第十二話 「死ね」
蜘蛛の腹部から糸の塊が撃ち出されたその刹那、京介の意識が爆発的に急加速した。体の中で何かが燃え上がり、血が沸騰するかのような錯覚すら感じる。
轟音と共に襲い掛かる殺意の塊を、京介は地を蹴り走り出すと同時に上体のスウェーのみで回避してみせた。その際僅かに掠めた脇腹がえぐられ血しぶきを散らす。だがそんな事にはまるで動じず、腰に収められたホルスターから二本のナイフを抜き放ちながら蜘蛛の体へと躍りかかる。
「おおおおおおおおッ!!」
京介を串刺しにしようと目にも止まらぬ速さで繰り出される蜘蛛の攻撃、その全てを体一つで避けながら、懐へと一瞬で潜り込む。
生き残った人間たちで構成された部隊の中で、京介とて伊達や酔狂で隊長をやっていたわけではない。戦闘技術、統率力、索敵技能。あらゆる分野でその能力が秀でている者が隊長に選ばれるのだ。そして京介の能力の中で最も秀でているのは、戦闘力。純粋な戦いだけでなら、数ある部隊の中で京介は一、二を争う。
蜘蛛の前足から繰り出される攻撃を全て紙一重で避けながら、右手に携えた大振りのナイフでもって左上段から全力で斬りつけた。さらにその流れを膝に溜め込み、左右の刃で同じ箇所に連撃を叩き込む。右に左に虚実を織り交ぜながら、何度も何度も。しかしいくら斬撃を加えようとも、その甲殻には傷がつくばかりで一向にダメージを与えられている様子がない。左腕に傷を負っているのも理由の一つだろうが、それ以上に甲殻が固すぎるのだ。
それを改めて認識し小さく舌打ちをもらすと、手にしたナイフを強く握りしめた。
「それでも、節足動物だったら〝継ぎ目〟があんだろーが!」
京介めがけて振り下ろされた、巨大な鉤爪のついた前足を逆手で持ったナイフで受け止める。その衝撃で受け止めた左腕がボキリと鈍い音を立てるがそれすら気にも留めず、振り下ろされたままの蜘蛛の前足、その甲殻の継ぎ目にアーミーナイフを渾身の力で突きこんだ。
「……ッ!」
相手は三メートルを越える大蜘蛛であるが、体の構造は通常の個体と変わらないはずだ。蜘蛛を含むあらゆる虫の体には継ぎ目がある。どんなに固い甲殻を持つ生物でも、決して誤魔化すことのできない弱点が。そして京介の目は蜘蛛の足が曲がったとき、そこに小さな隙間ができることを確認していた。甲殻の内側はただの肉。いくら取り繕っていようと、そこはどんな生物も総じて脆い。
ズブリ、と肉を裂く独特の感触。そのままナイフを深く押し込むと、さらに不快な感触が手に直接伝わってくる。すると蜘蛛はけたたましい雄叫びを上げると大きくその身をよじらせ、前足を滅茶苦茶に振り回した。
京介は素早くナイフを引き抜くと、手を後ろにつき体を捻りながらバック転の要領で後ろに跳び退った。着地の際、運動エネルギーを殺しきれなかった靴が渇いた地面の上を滑り、周囲に砂埃を巻き上げる。
「ハアッハアッ、ハアッハアッハアッ!!」
顔を上げると激しい動悸を押さえつける京介の額に、つうと一筋の血が流れた。蜘蛛の鉤爪を避けるときに掠めていたようだ。もし一瞬でも回避が遅ければ頭を潰されていただろう。
しかし、なぜだろうか。こんな状況にありながらも体が羽のように軽い。体の中から力がどんどん湧き上がってくる。しかもそれだけでなく、蜘蛛の動きが止まって見えるのだ。まるで自分以外の時間が止まってしまったかのように。自身、こんな事は初めてだった。それはまるで、命が燃え尽きる寸前、激しく燃え上がる花火のように。だが、そうと分かっていても戦うことをやめようとは思わない。
〝殺してやる〟。今の頭で考えられるのはそれだけだ。真司のことも真冬のことも、何も考えられない。目の前の蜘蛛をいかに殺すか、今必要な情報はそれだけだ。
京介は蜘蛛の前足を受け止めた左腕に目をやった。左腕は知らぬ間に真っ赤に腫れ上がり、大きく膨らんでいる。おそらく骨が砕けているだろう。ナイフは握れそうにない。それよりも意識した途端、何だか痛みが増した気がする。見なければよかったと軽く後悔しながら、正面に対峙した蜘蛛へと視線を戻した。
蜘蛛は前足を深くえぐられたため体を上手く支えることができないらしく、足元がおぼつかない。何しろあれだけの巨体なのだ、足一本とはいえバランスに与える被害はさぞ大きいだろう。蜘蛛を殺すにはこの機をおいて他にない。また適応、進化する前に確実に息の根を止める。
京介は息を整えると、地面を踏みしめる足に力を込めて思い切り駆け出した。爆発的加速に伴い、体が悲鳴を上げる。一瞬で蜘蛛の懐へと肉薄した京介の異常ともいえる速度に、今度は蜘蛛ですら反応できていない。京介自身気付いていないことではあったが、その速さはすでに人間の限界を超えていた。
京介はその勢いのまま蜘蛛の後ろ足、無防備に晒された甲殻の隙間へと的確にナイフを突きこんだ。蜘蛛は突然の苦痛に全身を大きく暴れさせるが、その全ての脚の間を掻い潜り、八本の脚にナイフを振るい続けていく。左手が使えないとはいえ、今の斬撃の手数は両手でナイフを握っていた時より遥かに多い。
(いける……いける! このままいけば……!)
――殺せる。
何度も蜘蛛を斬りつけ、その体液を全身に浴びながら勝利を確信したその時、刃先の狙いが僅かにそれ、後ろ足の甲殻の部分にぶち当たった。今や京介の腕力はとうに人間の域を超えている。そんな常人離れした力でナイフを振るっていたのだ、固い甲殻に直撃した鉄のナイフがその衝撃に耐えられるわけもなく、
キ――ン――
小気味よい音を響かせながら、刃渡り三十センチほどのナイフが半ばから真っ二つに、折れた。カタンカタンと無機質な音が坂道を転がっていく。
(ナイフじゃ止めは刺せないか……! ならッ)
焦りは一瞬、数多ある選択肢の中から最も有効な攻撃を瞬時に弾き出し、動く。
京介は折れたナイフを甲殻の隙間に深々と差し込み、そこに向かって右足でのハイキックを叩き込んだ。その埒外の威力に蜘蛛は一際大きな苦悶の声を上げると、堪えきれず後ろ足を中心にその場で倒れ伏せた。今ので蜘蛛の足も粉々に砕けただろう。
だがそこで手は止めず、巻き上がる砂塵に目を細めながらも蜘蛛の正面へとゆっくり移動し、未だもがき続ける蜘蛛の頭を一切の躊躇なく踏みつけた。
「……甲殻の隙間ってのも弱点なんだろうが」
蜘蛛は全身から緑色の体液を溢れさせながらも、必死に痙攣する体を動かし自らを押さえつける足を振りほどこうとしている。体中を切り刻まれ、足をへし折られても、
――それでもまだ、必死に生きようとしている。
だがなぜだろうか、そんな姿を見ても殺意が消えるようなことはなく、憐みの情などは欠片も浮かんでこなかった。
ほんの先刻、真冬と交わした会話が脳裏に蘇る。
『知ってる? もし人間が感染すると、急激に身体能力が跳ね上がるらしいよ。そして罪の意識がなくなって、生き物を殺すことに躊躇がなくなっていくって』
京介は唐突に理解した。
――なんだ、そうだったのか。俺はとっくに、化け物になっていたのか。
京介は背中にまわしたアサルトライフル、《AK‐47》を右手に持つと、その無骨な銃身を蜘蛛の口の中へと突っ込んだ。
「俺は今まで〝体の中〟に弾丸くらって死なない奴ってのも、見たことねえんだよ」
それでも、もう俺は止まらない。化け物だと言うなら言えばいい。湧き上がるこの殺意を抑えることなど、もうできそうもない。
「死ね」
それ以上目の前の生物に対して何の感情も抱かずに、京介はトリガーを引いた。
まるでオーケストラのように盛大な破裂音を響かせ鉛の弾を吐き出す軍用小銃。蜘蛛の体は地面の上でビクン、ビクンと海老のように跳ね続けていたが、しばらくすると腹が破れ、突き抜けた弾丸を追いかけるように大量の内臓が飛び出した。その色は人間のような赤色ではなく、緑色と濁った乳白色。
所々赤が混ざっているのは真冬の血肉を食ったからだろうか……そう考えながら銃を撃ち続ける京介の眼は赤に染まり、歪んだ顔で笑っていた。