第九話 「冷え性なのよ」
不意に、京介の頭が急激に冷えた。神経はとめどなく鋭敏になっていく。周囲で二人を取り巻く風の音や木々のいななき、自らの心臓の音から血の流れ。そして風に紛れて微かに感じる、気配。それらを無意識に感じ取ることができるほどに。気配を感じる能力は京介が今までに培ってきた数えきれない実戦の賜物だ。
そんな京介の感覚神経が突如、異変を訴えた。
ただ突然、唐突に、〝嫌な予感〟がしたと言えばいいのか。
少なくとも――京介が自らに向けられた殺気を感じとれたのは、偶然などではなかった。
「……ッ! 伏せろッ!」
〝ひゅんひゅんひゅん〟と、一度聞いたら忘れようもない、そんな音が背後で聞こえた。真冬がきょとんとした顔で振り向くが、間に合わない。
京介は左手で真冬を突き飛ばし、その反動を利用して自らも地面に倒れこむようにして身を伏せた。その頭上を、京介の左手を僅かに巻き込みながら通り過ぎる、極細の糸。目標を外した糸の奔流はそのまま前方の電柱に絡みつき――コンクリートの柱を一瞬でバラバラに両断した。
派手な音を立てて崩れていく電柱を横目に見ながら現状を冷静に分析し、思考が起こりうる限り最悪の結論を叩きだす。
「京介君、生きてる!?」
突然襲撃されながらも状況を即座に理解した真冬が起き上がり、駆け寄ってきた。
「ごめん、また助けられた。もし突き飛ばしてくれてなかったら私は今頃……。今日は助けられてばっかりだね。立てる?」
真冬の言葉に大丈夫だと曖昧な笑みを返しながら体を起こし、それとなく傷口を確認する。左手肘のあたりから肩口までにかけて、服を破り大きな切り傷が刻み込まれている。鋭い痛みに目を細めながら軽く指を動かし、ゆっくりと腕を持ち上げてみる。指も腕も動くということは、神経は切れていない。活動に支障はないだろう。だが、
「……この手じゃ、アサルトライフルは使えないな」
隣に聞こえない程度の声で呟きながら、左手を庇うようにしてその場で立ち上がる。神経こそやられてはいないものの、傷口からは赤い鮮血が流れ出ている。この手では片手で撃てるベレッタならともかく、両手で扱うAKは使えない。
「さて、この状況でどうしたものか……」
自嘲気味にぼやきながら、今しがた自分たちの命を刈り取るべく糸を放った相手の方へと視線をやる。そいつは四メートルを越える体躯を持ち、八本の脚を駆る異形の化け物。その赤い眼は自らの巣を破壊した二匹の獲物を憎々しげに捉えて離さない。
「何で……生きてるのよ? それに……!」
後ろを振り向き、そこに殺したはずの大蜘蛛の姿を認めた真冬の表情が絶望の色を灯す。だが真冬が驚いたのは、ただ蜘蛛が生きていたからというわけではなかった。
「何で、二匹もいるのよ……!」
――殺したはずの大蜘蛛は一匹ではなく、二匹いたのだ。
先ほど大量に湧いて出たような子蜘蛛ではない。眼前にいるのは共に成体、その体は人間などより遥かに大きい。一匹相手にするのも手一杯であった蜘蛛が二匹もいるのだ。この異常事態に京介も驚愕の色を隠せなかった。
その蜘蛛と二人の距離はおよそ三十メートル。距離とは関係なく、ゆらゆらと燃え盛る炎で揺れる蜘蛛のシルエットは不気味というには充分すぎた。蜘蛛の一匹がこちらの心情を見透かし、追い詰めるのを楽しんでいるかのように距離を詰める。二人の足もそれに合わせて後ずさる。
「……真冬、走れるか?」
京介はただ一言、自分たちが生きて帰るために問うた。
「私はとっくに腹くくってるわよ。京介君こそ、その左腕……」
「走るくらい、支障はない。ハンドガンならまだ撃てる。それよりあの蜘蛛、たぶん突然変異の異常種だ。他の小隊からの報告書に上がってた。異常に甲殻が固く動きが速いって特徴も一致する。その時は〝蟻〟が相手だったらしいが、まさかよりにもよって“蜘蛛”の異常種にかち合うとはな」
「なるほどね。確かに、前に戦った蜘蛛は地上に下りてまで狩りはしなかったわね」
「ああ、まともにぶつかっても勝てるか分からない。逃げ切れるかも正直微妙だ。だから、覚悟だけはしとけよ?」
京介の放った言葉に、隣で真冬が息を吞む気配が伝わってくる。
ここで言う京介の覚悟とは、敵を巻き込んで手榴弾を起動させるといういわゆる自爆のことだ。どんなに死力を尽くしても、捨て身で戦ったとしても、勝てない相手や状況というものは存在する。そういう状況まで追い込まれた時、兵士は何よりも合理性を優先させるのだ。ただ無為に死んでいくよりも、少しでも多くの敵を殺して死んでいくために。これは死ぬことを美徳とした特攻精神とはまるで違う。ただ確定してしまった死であるならば、せめて一矢報いてやろうという、戦場で戦う彼らが編み出した究極の攻撃手段なのだ。全ての兵士が手榴弾を二つ備えているのはそのためだ。
その意味を瞬時に悟り、だが真冬はとても格好よく笑って頷いた。
「りょーかい、死ぬときは一緒だね。京介君こそ、いざその時になって怖気づかないでよ?」
おそらく真冬とて怖いのだろう、その声は僅かに震えている。仲間のそんな姿に、京介は自らの震える足を一喝し、
「ああ、約束だ。つっても、死ぬ気なんざ毛頭ないけどな」
互いを鼓舞するようにそう言い、二人は拳を合わせた。今までに何度も合わせてきた真冬の手。京介は苦笑いを零した。
「やっぱりお前の手、冷たいな」
「冷え性なのよ」
真冬も笑って軽口を交わし、そして――
二人と二匹が動き出したのは同時だった。京介と真冬はその身を翻し下り坂を全力で駆け下りる。二匹の蜘蛛は嘲笑うかのように八本の長い手足を駆動させ、その後を追い始めた。
何が何でも絶対に生き残る。生きて、真冬と二人で必ず帰る。もう仲間は誰も死なせはしないと、そう固く心に誓いながら。