第六話 「来るぞッ!」
「えっと……真司君?」
最初に沈黙と硬直を破ったのは真冬だった。取り落としそうになったベレッタを握り直し、直立したまま動かない仲間へと声をかける。当の真司は俯き、窓を背にして立っているために月の光が逆光となって表情は窺いしれない。
「もお、何してるのよこんな所で。私たちがどれだけ心配したと思ってるのよ?」
京介は真司が生きていないと考えていたわけだが、無論そうであってほしいと思っていたわけではない。長い時間、共に背中を預けて戦ってきた仲間だ。その生存を喜ばないはずがなかった。言うなれば覚悟の問題だ。仲間の死というあまりにも重い現実はさながら暴力のような衝撃を伴って襲い掛かってくる。こちらの事情などお構いなしで、いつだって理不尽に。京介も真冬もその辛さは骨身に染みて知っている。だからこその覚悟。初めから覚悟しているだけで、リアルを知った時の衝撃をある程度は軽減できる。少なくとも、いらぬ動揺で隙を見せるようなことはしなくて済むのだ。
真冬は構えた銃を下ろし、安堵の表情を浮かべた。
「とにかく、無事でよかったわ。でも捜索時間の十分はとっくに過ぎてるのよ、こんな所に一人で、何してたの?」
「………………」
「ねえ、聞いてる?」
声を掛けても何も言わない真司に、痺れを切らした真冬が歩み寄る。その距離およそ五メートル。目と鼻の先だ。
京介は一息ついて同じく銃を下ろそうとしたところで、その手を止めた。
目についたのは真司の足跡。この部屋は床が畳張りになっており、埃にまみれた何畳もの畳がむき出しになっている。そのため月の光に照らされたこの部屋は一階とは違い、真司のものであろう足跡がはっきりと見て取れた。その足跡は部屋の中をしばらく歩き回ったあとに部屋の隅、開かれたままになっている物置の中へと至っている。その時点では特筆すべき点は何もない。問題はその後だ。
真司が立っている場所は入り口から離れた部屋の隅、そこから後方の物置までは四メートルほど離れている。だが真司の足跡は物置の中へと入っていき、出てくることなく今の場所に突然移動しているのだ。つまり、四メートル分の〝あるはずの足跡がない〟のである。偶然だと言って見逃すにはあまりに不自然。
――嫌な予感がする。
部屋の床には一面に埃が積もっている。全く足跡をつけずに歩くことは不可能だろう。たかだか四メートル、ジャンプすれば跳ぶことも可能かもしれないが、だとすると今正面を向いて立っている真司は後ろ向きで跳び、なおかつ空中で体を百八十度回転させて着地したことになる。それが可能かどうかはともかく、そんなことをする理由が分からない。
京介は開きっぱなしになっている後方の物置へと視線を移した。だが物置の中は光の差し込む窓が逆光となっており、あるのは暗闇、中には何も見えない。ついで視線は再び直立したままの真司へ。真司は京介たちが部屋に入ってから一度も動かず何も話さず、同じ場所に突っ立っているだけである。真冬が話しかけても一言も発さず俯いている。
その時だ。不審に思い京介が部屋の様子を子細逃さず観察していると真司の腕のあたりで何かが光った気がした。一瞬気のせいかと思ったものの、月の光を僅かに反射する何かが確かにそこにあった。よくよく目を凝らして見ると、細い糸のようなソレは腕だけでなく全身を覆うように取り巻いており、その光る糸の先を目で追っていくと、糸は後方の物置の中へと吸い込まれるかのように伸びており――
そこまで見た瞬間、嫌な予感は確信へと変わった。
「待て真冬! それ以上近付くなッ!!」
声を張り上げながら京介は今まさに真司の肩に触れようとしていた真冬の服を掴み、全力で後ろに引き戻した。
「え……きゃ!?」
強引に後ろへ引っ張られた真冬は突然のことで為す術もなく背後に倒れこみ、その刹那。
〝ひゅんひゅんひゅん〟と、そんな風を裂くような音と共に、何かが真冬のついさっきまで立っていた場所で煌めいた。きらきらと輝きながら、一度、二度、三度。そしてその音は真司の立っている場所からも同じように聞こえ、その体がビクンと震えたかのように見えた時には――
――真司の全身が、バラバラの細切れに切断されていた。
まるで積み木が倒れていくかのように頭から胴から腕から腰から足まで。数えきれないほど細切れになった体のパーツが順番を守って規則正しく落下していき、べしゃりと地についた頃になってようやく血が噴き出した。床一面に入れ物を失った血と臓物が広がっていく。
大量の血飛沫を浴びながら深紅に染まっていく視界の中で、京介は見た。中空で艶やかに赤く濡れた極細の〝糸〟が漂っているのを。そしてそれが部屋の後方、物置の中にいる糸の持ち主の元へと帰っていくところを。
――やばい。
本能的に、そう直感する。現在危機に直面していることは目の前の光景を見れば火を見るより明らかだ。糸を使用し、最初の獲物を利用して狩りを行う生き物。ここがそいつの巣の中だというのなら、まずいにも程がある。
物置の奥に潜んでいた影は京介と真冬という二匹の獲物を逃したことで、暗闇の中からその姿を現した。京介はその全貌を確認するまでもなく、そいつが何であるかを知っている。
糸を使って狩りを行う生き物と言えば、何を連想するだろうか? 逆に糸を使い狩りができる生き物と聞けば、何を思い浮かべる? その生き物は体内で際限なく糸を生成し、ついぞ人には再現できなかった糸を周囲に張り巡らせ、自らは獲物がかかるのを巣でじっと息を潜めて待ち続ける。まるで暗殺者のようなそいつの巣に入るということがどういうことなのか、それが分からない京介ではなかった。
蜘蛛、クモ類節足動物門鋏角亜門クモ網クモ目に属する動物の総称。
それだけを聞けば、おそらく頭に浮かぶのはコガネグモやジョウログモのような、家の庭に巣を作っているような手のひらサイズの虫の姿だろう。もしかしたらタランチュラのような毒グモを想像する人もいるかもしれないが、どちらにしても手のひら以上の大きさのクモなどそうはいない。
だが、今京介と真冬の目の前にいる蜘蛛は違った。
胴体だけでその大きさは軽く三メートルは超えるだろうか。その体躯にまるで棍棒のような八本の脚が付いており、全長は四メートルを超えている。口部から覗く鋏角には見るからに毒々しい液体が滴っており、それが一層見る者に形を持った恐怖の念を植え付ける。
そんな生物が暗い部屋の中で天井に張り付き八つの赤い眼でこちらを睨みつけているのだ。己の〝巣〟に迷い込んだ獲物を歓迎でもしているかのように。
「し、真司君……真司君!」
起き上がり、目の前で仲間の死を目の当たりにした真冬が叫んだ。
「くそ! 気を引き締めろ、突っ立ってたら死ぬぞ! 目の前の敵に集中しろ!」
一見冷たい言葉を吐きながらも、京介は体を数えきれないほどの肉片に変えられ、人間であったことさえ分からぬような姿にされた仲間に目をやり唇を噛みしめた。
真司はよく言っていた。戦い続けることで、自分たちがみんなの希望になれればいいと。あれほど争いごとの嫌いだった男が、昔のように幸せな世界を取り戻すためにずっと京介と共に戦い続けていたのだ。それでも、何人もの仲間や友人たちが守れずに死んでいった。真司にとって毎日はきっと楽しいものではなかったはずだ。血で血を洗うような環境に身を置いて楽しいも何もないだろうが、少なくとも真司にとっては身を切られるような思いだっただろう。それでも、守りたい人のためにと戦い続けていたあの男は、京介にとって戦友である以前に本当の親友だった。
――いつまでも苦しい思いをしながら戦い続ける毎日を送るくらいならば、いっそあらゆるしがらみから解放されて楽になってくれと思う自分は、冷たいだろうか。
だが、それでも今は。
「今は、仲間の死を悲しんでる場合じゃない……!」
真冬が唇を強く引き結び、流れようとする涙を堪えたのが分かった。仲間の死を無駄にしないためにも、今は。
額に伝う汗を拭いながら小さく笑ってみるが、勿論そんな場合ではないことくらい分かっている。頭の中で素早く逃走経路をシュミレート、この大蜘蛛と戦うには場所が悪すぎる。そのため一刻も早く逃げなければならないのだが、下手に動けば目の前の蜘蛛が飛びかかってきかねないのだ。第一接触で敵に隙を見せるわけにはいかない。敵に自分の方が上位の存在だと思わせてはならない。だからこいつに、簡単に背は向けられない。
だが当然相手がこちらの事情など考慮してくれるはずもなく、蜘蛛は長い脚で天井を蹴り抜き、二人を捕食せんとばかりに襲い掛かってきた。
「来るぞッ!」