないが、真冬の言葉の意味を察して京介は咄嗟に耳を塞ぎ顔を手で覆った。それとほぼ同時にカチンとピンを抜く音が聞こえその瞬間、一瞬で部屋全体を強烈な光と振動が包み込んだ。
真冬がスタングレネードを使ったのだ。
それはいわゆる閃光弾と言われるものだが、通常のものとは違い爆発音はしない。従来のスタングレネードは信管を作動させると鼓膜を破るほどの爆音と共に閃光を発する仕組みになっているが、京介らが持っているそれは偵察任務用の特別性だ。極力音を立てぬよう行動する彼らにとってそれは非常に貴重な兵器であるが、今の状況を鑑みれば真冬がここで唯一の閃光弾を使ったのは間違いなく正しい判断であっただろう。もし閃光弾の使用が遅れていたなら、第二射によって京介は殺されていたかもしれないのだから。
部屋を埋め尽くす光が収まり、視界が元の機能を取り戻した頃に真冬がこちらへ駆け寄ってきた。
「京介君、大丈夫!?」
床に倒れ伏したままの自分へと手を伸ばし、そのまま一気に引き起こされる。
閃光弾の光を直に浴びた蜘蛛は身を捩りながら呻いており、まだその巨体を立て直してはいない。どうやら確実に効果を発揮しているようだ。しかし、
「いつまでもつか分からないし……さっさと逃げるわよ!」
真冬の言葉が終わるが早いか、二人は弾かれたように駆け出した。いかに閃光弾が強力といえど、蜘蛛が視力を取り戻すのは時間の問題だ。逃げるのに、この隙を逃す手はない。
京介と真冬は同時に動き、“巣”の外へと飛び出した。来た時とは違い、足音など微塵も気にせず全力で駆ける。この時点でまだ大蜘蛛は追いかけてこない。扉の外れた部屋から一直線で階段へ。もしこの狭い通路で背後から襲われれば為す術なく殺される。相手にするならせめて外、もっと広い場所でだ。そう考えながらガラスのない窓の手前、階段に足をかけた。
だがその時、階段のすぐ向かいにある部屋の扉が、ギギギと不気味な音を響かせながら勢いよく開いた。二人は真司の足跡ばかりに気をとられ、その部屋の中までは確認せず特に警戒もしていなかったのだが――
思わず足を止めその中を見ると、開いた扉の隙間で赤い光が無数に輝いているのを京介は見た。扉が完全に開ききると、中からサッカーボール程の大きさの蜘蛛が大量に湧き出てきた。それは今までどこに潜んでいたのか、そう思わされるほどのおびただしい数である。その形から判断するに、おそらくはさっきの蜘蛛の子供だろうが……大量の子蜘蛛は目の前に京介と真冬の姿を確認すると、一斉に無数の赤い眼を光らせながら行進を開始した。
赤い光の行列はある種とても幻想的であり魅入ってしまいそうにもなるが、言うまでもなく蜘蛛という生物は肉食だ。いくら子蜘蛛であろうと、その群れに巻き込まれればどうなるかは容易に想像がつく。
予想外の闖入者を前に呆然と立ち尽くしていた真冬の右腕に、群れの先頭にいた一匹が飛びついた。
「な、何よこいつら!?」
一瞬動きを止めた真冬に対し、京介の体は考えるよりも先に動いた。
――スパン。
右手で掴んだサバイバルナイフを子蜘蛛めがけて一閃、全力で振り抜く。真冬の腕に絡みついていた蜘蛛の体が瞬く間に両断され、乳白色の体液を噴き出せながらぼとりと床に散らばり落ちる。その一連の動作で両者の火蓋がきって落とされた。
「あ、ありがとう!」
「いいから走れバカ! 生きたまま食われるぞ!」
言うが早いか、段差など気にせず階段を文字通り飛び下りて前に進む。もしも追いつかれれば骨も残らない。後ろを振り返っている場合ではない。階下まで一気に到達すると、二人は転がりながらも態勢を立て直し休む間もなく再び走り出した。その後を赤い塊がウジャウジャと何とも気味悪く付いて回る。狭い廊下のスペースを埋め尽くしながら、巣の中に迷い込んだ愚かな獲物を逃すまいと圧倒的な質量で確実に距離を詰めてくる。今にも蜘蛛たちが飛びかかってくるのではないかと思うと膝が震えそうになるが、それでも足を前に動かさなければ正気を保っていられない。
しかしこのままでは公民館の外まで脱出したところで、いずれ追いつかれる。これだけの数がいれば広い外に出たところで逆に不利な状況に追い込まれるだけだ。ならば。
「おい、あれ使うぞ!」
京介は返事を待たず腰のポーチに手を伸ばし、ついさっき部屋で使ったスタングレネードと同じ丸い玉を取り出した。しかしそれを見た真冬が驚きの声を上げる。
「ちょ、そんなの使ってもいいの!? まだ試作段階なんじゃ……」
「このままじゃ二人とも食われて終わりだ! 使うならまとめて殺せる今しかねえ!」
ここで議論している時間はない。言い終わるが早いか、走りながら手にした丸い玉のピンを躊躇なく引き抜いた。一度こうと決めれば京介の行動は早い。一階の廊下を埋め尽くしつつある蜘蛛の群れ、その中心に向かって力一杯それを投げ込んだ。
「こんのバカ隊長! まだ私たちが脱出してないでしょ!!」
渾身の叫びで京介を罵倒しながら足をフル稼働で動かし、真冬は外へ転がるように飛び出した。その後ろを京介が追いかける。この時ばかりは扉が壊れて外れたままだったのが幸いした。二人が玄関から外へと脱出し、迫りくる蜘蛛の赤い大群を振り返ったその瞬間。
とてつもない轟音が周囲に響き渡り、目の前が真っ赤に覆い尽くされた。先ほどのスタングレネードとは違い、頭の芯から揺さぶられるかのような大音響と衝撃を伴い、京介の投げた手榴弾は炸裂したのだ。手のひらサイズの手榴弾が発したとは思えないほどの爆炎は大量に湧いていた蜘蛛を吹き飛ばし、それなりの広さを持っていた公民館を丸ごと焼き払い、全てを飲み込み夜闇を紅蓮の炎で染め上げた。
それだけの大爆発、玄関のすぐそばにいた二人が無事で済むはずもなく――
京介は咄嗟に真冬の体を抱えこんだ。直後、爆炎と共に身を焦がすほどの熱風が周囲を包み込み、二人の体は門扉から遥かへと吹き飛ばされた。