おもしろいじゃない
そよ風が心地よかった。だから私は目を瞑り、風邪を肌で感じた。まだまだ暑い日が続く秋。私は高揚を抑えきれなかった。今日、ついに念願の夢が叶う。そう思うと自然と口元が緩み、目に映る一つ一つの物ががきらきらしている気がした。
「本多先生」
男の声がしたので、声の方を向いた。声の主は私の隣にいた。
「森崎先生、」
森崎は私が目を瞑り、ニヤついているのをずっと見ていたのだろう。いかがわしげに私を見つめる。
「何やってるんです?」
「いえ…、少し考えていたんです」
「何を?」
森崎の私を見る目は先ほどから変わらず、眉間にはしわが寄っている。
「昨日爪を切った後、爪切りをどこに置いたかな、って」
森崎は整った顔を優しげに緩め苦笑した。
「緊張してるのかい?」
「ええ、少しは」
私は肩をすくめて見せた。実際のところかなり緊張していた。
「大丈夫。君ならきっとうまくいくよ」
森崎は私の肩に手をそっと重ねた。
「根拠もないのになぜそう言えるんです?」
「なんとなく」
森崎は育ちの良さげな顔からは想像がつかないような豪快な笑い声を発し、私の肩を軽くたたいた。
「面白いね、本多先生って」
私は別にうけを狙ったわけではないと伝えようと口を開いたが、森崎に先を越された。
「気に入ったよ」
「はあ」
屈託なく笑顔を向ける森崎から私は視線を外した。私は彼が苦手だった。その森崎から気に入られている。まいった。私は無意識に頭を掻いた。髪が指にひっかかり、まとめていた髪が乱れたので髪をほどいた。髪が秋風に舞う。そういえば大学に入ったころから一度も髪を短くしていない。
「そろそろ僕は行くよ」
そうですか、私がそう返すとチャイムが鳴った。
「ああ、それから本多先生」
チャイムの音にかき消されないように私は出来るだけ大きな声で返事をした。
「もともと背が高いのにヒールの高い靴を履いているんです?」
私は思わず自分の履いている靴を見た。森崎と隣に並んだ時、私はかすかに森崎を見下ろす形になっていた。それを彼は気にしているのだろう。
「高いと言ってもほんの4㎝ですよ」
森崎の横を通り過ぎるとき、私は彼を少しだけ見下ろしてそう言った。
教室のドアをくぐるとみんな静かに座っていた。なるだけたくさんの生徒と目を合わせる様心掛ける。
「初めまして。今日からしばらくの間君たちの担任になる本多清憮です」
私は自分の名前をできるだけ大きく黒板に書いた。これでも綺麗に書けた方だ。上出来。
「私に質問がある人」
私は出来るだけ笑顔を作って言った。
生徒たちは先ほどとは打って変わって元気に発言しだした。好きな歯磨き粉というマニアックな質問から何故教師を目指したのかという至って真面目な質問まで全て答えた。生徒たちもノリノリだ。掴みは成功したな、と安心した時、ふと気づいた。一人来ていない生徒がいる。もちろん欠席連絡など聞いていない。座席表で空いている席を確認すると、明坂澪という男の子だった。
「明坂君、今日はお休みなのかな」
私が言うと、クラス全体が静まり返った。不自然な沈黙に私は首をかしげた。
「多分、今日は天気が良いので公園で本でも読んでるんだと思います」
一人の少年が真面目に挙手をし、発言をした。
「なかなか面白い子ね。いつも天気のいい日は来ないの?」
「いつもじゃなくて、たまに来ません」
その、「たまに」が今日だというわけか。私は少年を見つめ返しながらどうしようか、と考えた。
「仕方がない」
私はチャイムが鳴りそうな時刻を示す時計を見ながら言った。
「一時間目はお終い。日直さんは号令をお願い」
号令をかけているとき、少年が私の方をじっと見ているのに気が付いた。先生、実はね……、今にもそう話を切り出しそうな様子だった。少年の名は早海謙太。眼鏡の向こう側にある目がとても澄んでいて、もし少年が眼鏡を掛けていなかったら私は少年の目をまともに見られなかったかもしれない。こういうきらきらした目を見ると、自分が酷く汚れた人間の様な気がしてならない。
私は少年を手招いた。少年もそれに応えてこちらにやってくる。
「どうしてわかったの?」
僕が言いたいことがあるって、と早海君の言葉を頭で補う。早海君はちょっと無口なのか、恥ずかしがりなのか、落ち着いていて口数が少ない。
「先生にはそーいうの、だいたい分かるんだよ」
早海君は不思議そうな顔をしたまま私を見上げる。そんな早海君に私は笑顔を返す。
「澪はたぶん屋上にいると思う」
早海君は私の耳元で小さな声で言った。早海君の吐息が耳にかかり、少しくすぐったかった。
「本当?」
屋上は進入禁止になっているはず。学生の頃、私は「屋上」に憧れていたのだが、いつも、学校の屋上は進入禁止区域となっていた。今も昔もそれは変わらない。その屋上に私の生徒が侵入したという。
「じゃ、ちょっと迎えに行ってくるわ」
私が教室から立ち去ろうとしたとき、早海君が私のシャツを掴んだ。私は内海君を振り返る。
「先生、僕が言ったって事、秘密にしといてね」
私は不安気な彼の頭に軽く手を触れた。
「思った通り、内海君の一人称は僕なんだね」
内海君の鳶色の髪は柔らかい感触を覚えながら私は屋上へ向かった。そういえば次の時間、私が来るまで自習にしといてって言うの忘れてたな。
屋上で一人、寝そべっている彼は何を見ているのだろうか。明坂澪は、晴天を見ているとは思えない程陰のある雰囲気の少年だった。私も空を見つめてみる。少年はこちらに見向きもしない。きっと私に気づいていないのだろう。少年が見ている方角には目には見えないが、今頃何と言う星が浮かんでいるのだろう。そんなことをぼんやりと考えていた。
「先生は俺のこと叱ったりしないの?」
私は少し驚いた。一瞬目に力が入る。明坂君は相変わらず寝そべって空を眺めている。
「叱る?何の話?」
私は内海君のすぐ近くに腰を下ろした。
「質問を質問で返すなよ」
私は明坂君の子供らしくない物言いに少し笑った。
「叱らないよ。第一叱る理由が無い」
「屋上は立ち入り禁止なんだろ?」
まだ声変わりしきっていない少年の声が気怠そうに響いた。
「その屋上にずけずけ入った私が君を叱るなんて、可笑しな話じゃない」
明坂君が目だけ私の方に向けた。
「確かにな」
明坂君は目を空へと戻し、鼻で溜息をついた。
「先生はさぁ、どうしてここに来たの?」
「そんなの、君を教室に連れ戻すために決まってんでしょ」
「どうして?」
一瞬、彼は私を撃退するために理由を聞きまくり、にっちもさっちもいかなくさせる作戦を決行しているのかと思った。しかし、彼は私を困らせるためではなく、本気でそう質問したらしい。真っ黒な瞳は一切曲がってなどいなかった。
「仕事だから?俺ってあの教室に必要?」
明坂君は跳ね起きると、フェンスへと向かった。フェンスを掴み、パノラマの様な町を一望する。
「俺さ、自分の存在がよく分からなくなるんだ。考えれば考えるだけ、俺は自分の存在が意味の無いものに思えてきちゃってさ」
明坂君は私を振り返った。顔には相変わらず表情は灯っていない。
「意味、か」
私は呟いた。風が明坂君の黒髪を揺らす。
「本当に、自分の存在に意味がないと思ってんの?」
明坂は感情のこもらない笑みを作った。
「質問を質問で返すなよ」
「私は、こうやって今君と話が出来て面白いと思ってる。こうして意思疎通してるのが君じゃなけりゃ今、面白いと思ってる私は無い。自分の価値っていうのは、自分自身がつけるものじゃなくて、周りにいる人間が本人の意志とは関係なく勝手につけるものなんだよ」
明坂君は驚いたような表情で口を開いた。しかし、明坂君より早く私が言葉を発する。
「意味のない毎日を今日まで送ってきたんなら、今日からは意味のあることは生活にありふれてるって気づきな。それから教室には、君を必要としてる子がいるよ。早海君とかね」
そして小声で、それから私も……と付け足した。それが聞こえたのか聞こえてないのかは分からないが、明坂君は笑い出した。
「面白い事言うんだな。気に入った。名前は?」
「本多清撫。わかってると思うけど、君のクラスの新しい担任だよ」
明坂君はなんと、屋上の鍵を名札の安全ピンで開けていたらしい。彼曰く、「これくらい5歳児でもできる」らしい。そんなことが5歳児に出来たらたまったものじゃない。天気が良い日でもきちんと授業に出席するように言うと「努力する」という曖昧な返事が返ってきた。
明坂君の歩くスピードは速く、常に私の前を歩いた。私は明坂君の独創的でシンプルなデザインのシャツを眺めていた。明坂君は細身の少年だ。運動などとは遠い位置にいそうな白く細い腕がシャツの裾から除く。
「明坂君はダイエットでもしてるの?」
「食っても太らねぇんだよ」
明坂君は吐き捨てるように言った。彼は細身であることを気にしているのかもしれない。私は心の中でごめんと謝った。
「昨日の晩御飯は何だったの?」
「んな事聞いてどうすんだよ」
「質問を質問で返さないでよ」
明坂君の得意文句を奪い取った私は口の端を上げた。
「ラーメンだったよ」
明坂君は心底めんどくさそうに顔を歪めた。そこへさらに私がどうでもいい質問を重ねる
「昼御飯は?」
「んなの給食に決まってんだろ。まさかメニューまで聞いてきたりはしねえよなぁ?」
ばっかじゃねーの、と明坂君は溜息をつく。しまった。しくじった。こう返されては会話を終了せざるを得ない。私は自分の失敗を後悔しながら明坂君の後ろをとぼとぼと歩いた。
教室は二限目だというのに担任の先生がいないというラッキーに直面し、お祭り騒ぎになっていた。窓から覗いた様子には、真面目に自習をしてる生徒もいれば、ケータイやゲームをつついている生徒もいる。
明坂君が教室のドアを開けると、教室が静まり返った。明坂君の後に私も続く。私は教壇に立ち、教室中を見渡した。真面目に自習をしていた生徒の顔を瞬時に覚える。
「みんな、先生のいない間楽しかった?」
生徒たちは何も反応を示さない。
「ま、私が時間通り来なかったのも悪いし、特にペナルティは与えるつもりはない。けども、それでは真面目に自習をしていた子が損になっちゃうからねぇ」
早海君と目が合ったので、私は彼に笑みかけた。自習をしていた生徒の名を呼びあげる。
「この子たちは今日の宿題は無し。それでいいかな?」
真面目な人が損をするのは何となく嫌だった。世の中、真面目な人が必ず特をするというわけではないが、せめてこの教室内では真面目な人が報われるようにしたい。
ケータイをつついていた女の子が文句を言った。
「そんなのずるいじゃないですかぁ。自習っていってもぉほんの少しの時間だしぃ、それで宿題がなくなるなんておかしくね?」
奇妙なしゃべり方をする生徒だ。私は苦笑し、言った。
「じゃ、自習をしていた子の宿題を無しにするのは止めにして、ケータイやらゲームやらを没収することにしようかね」
教室中は騒然。そこまで考えていなかったのだろう、奇妙なしゃべり方をする生徒はばつが悪そうにうつむいた。
「私はどちらでも良いよ」
私の言葉に彼女はそっぽを向いた。プライドが高いのだろう。自分の言ったことを撤回できないのだ。彼女の茶色い髪が揺れる。それが先天的では無く染められているものだと気づき、小さくため息をついた。よく見れば彼女は化粧をしていて、爪には真っ赤なマニキュアが塗ってあった。
このクラスはちょっと変わった子が多いな、と思いながらふと明坂君に視線を移した。明坂君は頬杖をついていて、私の話なんて上の空のようだった。伏せた目からは気怠さが漂っている。
「ま、そういう事だから。二時間目始めるよ」
私は明坂君から目を外し、このクラスに期待を募らせながら二時間目の算数の授業を始めることにしたのである。