第十話 「……え?」
誰もいない深夜の住宅街を秋独特の夜気が包み込む。吐く息は白く、冬の訪れを予感させる空々しい気配が辺りに満ちている。そんな寒空の下、空気を裂く一陣の風が吹いたかと思うと同時に、アスファルトの地面が轟音と共に弾けた。
「そもそも! 何で蜘蛛が二匹いるのよ!?」
時刻は深夜、外灯すら光を灯していない闇の中を全力で駆けながら真冬が叫んだ。またしてもほんの一秒前まで二人の走っていた場所を蜘蛛の糸、その塊が捉え大きく爆ぜる。
「知るかそんなこと! 愛の巣を吹っ飛ばされて隣で寝てた旦那が起きたんじゃねーのか!?」」
同じく全力で坂を下りながら京介も声を張り上げた。止血すら施されていない左腕は、歩を重ねるたび血が噴き出していく。痛いことこの上ない。
そんな彼らの後方からは、およそこの世のものとは思えぬ異形の化け物が赤い眼を光らせながら二人を追っていた。距離こそまだ離れているものの、追いつかれるのが時間の問題であることは明白だった。
「いい加減、くたばれ!!」
真冬は振り向きながら手にしたアサルトライフルのトリガーを引き絞った。耳をつんざく破裂音と共に銃口から鉄の塊が吐き出され、蜘蛛へと向かい直進する。
《AK‐47》は精度にこそ欠けるが、汎用性という点において右に出るものがない優秀な突撃銃だ。命中精度に難があるといっても二人と蜘蛛の距離は三十メートル。有効射程距離が六百メートルを越えるこの銃にとって完全にデッドラインの内側だ。元々質より量をコンセプトに作られているため、狙いを定めて撃つ必要もない。〝当たるまで〟撃ち続けるだけだ。
銃の脅威など知る由もない蜘蛛は、銃口が向けられても進路を変えることさえしなかった。直線に動く的を相手に真冬がミスをすることもなく、ほぼ全ての弾丸が二匹の蜘蛛へと直撃した。
確かな手ごたえを感じた真冬は立ち止まり、トリガーから指を離して硝煙の上がる銃を下ろした。だが、土煙の中から悠然と現れた二匹の蜘蛛は死んではいなかった。甲殻の表面、その至る所に大きなヒビが入っているが、致命傷を与えられた様子はまるでない。どころか攻撃を加えた人間に対して怒り狂っているようにさえ見える。
「う、嘘でしょ!? 何で銃が効かないのよ!?」
銃が当たれば死ぬ、または瀕死の重傷を与えることができるという、自らの常識を根本からひっくり返された真冬は明らかな狼狽を見せた。
人間という生き物は自らの常識によって守られている。どんな現象もあらゆる事象も、その常識に基づいて脳が処理して自我を保っているのだ。しかしそれ故に、その根底にある世界が少しの異常をきたすだけで簡単に常識というものは崩れ去り、機能、思考を停止させてしまう。簡単に言うと、パニックになる。精神は事実が理解の許容量を超えることに耐えられない。
そしてその状態に陥ってしまった人間は、危うい。
「こんのおおおおおお!!」
真冬はまるで壊れた機械のように銃のトリガーを引き続けた。しかし先ほどは動きを止めるに至った銃弾はもはやそれも叶わず、二匹の蜘蛛は気に留めることなくゆっくりと行進を開始しはじめた。だが、決して真冬の放った銃弾が外れているのではない。直撃しているにも関わらず、それが効いていないのだ。その中で、京介は信じられないものを見た。
――銃が効いてないどころじゃねえ……当たった弾の方がひしゃげて潰れてんじゃねーか!
ついさっきまで甲殻に大きなヒビをいれるほどのダメージを与えられていたにも関わらず、頭部から胴体、八本の手足にいたるまでが明らかに先ほどよりも強固になっている。
「まさか……進化しているのか?」
そうとしか考えられない。そうでなければ直進してくるあの二匹の蜘蛛を説明できない。
それを見た真冬はさらに動揺し、悲鳴を押さえつけるかのように嗚咽を漏らしながら尚もトリガーを引き続けた。彼女の精神が擦り切れ、限界に達しつつあるのは誰が見ても明白であった。
「落ち着け真冬! スタングレネードいくぞ!」
その負の連鎖を断ち切るべく、京介は賭けにでた。ポーチの中から最後の閃光弾を取り出し、ピンに右手の指をかける。本当は最後の切り札に取っておきたかったのだが、仲間の命にはかえられない。それにさっき公民館で使用した時にはかなりの効果が見られた。少なくとも、これで二十秒は時間が稼げるはずだ。
京介は右手で握った閃光弾のピンを口で引き抜き、二匹の蜘蛛の目の前へと放り投げた。混乱状態にありながらも、その身に染みついた本能から真冬も咄嗟に手で顔を覆う。
カチン、という起動音と同時に信管が作動、一瞬で暗闇を吹き飛ばすほどの光の波が辺り一面に広がった。タイミングは完璧。三十メートルもの距離がありながら、京介の投げた閃光弾は蜘蛛の数メートル手前で見事に起動した。
純粋な手榴弾の爆音とは違い頭の中で響き渡る独特の耳鳴りを感じつつ、光が完全に消え去る前に京介は真冬の服を強引に掴んで走り出した。
先ほど真冬には言葉を濁したが、このままでは間違いなく殺される。蜘蛛が視力を取り戻すまでに少しでも遠くへ、少なくともどこかに身を隠さなければ。こうなってしまえば一秒たりとて無駄にはできない。
真冬もそれを理解してかすぐさま自らの意志で走り出した。まだいくらか憔悴してはいるものの、ある程度の冷静さは取り戻したのか足取りは軽い。それを見て京介は内心で安堵し、だがそれを表情には出さず目の前の状況にのみ集中する。
時間にして五秒にも満たない間で閃光はその勢いを失い、次第に元の暗闇へと返っていった。通常の機能を取り戻した視界の中で、二人は既に駆け出していた。もっと速く、できるだけ遠くへと。もう二人の手元に閃光弾は残っていない。銃も効かない蜘蛛が相手では圧倒的に不利、この機を逃せば本当に終わりかもしれないのだ。絶対にここで安全圏、蜘蛛の縄張りの外まで逃げ切らなければならない。
二人は一切の言葉を交わさずひたすら走った。左腕の痛みなど気にも留めず、肩に食い込む銃の重さなど歯牙にもかけず、ただ走り続けた。その道は直線、今の二人にとってはあまりにも長い下り坂。だがあと少しも行けばこの村の出口だ。そこまで辿り着けばもう蜘蛛は追ってこないはずだ。蜘蛛に限らず、感染したあらゆる生物は縄張りの外に出ることはない。
そして二十秒が経過し、そろそろ蜘蛛が視力を取り戻すだろう頃に、二人はほとんど無意識に後ろを振り返った。極限の状況下で二十秒もの時間全力で走ったのだ。息は上がり、玉のような汗が全身を伝っている。
京介の投げたスタングレネードは確実に蜘蛛の眼前で炸裂し、その死力を奪っているはずだ。一度目に使用した時の効果を考えると、かなりの距離が稼げたはずである。真冬もそう確信し、僅かながらも余裕を持って後方にいるであろう蜘蛛の様子を確認しようとしたのだ。
二人の霞んだ視界の先、遥か坂道の上。黒に塗られた闇の中で燃える炎に照らされた蜘蛛は、未だその場を動いていなかった。閃光弾の効果は切れているのか、突然消えた獲物を探すようにきょろきょろと辺りを動き回っているが、どうやら作戦はうまくいってくれたようである。
「何とか、はあ、なったみたいね」
その姿を見た真冬が肩で息をしながらほっと胸を撫で下ろした。いくら蜘蛛の動きが速かろうと、この距離では確実にこちらのほうが早い。逃げ切れる。
真冬がそう確信し、安堵した表情で再び走り出そうとしたところで、だが京介はおかしなことに気が付いた。京介の目論見通り蜘蛛の視界を奪うことには成功した。二人ともが安全圏に辿り着くこともできた。それは閃光弾が確実に起動してくれたからだ。でも、それならばなぜ――
(何で蜘蛛が、一匹しかいないんだ――?)
弾けるようにもう一度背後にいる蜘蛛の方へと視線をやって、それが見間違いでないことを確認する。さっき閃光弾を使った場所に蜘蛛は一匹、まだこちらに走り出してはいない。ならもう一匹はどこに消えた?
二人と蜘蛛との距離はおよそ百五十メートルにまで離れている。蜘蛛のいる場所は炎によって明るく照らされているが、夜ということもありはっきりと視認できない。しかし坂の上で蠢く蜘蛛の姿は間違いなく一つだ。
(姿を消した俺達を探しもせず巣に帰ったのか?)
一瞬そんな考えが頭をよぎるが、すぐに打ち消した。そんな事はまずあり得ない。自分たちは蜘蛛の巣を粉々に吹っ飛ばしているのだ。そんな簡単に諦めてくれるとは思えない。
気が付けば手の中は汗でぐっしょりと濡れていた。無呼吸で全力疾走した際のものではない。今や全身を這うような悪寒がとめどなく走り回っている。
「京介君? 何してるの、早く行きましょう」
立ち止まったまま動かない京介を真冬が急かした。あれほど全力で走ったために真冬も乱れる呼吸と上下する肩を抑えられずにいる。それは京介も同じで、肺が酸素を求めて激しい動悸を繰り返している。だが真冬の言った通り、今はみどり丘を脱出することが何よりも先決だ。いくら距離を稼いだとはいえ、蜘蛛の足なら二十秒とかからず追いつかれてしまうだろう。まだここは絶対に安全な場所ではないのだ。
一度立ち止まったことでさらに重さを増した両足に鞭打ち、京介は踵をかえした。今は消えた蜘蛛の事を考えている場合ではない、そう自分に言い聞かせて再び歩き出す。たとえ一匹がどこかに消えたとして、だから何だというのだ。一匹の影になってよく見えなかっただけかもしれないではないか。と、そうやって京介は不意に感じた違和感を意識の片隅へと追いやろうとした。まるで初めからなかった事にするかのように。解らない問題はそのままに、解りやすい結論を優先し決定的な疑問に目をつむった。背を向けてしまった。
――己の直感を信じず、目先の希望にすがりついた。
それは京介が一兵士である前に、一人の人間であるが故の選択であったのかもしれない。何せ今は生と死の境界線上で綱渡りをしているかのような状態なのだ。少しでもバランスを崩すだけで二人の命運は尽きる。一切の気の緩みすら許されないこの空間の中から、ほんの少し走るだけで解放されるという誘惑がいかに抗いたいものであるかは容易に想像ができるだろう。しかし皮肉か、戦場ではその油断が命取りになる。
二人が走り出そうとしたその直後、空から煌々と降り注いでいた月の光が不意に途絶えた。いや、遮られたというべきか。月を背にした二人の影が突然黒に塗り潰されたのだ。その不可解な現象にまず京介が足を止めた。それにつられて真冬も。立ち止まっている場合ではないと理解しながらも反射的に首を傾げ、空を見上げた。
月が黒い。最初に見た光景にそんなことを思った。だがすぐにそれが間違いであると知る。〝それ〟は段々とこちらに近付きながら、大きくなっていたからだ。
その黒いシルエットには八本の長い手足があり。人を遥かに上回る巨大な体躯を持ち。そして影の中心で八つの赤い眼が爛々と輝きを放っている。
二人にはそれが何であるのか一瞬分からなかった。こいつが今ここにいるはずがないと思い込んでいたからかもしれない。閃光弾の光を浴びて、ずっと向こうでたたらを踏んでいるものと思い込んでいたからかもしれない。
そして一瞬という時間は戦場において、あまりにも長い。
空から落下するそれはまるで力を溜めるように大きく身を屈めたあと、上体を反らし、体内に溜めこんだ〝糸の塊〟をまっすぐに撃ち出した。音速に迫る勢いで飛来する殺意の塊。狙いは二人の人間。巣を破壊された蜘蛛にとってはさぞかし憎い獲物だろう。自然界の圧倒的な捕食者は、一度狙った獲物は逃さない。
京介が自らの違和感の正体に気付いた時には全てが遅すぎた。逃げなければと思うのに、足が動かない。ならば真冬だけでも庇おうとしたその時――
真冬の細い腕が京介の体を突き飛ばした。それは決して強い力ではなかったが、人を移動させるには充分すぎる。
何で、どうして。喉まで出かかった声が、音にならずに消えていった。
突き飛ばされ傾いていく視界の中で、空で浮いたままになっている彼女の手を取ろうとするが、届かない。
どうして真冬がそんな行動にでたのか、分からなかった。真冬がその時どんな顔をしていたのかも、京介には最後まで分からなかった。
――爆散。
京介のすぐ目の前で、真冬の頭がものすごい衝撃と共に弾け飛んだ。血と肉、脳漿とをまき散らしながら、それまで彼女の頭を成していたものがただの肉片へと姿を変えて弾け飛ぶ。首から上を無くした体は盛大に血の雨を降らせながらふらふらと傾き、べしゃりと後ろへ倒れこんだ。急こう配の坂道に朱い液体が流れていく。
「……え?」
何が起きたのか理解できず、京介が首のない仲間へと手を伸ばそうとしたところで、獲物を仕留めた蜘蛛が重力の流れに従い京介のすぐ傍に下りたった。その衝撃で軽々と吹き飛ばされた体は坂道を転がり、壁にぶち当たることでようやく止まった。重い瞼を持ち上げ、霞む視界の中に巨大な蜘蛛の姿を見た後も未だに状況が掴めない。
正面を見ると、大蜘蛛が首から上を無くした真冬へと群がり、奇妙な音を立てながらしきりに鋏角と口部を動かしている。
べり。ぐちゃ。べり。ばり。ぐちゅ。ぶち。ぐちゃ。ばり。べり。ぶち。べちゃ。
京介の方へは目もくれず、肉に群がる獣のようにばりばりと、ぐちゃぐちゃと。いや、その姿は獣そのものだ。獲物を仕留めた者の当然の権利として真冬を、肉を食っている。
その光景を見て、その瞬間になって――京介はようやく理解した。
――ああ、真冬は死んだのか、と。