第五話 「何の物音もしない」
もともと古い建物であるうえ、まったく人の手が入らなくなった公民館は立てつけが悪くなっているらしく、足を動かす度に不気味な音が響き渡った。それでも極力音を立てぬように気配を殺して京介と真冬は二階へと続く階段を上がっていく。
この公民館唯一の階段は真司の残した足跡の先、玄関から進んで奥を左に曲がったところにあった。おそらく階段の上に窓があるのだろう、その入り口は差し込む月の光によってどこか幻想的に照らし出されている。まるで暗闇の中でぽっかりと口を開けているようなその様は、踏み入るのに躊躇いを覚えさせるのには充分だった。そしていざ階段を上り始めると、一段上がるたびに不気味な音が鼓膜を刺激しこの空間を満たすのだから、足は自然重くなり、慎重になることを余儀なくされた。
階段の上には案の定小窓があり、その小さな枠の中で綺麗な月が光を放っている。窓があるといってもそこにガラスは嵌っておらず、開け晒しの状態になっているのだが。
京介はそこから吹き込む冷気を含んだ風に顔をしかめた。窓の下にはもともと手入れされていたのだろうが、今は見る影のなくなった庭が広がっている。そして道路を挟んだ向かいには京介にとっても馴染みの深い公園が一望できた。
昔、と言ってもほんの五年ほど前なのだが、京介はまだ中学生であった頃、高校受験のため週に二、三回塾に通っていた。その塾へ行く前にあの公園で友人と缶コーヒーを飲むというのが、二人の恒例の行事だったのだ。友人と話す内容は大抵が受験のことであったり学校のことであったり、好きな女子のことであったりしたものだが、今にして思えば大したことなど何も話していなかったように思う。本当に今さらで考えても仕方のないことであるが、そのような話で真剣に悩み一喜一憂していたあの頃が懐かしい。現在の生きるか死ぬかの日常を思えば、受験戦争など日向ぼっこもいいところだ。本当に大切なものの大きさは失ってみないと分からないとはよく言うが、事実その通り。あの時将来について語らっていた友人は、もうこの世にはいないのだから。
「……京介君? どうかした?」
不意に、隣にいた真冬が声を潜めながら怪訝そうに尋ねてきた。その時になって京介は自分が立ち止まっていることに気が付いた。慌てて真冬に追いつき、
「いや、何でもない。ちょっと昔のこと思い出してただけだ」
何とかそれだけを口にした。
今は思い出に浸っている場合ではない。最も優先されるべきは真司の生死の確認、そして任務の遂行。任務の遂行とは生きて帰ることで初めて達成と言える。
京介はもう一度深く息を吸って意識を集中、目の前に全神経を傾けた。
真司の足跡は一度階段を出てすぐ左側の部屋の中に入り、再び奥にある大広間へと続いている。特に目ぼしい物がなかったために捜索を続行したのだろう。そして階段を上がって正面にある大広間。真司の足跡はドアノブの付いた大きな扉の中に入っていき、外に出てくることなくそこで途切れていた。
二人は顔を見合わせると素早く扉の両側に移動し、懐から拳銃を取り出した。
《ベレッタM92F》。バランスに優れた九ミリ口径のハンドガン。狭い室内では大ぶりなアサルトライフルよりも、小回りの利くこういった銃の方が重宝する。
状況から見て真司がこの部屋にいるのは間違いない。少なくとも、真司を帰れない状況に追いやった〝何か〟がここにいる。京介は極度の緊張が張り巡らされたこの空間の中で、動悸が早まり気分が高揚している自分を密かに感じていた。
二人は銃を構えながら、しかしすぐには突入せず、まずは真冬が壁に耳をつけて中の気配を窺った。そしてすぐにその表情は一転、怪訝なものへと変わる。
「……どうだ?」
壁に張り付いたまま何も言わない真冬に京介は問うた。京介からの問いに、真冬は一拍の間を持たせた後、
「……おかしい、何の物音もしない。人の気配も……ない」
と、それだけを口にした。その言葉の意味を察して京介の表情も翳りの色を帯びた。
こういった常に死と隣り合わせの場所では気配というものが顕著に表れる。それが人間のものともなれば尚更にだ。京介や真冬でなくとも幾度となく死線を潜り抜けてきた者ならば、例え意識していなくても僅かな物音や殺気を敏感に汲み取り危機を回避することができる。それができない者は命を落とす、京介たちが身を置いているのはそういう世界だからだ。
そして戦闘技術よりもそういった面でこと優秀である真冬が、中に人の気配がないと言った。さすがにその意味が分からない京介ではない。ここに生きている人間はいないと、そう言ったも同然なのだから。これで真司の生存は絶望的なものとなった。しかし、
(気配なんてものは曖昧だ。絶対じゃあない……!)
まだ、希望は捨てない。気配などという不確定なものを理由に、今まで背中を預けてきた仲間の命を切り捨てることなどできるはずもない。時には合理的に判断することも必要だが、仲間の命を前に京介はそこまで冷徹にはなれないし、なりたいとも思わない。真冬も同じことを考えているのだろう、こちらを見て一度小さく頷くと、その扉に手をかけた。
結局のところ、部屋の中を見てみないことには何も分からない。自分の目で確かめないことには納得などできるわけもないのだ。百聞は一見に如かず、そして一見は一動に如かずだ。
京介は右手に構えた銃を握る手に力を込めた。今度は互いに頷き合い息を整える。そして手をかざし、指を三本立てて部屋の中を指し示した。それは突入時の合図。三本の指は、スリーカウントを意味する。二人にとっては今までに何度もこなしてきた作業のようなものであり、今さら失敗などするはずもない不動の動作。
意識を集中し、二人同時にカウントを口ずさむ。
「…………一」
腰を落として姿勢を低く、足腰に力を入れる。
「…………二」
真冬が取っ手を回す。ゆっくりと、次の動きをイメージしながら。そして――
「…………三!!」
言い終わるが早いか、真冬が勢いよくドアノブを回し扉を奥に蹴り抜いた。何年も放置され、立てつけが悪くなっていた扉が悲鳴を上げてその口を開く。扉が開いた瞬間、京介が転がるようにして部屋の中へとその身を滑らせた。そこに無駄な動作は一切ない。その後を追うようにしてすぐさま真冬も部屋の中へと飛び込んだ。お互いにどう動くかは分かっている。それは二人がこなしてきた数多くの経験があってこそ。
そして二人は部屋へと飛び込むと、その奥へと向けて同時に銃を構えた。ドアが開くことによって吹き込んだ冷風が京介の頬を叩く。しかしそんなことは露ほども意に介さず、まっすぐと目の前の光景を睨み据えた。その間、約一秒。驚異的、そう評するに値するコンビネーションであった。時間にすれば一秒と短いが、その刹那に二人の積み上げてきたものが集約されており、まさに集大成といってよいものであった。故に、二人には何の問題もなかった。完璧と言って差し支えないパフォーマンスで危険度の高い部屋の中に踏み入ったのだから。いつものようにつつがなく障りなく、臆することもなく。
だから問題があったのは部屋の中、誰に使われることもなく放置され続けてきた、この閉ざされた空間そのものにあったのだ。
京介と真冬は部屋に飛び込みまだ見ぬ暗闇へと銃口を向けた。だが二人共が自分の目に飛び込んできた光景を一瞬理解できず呆気にとられ、あろうことか手から銃を取り落としそうになってしまったのだ。
ここはみどり丘公民館の大広間だ。扉を開きまず目に入ったのは正面にある舞台。この部屋は大人たちが利用するほかにも、子供たちが演劇を披露する場としても使われていたために、袖つきの舞台があるのだ。そして部屋の片隅に小さな物置。部屋の入り口から見て左側は大きな窓になっており、夜であるにも関わらず視界に困るほど暗くはなかった。その大窓はなぜだか開け放たれており、突入時に吹き込んだ風はここから入り込んだものと思われた。
その中で京介と真冬が一瞬とはいえ呆気にとられてしまった理由。それが戦場でどれほど危険な行為であるかを理解していながら、銃を取り落としそうになってしまった理由は二つあった。
まず一つ目は、この部屋がどこも〝荒らされていなかった〟からだ。
部屋の隅に置かれたテーブルも積み上げられた座布団も、一つとして荒らされているものがないのだ。窓ガラスすら一枚も割れていない。人の手が入っていないために埃こそ被っているが、その点を除けば他の部屋に比べ、ここはごく普通の部屋と言えた。
しかしだからこそ京介は妙な違和感を覚えたのだ。みどり丘中をくまなく探せば全く荒らされていない家屋だって見つかるかもしれないだろう。元々京介らが捜索対象としているのはそういった建物の方である。
だがこの家は違う。一階も二階も、これ以上ないほど破壊の限りを尽くされていたのだ。それはもう捜索の余地などないほどに。ただし、この部屋を除いて。普通誰だって疑問に思うだろう、なぜこの部屋だけが荒らされていないのかと。
これではまるで、この部屋には近付いてはいけないと言っているようではないか?
そして二つ目の理由。
これは一つ目のような曖昧でわざわざ思慮を要することなどではなかった。一目見ただけで視覚に叩き付けられるかの如き衝撃。自分の見ているものが信じられないとばかりに瞼を瞬かせて、ようやく事態を理解するのにすでに数秒。二人の表情は驚愕に満ちていただろう。
京介も真冬も、真司が生きているものと信じてその姿を探していた。だがやはり頭の中では生存は絶望的だと結論を出していたというのが本当のところだ。時間を大幅に過ぎても戻ってこず、足跡の途絶えていた部屋からは人の気配も感じられず。これまで自らの経験と感覚を頼りに生きてきた二人にとって、それは最悪の結末を想像するに足る状況だったのだ。だったらせめて形見になる物だけでも持ち帰ってやろうと、感情的なことを考えていたのかもしれない。未使用のまま使い手を失った各種装備を回収しようと、合理的なことでも考えていたのかもしれない。だがどちらにせよ、前提になっているのは真司はすでに生きてはいないということだった。
正直それが京介と真冬の暗黙の共通認識だったのだが、その認識は現実という確かな形を以ってして粉々に打ち砕かれた。
青く輝く月の光によって照らされた部屋の中はまるで夢の中にいるかのようで、この空間だけが時間から取り残されたかのような錯覚は己が戦場にいることすら忘れさせる。足のつかない意識の中で揺れ動くのは自我と現実、そして理性。眼前で確かに存在している光景に思わず手を伸ばしたくなる衝動、だが不穏な気配を感じとり寸でのところで押しとどめる。
そんな京介の思惑を全て呑み込み二人の目の前に探し人、彼らをこの場へと誘い込んだ張本人である真司が、さながら幽鬼の如く部屋の片隅で佇んでいたのだ。