第十三話 「そこにいたのか」
京介が撃つのをやめても蜘蛛はしばらくの間痙攣を続けていたが、やがてピクリとも動かなくなった。それを確認してから口の中に突っ込んでいた銃をゆっくり引き抜いていく。蜘蛛の命が消えると同時に京介の中で燃え続けていた黒い炎は徐々に小さくなり、周囲の時間も元に戻り始める。
京介は肩で息をしながら、自分が今しがた殺した蜘蛛を見下ろした。あれほどの力と圧倒的な生命力に満ちていた大蜘蛛が、今は見る影もなく無残に転がっている。そして殺したのが他ならぬ自分であるという事実が、未だに信じられなかった。
しかしすぐにそんな感傷は捨て去り、ゆらりと視線を上にあげた。
「……もう一匹は、どこだ?」
さっきの戦闘の間意識を外していたが、まだ閃光弾を投げた場所の近くにいるはずだ。どこにいようと逃すつもりはない。それに、京介自身感染している可能性がある以上、やらなければならないこともある。
体のいたるところが悲鳴を上げるのを無視しながら、見上げるのも億劫になりそうな坂道を上っていく。そういえば、この坂道をゆっくり歩いて上がるのはどれくらいぶりだろうか。小学生だった頃はよくもまあ毎日この坂を上り下りしたものだ。住んでいた家が坂の上にあったため仕方のないことではあったが、両親に一度くらい文句を言ってやればよかった。死んでしまった後では、言いたいことも何も言えないのだから。
重たい足を引きずり坂の頂上に辿り着いた時にはかなりの時間が経過していた。しかしそこに、蜘蛛の姿はない。だが京介には必ず蜘蛛がこの近くにいると、そんな確信があった。もしかすると、感染したことによって気配でも読めるようになったのかもしれない。
辺りを念入りに見渡してみるが、見える範囲に蜘蛛の姿はない。京介は片手で持つには少し重いアサルトライフルを宙に向けると、残り少ない弾を惜しまず引き金を引き絞った。
「逃げてんじゃねえぞ! とっとと出てこい!!」
機械的にリズムを刻んで響く銃声の他に、返ってくるのは家々に反響して聞こえる自らの声。肝心の蜘蛛は姿を見せない。
近くにいる。それだけは分かるのだが、どこにいるのかが判然としない。触ることのできない霧を追いかけている気分だ。それが神経を逆なで、苛立たせる。弾が尽きるとマガジンを入れ替え、なおも派手な銃声をまき散らしながら消えた蜘蛛を探し住宅街の中を歩いていく。
そうしてしばらく歩き、京介は燃える公民館の前、小さな公園の中に辿り着いた。先ほど蜘蛛を殺した時の反動だろうか。体が重く、手足が思い通りに動かない。頭の中が薄い膜で覆い尽くされていく。途切れそうになる意識を必死で繋ぎとめながら、公園内に設置されたブランコに手をかけることでようやく息をついた。
「はあっはあっ。あと、少し。もう少しでいいから……」
手をついた遊具に体重を預けながら、誰にともなくそう呟く。
そういえばこの公園、小学生の頃は友達とよく来たのであったか。中学生にもなると来る回数は減ったが、毎週このブランコに友人と腰掛け、塾に行くまでの時間を潰していたものだ。今はそんな過去、眩しいだけではあるが、それでもこの公園がまだ潰れていないことが少し嬉しかった。昔を思い出している場合ではないと頭では分かっていながらも、どうして今そんな事を考えたのか、京介にも分からない。でも、悪い気はしなかった。
「……くだらない、な」
少なくとも、昔の思い出が嫌いなわけではない。だがここは戦場で、今いるのは生死の境目だ。どうしたって思い出などは邪魔にしかならない。いざという時に動けなければ死ぬのは自分なのだ。できるだけリスクは減らしておきたい。だから戦場で余計なことは考えない。それは今まで貫いてき一つのルールであり、戒めだ。ジンクスと言ってもいいかもしれない。今は何も考えず、敵を殺すことだけに集中する。
知らぬ間に弾倉の尽きていたアサルトライフルをその場に捨て置き、右手にベレッタを握りしめる。もうすぐ、真冬のカタキを討つことができるんだ、休んではいられない。
遊具に背中を預けながらベレッタに弾を装填、マガジンを入れ替える。
今の自分になら、それができる。仲間を殺した蜘蛛を野放しにはしてやらない。体中の足を引き抜いて苦しませながら殺してやる。
安全装置を外して銃身をスライド、チェンバーに弾を込める。
あの蜘蛛を殺さないと、俺が俺でいられない。殺してやらないと、もう気が済まない。収まりそうもない。
右手にハンドガンを携え、正面に向けて静かに構える。
なぜか、真冬の顔が脳裏に浮かんだ。真冬は何も言わず俯いていたが、すぐに靄となって消えていった。
京介は口の端を強く噛み締めた。
「待ってろ。蜘蛛を殺して、俺もすぐに……」
そうして京介が遊具から体を離し、燃える廃墟に背を向けたその時だった。
――トスン。
と、言いかけた言葉が終わらぬうちに、自らの腹の辺りでそんな音が聞こえた気がした。視線をゆっくり下にやると、不恰好に腹から赤いワイヤーのようなものが生えている。さらに、そこから赤黒い液体がどろどろと止めどなく溢れ出ているのだ。
「…………ああ?」
一瞬何が起きたのか分からず、呆けた声が喉から漏れ出てしまう。何とはなしにそこに触れてみた京介の手は、べっとりと真紅に濡れていた。ついで腹から飛び出したワイヤーの先に目をやると、その先端は正面のコンクリートの壁に深々と突き刺さっている。
もう遅すぎたくらいだが、この時になってようやく、京介は自分が襲撃されていることに気が付いた。
震える足を動かし、何とか自分を串刺しにしている〝糸〟から逃れようとするが、僅かに動くだけで京介の脇腹を貫いている糸は簡単に腹の肉を裂いていき、そして――
ブチンッ。
そのままあっさりと脇腹を肉ごと断ち切った。想像を絶する激痛に思わず苦悶の相を浮かべる。額に汗を滲ませながら、だが悲鳴は堪えた。もう少し糸が体の中心に食い込んでいたなら、命はなかったかもしれない。
京介は荒い息を吐きながら、背後にいるそいつと対峙するため傷口を押さえて振り返った。未だ激しく燃える公民館の中央、炎の熱さなどものともせず、そいつはそこにいた。炎の中で光る八つの眼、人を軽々と超える巨体。もう見間違えるはずもない。
「……何だ、そこにいたのか」
仲間を殺した憎むべき相手が。八本の長い手足で地を踏み、威風堂々と。
その姿を認めた瞬間頭で考えるよりも早く、全ての痛みを振り切って体が先に動いた。震える腕を無理やり持ち上げベレッタの照準を蜘蛛へと合わせる。しかしそれよりも先に撃ち出された蜘蛛の糸が、トリガーを引くよりも早く京介の体に直撃した。
「がはぁッ!」
その衝撃にベレッタを握りしめたまま吹き飛ばされ、受け身もとれないまま背中から背後の壁に叩き付けられる。体中の骨が軋むのを全身で感じながらそのままズルズルと滑り落ち、壁を背にもたれ掛かることで何とか意識を繋ぎとめた。
敵に弱みを見せるな。自分が上位の存在だと、思わせるな。
そう自分に言い聞かせ、今や全身を好き放題に蹂躙している痛みに歯を食いしばって耐えながら、脳が体を動かせと指令を下す。しかし同時に喉の奥から熱いものがこみ上げ、肺に残った全ての空気と共に大量の血を吐き出した。
「ごほっごほっごほっ! な、何だ、これ……?」
壁を背にしたまま自分の腹部に目をやると、みぞおちの下あたりに拳一つが入りそうな大きな風穴が空いている。そこから先程とは比べ物にならない量のどす黒い血が、絶え間なく溢れ出している。
自らの傷口を認識した途端、明確な死を意識した瞬間。圧倒的な恐怖が京介を襲った。