最終話 「お疲れ様、京介君」
「……ハアッ、やばい、な。ハアッ、せめて、銃を……!」
殺される。このままでは、間違いなく。どうしてこれほど近くにいながら蜘蛛の気配が分からなかったのか。突然限界を超えた動きをした反動か。それとも……。
蜘蛛は身動きの取れなくなった獲物にとどめを刺すべくゆっくりと近づいてくる。今攻撃を受ければ、京介に逃れる術はない。まだここで死ぬわけにはいかない。今殺されれば、こいつを殺すことができない!
京介は傍らに転がるベレッタへと震える手を伸ばした。普通に銃を撃っても間違いなく弾かれて終わりだろうが、甲殻の隙間に弾丸を撃ち込むことができれば――
だが蜘蛛が獲物に反撃のチャンスなど与えるわけもなく。
ベレッタに手が触れた瞬間糸の塊が吐き出され、京介の右腕が地面もろとも半ばから弾け飛んだ。
「……!! ぐ、がああああああああッッ!!」
その神経を焼き尽くすかのような激痛に耐えきれず、絶叫。肘から下が消し飛び真っ赤な鮮血を噴き出させた。今や体中のいたるところで心臓の音が鳴り響き、京介から正常な思考を根こそぎ奪い去ろうとしている。
――痛い、痛い痛い痛い痛い痛い! 勝てないのか、目の前で仲間を殺したこいつに。人間では勝てないのか。人外の化け物に。殺してやる、殺してやる! それ以外、何も考えられない!
体の中を燃え上がるような激痛だけが走りまわり、思考がまとまらない。まるで全身の血が沸騰しているようだ。今の京介の頭を支配しているのは目の前の蜘蛛に対する恐怖と、意識を埋め尽くすほどの絶望。そしてそれでも蜘蛛を殺してやりたいという、確かな殺意だけ。過去に幾度となく死線を潜り抜けてきた京介ではあるが、これほど死の淵に近付いたことは一度もなかった。そしてこれほどまでに強烈な殺意を抱いたことも、やはり初めてだった。
獲物にとどめを刺せなかった蜘蛛が、今度こそ京介を殺すために歩みを再開する。まるで楽しんでいるかのように、ゆっくりと。どんなに祈ったところで、蜘蛛に人の声は届かない。その歩みを止めることはない。赤い眼の化け物は壁を背に横たわる京介の数メートル手前で、一度足を止めた。そして上体を持ち上げていき、下腹部にある糸の射出口を京介に向けて構えた。
京介はその光景を視点の定まらない瞳で、まるで他人事のようにぼんやりと眺めていた。
――どうして、こんな事になったのだろうか。ただ仲間を守りたかっただけなのに、誰にも死んでほしくなかっただけなのに。
出血の止まらない体を少しだけ起こし、痛みしか感じぬ左腕で腹の傷を押さえた。それだけの動きで再び大量に吐血する。
――俺はどこで間違ったんだろうか。今日は簡単な偵察任務で、誰も死ぬ必要などなかったのに。昔からの親友も、好きな女の子も死なせて。
いつも銃を握っていた右腕にはもはや何の感覚も存在しない。腕がなくては、もう誰かに手を差し伸べることもできない。
――最初の蜘蛛は、殺せたのに。肝心な時に体が動かないんじゃあ、何の意味もない。仲間を守れず自分すらも守れずに。
人が生きるのは、いけないことか。真冬が言っていたように、今の世界は人間に対する罰なのか? そうかもしれない。人は住みやすい世の中を作るために生き物を殺す、自然は壊す、好き放題だ。そしてそれらの行為に、まるで罪悪感を持っていないのだからタチが悪い。すべては人が心地よく生きられる世界を作る、その名の元に。神様気分もいいところだ。地球にとって、地球に住む人間以外の生物にとって、人間は世界を蝕む害悪以外の何物でもない。
だがそれでも、そうだとしてもだ。俺は真冬に言った論を曲げるつもりはない。今の世界が人間に対する罰なのだとしても、今生きている自分たちが殺される理由にはならない。たとえどんな世界でも、そこで必死に生きている人間がいるのだ。罪を犯したのなら、それを償って生きる道もあるはずだ。償うチャンスも与えず、ただ一方的に死ねと言ってくるような世界。絶対に認めない。
――だから俺は、まだ諦めない。
京介の思考が急激に冷えていく。この蜘蛛に〝勝つ〟ために、再び思考が加速し始める。己の信念を貫くために、血と殺意に染まった顔を上げて、目の前の敵を睨みつけた。
「…………まだ、終わらない。終わって、たまるか。お前が俺を、殺すんじゃない……。俺がお前を、殺すんだッ……!」
京介は骨が砕かれ、痛み以外の感覚が消失した左手で、最後の手榴弾を取り出した。もう覚悟は決めた。最初にこれを使わなかったのは心に残っていた弱さだ。それに、いざという時に怖気づかないというのは、真冬と交わした最後の約束でもある。
最後の力を振り絞り手榴弾のピンを口で咥え――それを力任せに引き抜いた。
これでもう、やるべきことは本当に終わりだ。
後悔はない。仲間のために戦い、その結果死んでいくことに後悔などあるはずがない。それにどう見たってこの傷は致命傷、出血はとうに致死量を越えている。それでもまだ意識を繋ぎとめていられたのは、自分がこの蜘蛛と同じように感染し、化け物になりかけていたからか。だがどうにしたって、じきに今まで死んでいった仲間のところに逝くことになるだろう。感染した自分が生き長らえるわけにもいかない。
頭ではそう理解していても未だ恐怖の念が消えない自分にそう言い聞かせ、高熱を帯び始めた手榴弾を握りしめて固く目を閉じた。
たとえ死ななければならない運命にあったとしても、生きていてはならない化け物になるのだとしても。それでも、それでも最後に一つだけ、わがままを言ってもいいのならば。
もう誰にも届かない小さな呟きが、吐き出される血と共にこぼれた。
「…………ちくしょお、死にたくねえなあ」
血に濡れた京介の頬に、一筋の涙が流れた。
◇
「京介君は毎日が楽しい? 満足してる?」
今のように世界が壊れてしまう以前、真冬にそう問われたことがある。突然の質問だったので、その時は特に何も考えず「満足なんかしてねーよ」と答えたのだが、彼女はどこか嬉しそうに「そっか」と笑っていた。おかしな奴だと思ったものだが、五年前、世界が地獄に変わってからも真冬はなぜかその質問を頻繁に繰り返した。
今になって思うと、真冬は心配してくれていたのかもしれない。戦場に身をやつし、一人で全部を抱え込もうとしていた俺のことを。だが俺は毎回意地を張って「満足している」と、そう嘯いていた。すると彼女は決まって「……ならいいんだけど」、そう言って困った顔で笑うのだ。
本当は、満足などしているはずがなかった。楽しいと感じたこともなかった。それでも仲間に心配をかけないように、一人でいる寂しさや辛さを悟られないように、全てを当然のこととして俺は一人で戦い続けた。誰かに助けてほしいと、心の中で叫びながら。だが、そうしたところで誰も助けてはくれない。現実が変わるわけでもない。きっと真冬にはそんな俺の心中など見透かされていただろう。だからこそ今の生活に満足しているかと、問うてきたのだろう。
言えるわけないだろうが。
本当は嫌なんだ、戦いたくないんだ、そう言ったところで、何がどうなる?
そんな事をしても、何も変わらない。失望され、落胆されるのがいいところだ。だから俺は弱く腐った本音を必死で覆い隠し、強引に取り繕って前を向き続けた。そうすることしか思いつかなかった。現実がどんなに辛くても、後ろを振り向くことは許されないとでもいうかのように。
そうして走り続けているうちに、俺は次第に昔のことを思い出さなくなった。
決して昔の思い出が嫌いになったわけではないのだ。しかし、昔の幸福だったころを思い出せばどうしても辛くなる。幸福な記憶は時にその身を切り裂く刃に変わる。そう思ってしまうくらい、今の世界は絶望に満ちている。自分自身を含め、何の希望もないほどに。昔のことを意識して思い出さなくなったのは、そんな世界で少しでも自分を守るためなのだ。
――だからせめて、忘れないよう覚えておこうと思うのだ。
自分のいた世界が、みんなのいた世界が、かつては素晴らしいものであったことを。
真冬がいて、真司がいて、他にも大切なもので溢れていた平和な日常があったことを。
血や争いなどとは無縁な、幸福な世界が確かにあったことを、後生大事に忘れないよう覚えておく。
俺はここで死ぬけれど――大事な人たちが生きるこの世界が、平和たらんことを切に願う。
世界が平和たらんことを切に願う/了
楽しい気分になっておられたらこれ幸い。
誰も読んでなければ私どんまい。