第四話 「三人で帰るのよ」
そこは今でこそ廃墟となってしまっているが、元はみどり丘の公民館だった場所だ。かなりの広さに二階建ての建物、裏手には小規模ではあるが駐車場も用意されている。さらに玄関の前には広い庭までもが設えられており、住宅街の中では少し浮いた存在となっている。最も、現在綺麗に整えられていたであろう庭は荒れ果て、大きな鉄門扉はただの鉄屑へと成り下がっているのだが。
その公民館、今は用をなさなくなった朽ちた門をくぐり、京介と真冬は静かに、だが迅速に移動し玄関前で一度足を止めた。壊れたまま修理されることなく放置された公民館には扉が付いておらず、すぐ隣に元々そこに嵌めこまれていたであろう扉らしき物が転がっている。京介は吹き抜けとなっている玄関から、まずは中の様子を確認した。
公民館の中は玄関から奥に真っ直ぐ廊下が伸びており、それに面して左側に扉が二つ。奥を左に曲がるともう一つ部屋があり、二階へと続く階段が伸びている。京介はここが廃墟となる前にこの公民館へ来たことがあるので、間取りは頭に入っている。ここは一階にトイレや小部屋があり、二階が大広間になっているのだ。主にみどり丘の自治会らの話し合いや、子供らの演劇の場として利用されていたのを覚えている。
(まずは一階からだな)
京介は隣で指示を待つ真冬に待てと目だけで合図を送ると、足音を立てぬよう慎重に中へと踏み入った。背後に関しては真冬がいるため今は警戒しなくてもいい。
廊下に入ってすぐ、左側にある扉に張り付いて状況確認。どんなに切羽詰った状況であろうと、これを怠れば死に繋がる可能性がある。扉の中は予想していた通り、簡単な台所とテーブルが設えられた小部屋になっていた。部屋の中は相当に荒らされているが、これは最近荒らされたものではないだろう。テーブルの上にも床の上にも大量の埃が積もっている。それを除けば一見この部屋に変わったところは何もない。
中を確認し終えると、後ろを振り向き小声で真冬に声をかけた。
「俺はこの部屋を調べる。そっちは奥の部屋を見てくれ。いいか、間違っても一人で先に行くんじゃねえぞ」
真冬は小さく頷くと、重いアサルトライフルを背中に回し素早く動いた。意思疎通に関しては長年の付き合いにより、そつがない。
真冬が奥の部屋に入ったのを確認すると、京介は自らの役目を全うするべく部屋の中へと足を踏み入れた。埃っぽい空気に思わず咽そうになるのを必死で堪える。部屋の中は大きな窓から差し込む月明かりだけが唯一の光源となっており、薄暗い。そして、この建物の敷地に入ってから……いや。“みどり丘に入ってから”思っていたことではあったが……静かすぎる。その不自然さを、立ち止まることで改めて実感した。
足を動かすたびにミシミシと傷んで軋む床の音がいやに大きく聞こえる。真司は京介と同じく捜索のためにこの公民館に入っていったのだから、ここにいることは間違いない。だが、ここに人の気配は自分と真冬を除いて一切感じられなかった。それでも唯一の入り口付近に待機していた真冬が出てくる真司を見ていないのだから、この中のどこかに真司はいるのだろう。
――生きているかは、また別問題として。
そこではっと我に返り、頭を振って嫌な予感を打ち消した。
(何考えてんだ俺は! あのバカが簡単にやられるわけないだろ!)
そうだ。今はあれこれ考えている場合ではない。何よりも真司を捜すことが最優先なのだ。あいつは生きている。その前提を覆してしまえば指揮に関わる。そうなれば危険に晒されるのは自分に付いてきた真冬だ。それだけは避けなければならない。
京介は銃を握る手に力を込めた。気が付けば手だけではなく、全身に嫌な汗がびっしょりと広がっており、服の内を伝う汗がこの上ない不快感を伴ってその身を走り抜けている。
……落ち着け。頭の温度を下げろ。冷静さを失えば真冬にも危険が及ぶ。それだけは避けなければ。
警戒の体勢は解かずに深く息を吸って深呼吸。目を閉じてゆっくりと、ゆっくりと。体に余計な力が入っていてはあらゆる事態が起こりうる現場で咄嗟に動くことができない。そうなれば待っているのは死だ。京介のように幾度となく現場に出ている人間はそれをよく理解している。それこそ体感レベルでだ。無論死んだことがあるわけではないが、それに近い経験は一度や二度ではきかない。死んだ方がマシだと思ったことも何度もある。しかしだからこそ、意図的に体の力を抜き平常心を保つ技術も京介は有している。
リラックスしろと言われてその通りにするのは意外と難しい。少しでも気を緩めれば死に繋がる、そういった極限の状況下で平常心を保つことの難しさは想像に難くないだろう。生き抜くためにはいつでも自分を引き出せる強さが必要不可欠なのだ。京介にとっての深呼吸はそれに当たる。冷静になるための動作が深呼吸というのはいささか古典的、ありきたりな方法ではあるが、京介にとってもこれはポーズだ。動作そのものに意味があるのではなく、深呼吸することで落ち着けるという一種の自己暗示。
息を吸って吐く、それを何度か繰り返し、まるで静止したかのような時間の中で京介はゆっくりと目を開いた。
――よし、問題ない。頭の上から足の爪先まで問題なく動かせる。思考の温度も正常だ。今この体は完全に自分の支配下にある。
京介は変わらず何の気配も感じられない室内を改めて見渡した。テレビや食器棚やらが無造作に倒され、砕け散ったガラスの破片が所せましに散りばめられているその部屋で、だが京介は見つけた。瓦礫と埃にまみれた床の上に、うっすらと残る足跡を。よくよく目を凝らして見れば、床の至る所に〝人間〟の足跡が残っている。それも古いものではない。ごく最近付いた、新しい靴跡だ。
京介は自分の足元に目をおとし靴の型を確かめた。京介、真冬、真司の三人は任務に出る際同じ型の靴を履いている。兵装に若干の違いはあれど、小隊の身分を兼ねる装備、服装は基本的に統一されているのだ。そして床に残った真新しい靴跡は、京介のそれと一致した。ここは未調査区域であるが故に、他の誰かのものであるということは考えにくい。これは間違いなく真司のものだろう。
その足跡を目で追うと、部屋の入り口から台所に続き、再び廊下の方へと向かっている。
真司はどうやら一階の捜索を終え二階へと向かったようだ。
「京介君、奥の部屋は異常なし。そっちは何か見つかった?」
京介が台所を兼ねた小部屋を調べている間に奥の部屋を調べていた真冬がやってきて声をかけてきた。
「残念ながらここにも何もない……でも」
言いながら床に残る足跡を指差す。それを目にした真冬の目がすっと細くなった。
「これは、真司君の……?」
「間違いない、俺達と同じ靴跡だ。一階での捜索を終えて二階へ向かったんだろうな。もしもあいつに何かあったんだとしたら二階だ。そこで何があったのかは分からないが……」
その先の言葉を飲み込み、京介は言葉を区切った。仲間の身にどんな事態が起こっていようと、自分はそれを確認しなければならない。何があったのか見届けなければならない。それがどんなに悲惨なものだとしてもだ。しかし十中八九、それには危険が伴う。自分一人ならともかく、無意味に真冬まで巻き込むわけにはいかない。真冬とて真司の安否を確かめたいだろうが、はっきり付いてくるなとも言いづらい。頭では分かっていても、仲間を危険に晒す可能性があるためにその先を口にするのは憚られた。だが、
「俺は行かなきゃいけない。危険だからお前は待ってろー、でしょ?」
この村に来た時と同じように、真冬が京介の言葉を継いでその先を口にした。
「京介君の考えてることくらい分かるわよ、けっこう長い付き合いなんだから。どうせここから先は一人で行く、とか言おうとしてたんでしょ。同じことを二度も言わせないでね? 私たちは仲間でしょ。真司君連れて、三人で帰るのよ」
内心を見透かしたかのような真冬の言葉に、未だ自分一人で背負いこもうとしていた京介は自分の考えを恥じた。真冬の言葉は正しい。これが自分だとしても、これまで同じ時を過ごしてきた仲間を置いてのうのうと待っていることなど、できるはずもない。それに、薄々と感付いてはいるのだろう。この建物から人の気配がしないことに。これから直面するであろう何かを、自分たちを待っているその結末を。もしかすると、京介一人が背負うことのないよう気を遣ってくれたのかもしれない。
だが二人にとって、この先へと進むのは当然のことであって。
「……すまん、弱気になってたみたいだ。そうだな、先に進もう」
京介は弱々しい笑みを仲間に向けながら踵を返して歩き出した。その際に踏みつけたガラスの破片がパキリと乾いた音をたてて砕ける。その様がまるで今にも壊れてしまいそうな自分達を映し出しているようで、なおさら沈鬱な気分にさせられる。
暫しその砕けたガラスを見つめた後、顔を上げ暗闇の中で口を開いているかのような廊下の奥へと足を運んだ。