八坂神社の日常
前置きとして、この物語はフィクションです。実在の人物、地名、団体名等とは、一切関係ありません。
吾輩は巫女である。彼氏はまだない。
どこで間違えたのかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗い自室で自らの身の憂さを嘆いていたことだけは記憶している。
などと名著の冒頭を真似て自己紹介をしてみたんだけど、どうやらお洒落眼鏡がよく似合う知的な文学少年は釣れなかったようだ。
人気のない、静謐さだけが取り柄の境内を見て一人嘆息するうら若き乙女が一名。
この絵だけでも、ミステリアスな雰囲気に惹かれて男性の一人二人が優しく声をかけてくるくらいのことがあってもいいんじゃないだろうか。
大体、私に彼氏がいないという事実自体がにわかには信じがたい。
巫女だぞ? 女子高生だぞ? 黒髪ストレートだぞ? 前髪パッツンだぞ?
これだけのオプションがついていて、かつ相手に求めることは気が合うことという、ただ一点だけ。
驚天動地のお手頃価格だ。
価格.comで注目ランキング一位に躍り出るのはまず間違いない。
しかしあまり安い女と見られるのもよろしくないな。ここは一つそのへんのイメージを改善するためにも、何かお嬢様っぽい決め台詞を練習しておくべきだろう。
うーん、お嬢様、お嬢様……金持ち、金持ち……。
「あの、すいません。ちょっとお尋ねしたいことが」
「この金で街中のハーゲンダッツを買い占めてきなさい!」
我ながら悲しくなるほど貧困な発想力だ。金持ちイコールハーゲンダッツ。
境内に誰もいなくて本当によかった。もし誰かに聞かれていたら恥ずかしさのあまり悶死していたことだろう。致死ならぬ恥死だ。
燕雀いづくんぞ 鴻鵠の志を知らんや。所詮巫女風情ではお嬢様の心中を推し量ることなんてできないのだろう。
「あの?」
「はい?」
……はい?
嫌な汗が体中から噴き出した。今の私なら大抵の火事場には突入できるだろう。
そして中に唯一取り残されていた美青年を助け出し、シンデレラも嫉妬するほどのハッピーエンドを迎えるのだ。ざまあみろ。
ちらり、と前を見る。
着物を着た若い女性が、小首をかしげて怪訝そうにこちらを見つめていた。
現在の位置関係を説明すると、札束に見立てたお札を突き付ける馬鹿、突き付けられた着物の女性と言った具合だ。
そして信じられないことに前者の人物は私だ。ざまあみた。
「死のう」
「ええ!?」
丁度良いところに注連縄があった。御神木はここに縄をかけろとばかりに、太い枝をこちらに差しのべてくれている。
これだけ御利益ありげな首吊りをすれば、死後は神になれるかもしれない。
そうなったときは恋愛断絶の神として日本中を恐慌に陥れてやるとしよう。
私が縄をかけるために御神木を登ろうとしていると、着物の女性が何故か必死な様子で私の足首を掴んできた。何この人、足フェチ? 息が荒くて怖い。
「まだお若いのに、早まってはいけません!」
「放せ! 私は新世界の神となるのだ!」
「落ち着いてください、そこにぶら下がってもせいぜい仏になるだけです」
仏になれれば十分だ。本地垂迹説を知らないのか。
今こそ日本中の幸せな頭をしたカップル連中を相手取って、ラグナロクを引き起こす時だ。
畏怖せよ、我を。
とある神社の片隅で、日本中のカップルの命運をかけた地味な戦いが繰り広げられていた。
「はあっ、はあっ」
「ふうっ、ふうっ」
今、私は地面に寝転がって空を仰いでいる。
雲間から差し込む陽光が眩しい。
青空に走る一迅の飛行機雲を見て、なんとなく今なら飛べる気がした。
同じく傍らに転がる強敵を見遣る。
彼女も息こそ荒いものの、その顔はどこか満ち足りた清々しいものであった。
ふと、黒曜石のような瞳と目が合う。その輝きが美しく思えて、同姓相手にも関わらずどぎまぎしてしまった私に、彼女はそっと笑いかけてくれた。
「落ち着き、ましたか」
「はい、取り乱してしまって申し訳ない。見苦しいところをお見せしました」
見苦しいというよりは見てて痛々しい光景であったろうが、彼女は奇行を働いた私を馬鹿にするでもなく、笑顔で身体を気遣ってくれるほどの度量を見せた。
何この人かっこいい。
この際女でもいいからお付き合いを前提に結婚してくれないだろうか。
長年直線を描き続けていた私の恋愛心電図が、今キュンキュンと拍動を始めていた。
蘇生、確認。
「それで、一つお尋ねしたいことがあるのですが」
「何なりと仰って下さい。スリーサイズは上から79、58、80。好きな同姓のタイプはあなたです」
「あの?」
しまった。若干引かれている。
最初から飛ばしすぎたようだ。今日履いている下着の色辺りから言った方が良かったか。
だが焦るな私、まだ挽回のチャンスはある。
「この神社に木蓮の木があるはずなのですが、どこにあるのか御存じありませんか?」
彼女の尋ねたいことというのは、存外奇妙なものだった。
というのも確かに当神社には木蓮の木が一本だけ存在しているが、それは本殿の裏という、境内の奥まで入り込まなければ見つかるはずのないところにあるのだ。
おそらくその存在を知り得るのは、神主と私、そしてたまに神社で遊んでいるガキンチョくらいのものだろう。
彼女はその木蓮のことを一体どこで聞いたのだろうか。
「木蓮ならば本殿の裏にありますが、ご案内いたしましょうか」
「本当ですか。是非、お願いします」
快く引き受けることでさりげない好感度の上昇を狙う私。
ローマも恋愛もちょっとしたことの積み重ねから成るものだ。
静かな境内を彼女と二人連れ立って歩く。ちなみにこの場合の彼女とは恋人的な意味ではなく、三人称である。さすがの私もそこまで思い上がってはいない。
辺りに響くのは私と彼女の草履が地面を踏みしめる音だけ。さくりさくりと一定のリズムで歩く彼女は、何故か緊張した面持ちだ。
そういえば今の状況ってわりと珍しい気がする。二人いる人物の内、二人ともが草履を履いているのだ。私は職業柄仕方ないとしても、彼女くらい若い人物で和装というのはあまり見たことがない。何か拘りでもあるのだろうか。
光沢のある縮緬の生地は桃色に染め抜かれており、それに重ねて真っ白な花を携えた一本の木が彼女の足元から右袖にかけて描かれている。
あれ? そういえばこの木は何か見覚えがあるような……。
「……木蓮?」
「え?」
思わず声を上げてしまった私の方へ、彼女が顔を向けた。私は彼女を凝視していたので、自然目が合う形になる。
やべぇ何これ。超気恥ずかしい。見つめ合うと素直にお喋りできない。
不自然に目を逸らす私の様は、初心な中学生男子も真っ青のヘタレっぷりだ。
「木蓮がお好きなのですか?」
無難な話を振って微妙な空気を振り払おうと画策する。
そういえば彼女が探しているのも木蓮の木だったな。今は五月だから花は咲いていないけど、一体何の用があるのだろうか。
「ああ、この着物のことですか。そういうわけではないのですが、これは私の大切な方が下さったものなのでこうして着ているのです」
彼女は愛しそうに、着物の袖を撫でた。その頬は心なしか赤く上気している。
うん? 今何か会話文中に不穏な単語が含まれていたな。
大切な方。そう、それだ。
素人ならここで狂乱して絶望しているところだが、早合点はよくない。
彼女はまだ大切な方としか言っていないわけだから、もしかしたら親兄弟の事を指しているのかもしれないし、あるいは大雪な賀田と言ったのかもしれない。
たぶん三重県尾鷲市曽根町にある集落が、今日は大雪だと言いたかったのだろう。
何故急にそんな話を振ってきたのかはわからないが、そうに違いない。
でもまぁ一応ね。間違いがあったら困るし、確認くらいはしておいた方がいいと思うんだ。円滑なコミュニケーションは相互理解から始まるわけだし。
だから本当、十中八九、万が一にも間違いはないと思うけども、一応確認だけはしておこう。
「そ、その、大切な、ひ、人というのは?」
「えと、その……私の、想い人です」
もともと赤くなっていた頬を更に真っ赤にして俯く彼女。
同時に私の恋愛心電図が連続した電子音を奏でた。私の脳内で医者が必死に電気ショックを指示しているが、もはや意味を成さないようだ。
死亡確認なう。
Twitter風に呟いたところで、誰もフォローはしてくれなかった。
「実は今日ここへ来たのも、その方に会うためなのです。この神社の木蓮の木の下で待っている、と書かれた手紙を下さって……」
あー、へぇ、ふーん、そうなんだ。
喜々としてここへ来た理由を語る彼女。その顔はうれしそうに、本当にうれしそうにはにかんでいた。着物の色もあいまって、桃色のオーラが立ち上っているようにすら見える。
なんというか、稚拙な言葉でしか表せないが、すごく可愛い。恋する乙女と言うのは、ここまで可愛らしくなれるものなのか。
死んだ魚が更に腐ったような目で彼女を見ながら、そう思った。
木蓮は泰然自若としてそこに聳え立っていた。御神木に比べるとまだ背も低く、幹も細い木ではあったが、それでも私よりは遥かに年上だ。
この木蓮はいつも三月中旬ごろに開花する。細々とした枝いっぱいに真っ白な花を携えたその様は、まるで初雪が積もったように見えて実に美しいものだった。
神主が生まれたときに植えられたものらしく、神主にも大層気に入られている。
そんな木の下に、一人の若い男が佇んでいた。
藍色の着流しに黒い帯、真っ白な髪を除けば、そのまま時代劇のキャストに抜擢しても違和感がないだろう。
男は私たちの気配を察したのか、涼しい視線をこちらに向けると、儚げな笑みを浮かべた。
「お待ちしておりました。愛しの君」
「白木様!」
不意に隣にいた彼女が駆けだす。和装であるため全力疾走というわけにはいかないようだが、それでもできるだけ早く男の元へと行きたいのだろう。時折躓きながらも真っ直ぐに駆け、そして男の胸元にしがみついた。
お熱いことで。
「白木様、あぁ白木様。何故会いに来て下さらなくなったのですか。どうしてこんなに酷い仕打ちをなさるのですか。あなたに会えないことで、私が枕を濡らしたことは一度や二度ではありません」
しかしあの男何か違和感があるような。いや、嫉妬とかではなく。何か全身が微妙に光ってるし、頭から細くて透明な紐っぽいの出てるし。
大体私は昼からずっと境内でいたはずなのにこの男が入ってくるところなど見ていない。
だとしたら、この男は一体いつからここで待っていたというのだ。
「会えない悲痛をこの身に刻んだのは私とて同じです。あなたがこの腕の内にいない間も、片時とてあなたの温もりを忘れたことはありませんでした」
なんだか見ているとそのまま浄化されそうなやりとりから目を逸らし、男の頭からでている紐の行く先を視線で追ってみる。透明な紐は、すぐ脇に立つ木蓮へと続いていた。
「口だけならば何とでも言えます。あなたの言が真実であると言うのならその証を、私の唇にその証を下さい」
「あなたがそれで安心できるというのなら、私は喜んでそうしよう」
「神威・天叢雲剣!」
「かはっ」
「白木様!?」
危ないところだった。本当に危ないところだった。
後少し遅かったら精神がやられていたことだろう、私の。
「あなた、白木様に何てことを!」
先ほどまでのおっとりした印象とは打って変わって、眉根に皺を寄せてこちらを睨みつけてくる彼女。その顔すら可憐に見えるのはさすがだ。
彼女に嫌われたくはないので、弁解くらいはしておくべきだろう。
「その男は化け物です。端的にいえば、あなたは騙されています」
「何を馬鹿なことを! 白木様の一体どこが化け物だというのですか」
彼女はますます顔を歪めてこちらに敵意の視線を送ってくる。
まぁ信じられないよなぁ。そりゃそうだ。彼女にはあの男が微妙に輝いてるのも、頭から紐が出てるのも見えてないわけだし。
ましてや自分が愛している人物が化け物だなんて信じられるはずもない。
でも今回の場合、証明すること自体は簡単だ。
「さてここに取り出したるは何の変哲もない一面の鏡」
「ふざけないで。私は何故こんなことをするのかと聞いているのです」
「しかしこの鏡でそこの男を映すとあら不思議」
「だから一体、な……」
語気を荒げた彼女の言の葉が、枯れ落ちるようにして止まった。
理由は鏡に映っていたもの、否、映らなかったもの。鏡は陽光を受けて、ありのままの風景を映し出していた。ただ一つ、男の姿だけを除いて。
「な、これは……どういう……」
「至極簡単な見分け方ですよ。人と、化け物の」
正確には、鏡に映る怪異も数多存在する。中には鏡にしか映らない者すら存在する。
今回は、たまたまこの判別方法が適用できる相手だったというだけだ。
人と大差ない姿でかつこの方法が適用できない相手は、まず化け物であると証明すること自体が難しい。わざわざ人の姿に化けているのだから、向こうから白状するはずもなし。
また、この方法が通じる相手でも証明が難しい場合はある。
例えば。
「こんなの……! 手品に決まっています。どうせその鏡に何か細工がしてあるのでしょう。私は絶対に信じません! さっきから訳のわからない言葉ばかり言って、私達の邪魔をするつもりなら、本気で怒りますよ」
そいつが絶大な信頼を受けている者である場合。これは本当に厄介だ。こうなってはいかなる方法であろうと証明は困難を極める。
何しろ彼女にとって彼が人間であることは、前提どころか確認するまでもない当然の事項なのだ。
正直手詰まりだと私が思ったとき、助け舟は意外なところから来た。
「よしなさい、愛しの君。その方の言っていることは全て事実です」
着物の君の肩をそっと抱き、耳元で囁くようにしてその男は言った。
自分は、化け物であると。
彼女は男の言っていることが理解できなかったらしく、目を皿のようにして男を見つめた。
「一体、何を……?」
「いままで黙っていてすまない。実は私はそこの木蓮の花の精なのです。今やほとんど散ってしまってはいますが、あそこに一輪だけ残っているあの花。あれが私の本体なのです」
何かこの会話だけ切り取るとただの脳内メルヘンな男に思えるな。ああ、いけない。シリアスな場面だった。
男の指さす先を見ると、なるほど確かに一輪だけ真っ白な花が咲いている。
しかし木蓮の花とは本来開花してから十日もすれば一斉に散ってしまうような代物だ。
よくもまぁ五月まで保っていたものだ。
「して、木蓮よ。何故そのことを白状した。一体何を企んでいる」
彼女は混乱しているようなので、今はこちらの話を進めるとしよう。場合によっては祓わねばなるまい。
「はい、実は私は今日彼女に別れを告げるために現れたのです。今まで何とか地に落ちぬように努力してきたのですがそれももはや限界。明後日には私は地に落ち、後は朽ちて風に流されるままとなるでしょう」
なるほど、今生の別れの挨拶か。それならば別に放っておいても構わないかもしれない。
木蓮の男は自然の摂理に従って朽ちるだけであるし、彼女も化け物から解放される。
全てが自然のままに戻るのだ、何も悪いことはない。
無論、納得できない人物はいるだろうが。
着物の君の頬に、水滴が線を描く。彼女の目元には、既に涙が溢れていた。
「どうして、どうしてそのようなことを仰るのですか。私はまだ、あなたといたい。あなたとずっと、共に在りたいのです!」
彼女の悲痛な声が、静かな本殿を震わせた。
彼女は男の銅をかき抱き、泣き声を外の漏らしたくないかのように、その白い顔を男の帯に押し当てている。
不謹慎かもしれないが、彼女が少し羨ましい。私はまだここまで真剣に人を好きになったことがなかったからだ。
男は困ったような顔で彼女の髪を撫でると、慈愛に満ちた声で語りかけた。
「私だってそうしたかった。今だってできるなら共に生きたいと思っています。でももう無理なのです。それに、あなたは人間で私は化け物。元々、成り立つ仲ではなかった」
「あなたが化け物だろうが、関係ありません! 私はあなたを愛していて、あなたは私を愛してくれた。何故それではいけないのですか。どうして別れねばならないのですか!」
彼女も内心ではわかっているのだろう。彼がもうすぐ消えることを。
ただ理解はしていても、了解などできない。心底愛していた人との突然の別れなど、納得できるはずがない。
だから彼女は、無駄だと分かっていても嘆いているのだ。子供の様に。乙女の様に。
「……本当にすまない、愛しの君」
男は胴にかかった彼女の腕をそっと外した。彼女からの抵抗はほとんどなかった。
今の彼女は地面に膝をつき、ただ静かに涙を流している。
どこまでも悲痛なその姿を、私は何故か美しいと感じた。
木蓮の男は彼女に背を向けると、一度も振り返ることなく木蓮の幹へと溶け込んで消えた。最後に「さようなら」とだけ言い残して。
「そんな、そんな……」
彼女は地面に手を突き、茫然自失として何事かを呟いていた。水滴がポタポタと彼女の顔の真下の地面を打っている。
私は少し迷ったが、結局彼女に一言もかけることなくその場を後にした。
我ながら情のない行為だとは思ったが、私の語彙力では彼女にかけられる言葉が見つからなかったのだ。
それにたぶん彼女も、今は声を掛けてほしくないだろう。
それならば今はできることをするまでだ。
役に立たない馬鹿は、行動で示すのだ。
私が必要なものを買い終わって神社に戻ってくると、丁度彼女とはち合わせた。
彼女は私に一礼だけすると、何も言わずにふらふらと神社を出て行った。
その目元は真っ赤に腫れあがっており、今の今まで泣いていたことが見てとれる。
私も彼女に声をかけることはなかった。
その日の夜、私は木蓮の幹にローキックをぶち込むと、木に向かって語りかけた。
傍から見ると不気味な光景であったろうが、今はそんなこと気にしている場合ではない。
「おい、木蓮。少し痛いかも知れんが、我慢しろよ」
「これは巫女様、何の御用ですか」
木蓮の幹から男の顔が生えてきた。思わずその場から飛びのく。
男の顔はかなり整っているのだが、その整い具合がむしろ幹から人間の首が生えているという不気味さに拍車をかけている。
いくらイケ面でもこれはお断りだ。
「何、お前は我慢しているだけでいい。一声もあげることなく、一挙一動することもなく」
「待って下さい、一体何をなさるおつもりですか?」
木蓮の抗議の声を無視し、その幹に梯子を立てかける。
自慢ではないが私はあまり運動が得意ではない。木登りなど論外である。
故に今、色恋沙汰とは別の意味でドキドキしている。
「危ないですよ、巫女様。どうなさるおつもりですか」
「いいから黙って歯を食いしばっておけ。舌を噛むぞ」
よじよじと梯子を上り、ひとまず木蓮の股の部分まで来ることができた。
後は白い花の咲いた枝を手繰り寄せるだけだ。
「うおわっ」
少しバランスを崩して滑りそうになった。心臓が恐ろしい速度で鼓動している。
人生初のバンジージャンプを行ったとき以来のドキドキっぷりだ。
高さはあのときほどではないが、命綱もない。落ちればこの上なく痛いことは想像に難くない。
ゆっくりと枝に手を伸ばし、花が散らないように慎重に手繰り寄せる。
そして花が手の届く範囲にきたところで、私はそっとその花をちぎり取った。
「ぐあっ」
そのとき確かに、苦悶の声とともに木蓮の幹が揺れた。というよりも曲がりくねった。当然宙に私は投げだされ、重力に従って落下する運びとなる。
背中から地面に叩きつけられ、喉に何か詰め込まれたかのような感覚が私を襲った。
苦しすぎて声も出ない。
薄れゆく意識の中で、手の中の木蓮の花が無事であったことだけは確認した。
「巫女様、巫女様、御無事ですか!?」
誰かが私に呼びかけている。もう起きる時間なのだろうか。
今日もまた高校へ行かねばならないのか、憂鬱だ。学校生活が楽しくないという訳ではないのだが、教室でカップルがいちゃこらしているのは見るに堪えない。
口に石を詰め込んでから頬を全力で殴りつけたい衝動に駆られる。石を拾い始めた時点でいつも友人に制止されるのだが、いつか絶対に実行してやる。
「フハハ、必ず詰め込んでやるぞ!」
「あんまり御無事じゃない!?」
ふと周りを見渡してみると、そこは見慣れた境内だった。はて、私は何故外で寝ていたのだろうか。何かとても痛い思いをしたような。全身擦り傷だらけだし。
手の内には何故か白い木蓮の花。あれ、木蓮?
「そうだ、木蓮貴様動くなと言っただろうが! おかげで乙女のやわ肌に傷がついただろうが!」
「あれは巫女様が悪いですよ! 人間でいえば治りかけている傷のかさぶたを引きはがされたようなものですよ!」
随分と具体的な例えを出してくる木蓮。だが痛そうなことは十分に伝わった。今回は許してやるとしよう。
そんなことより……。
「そんなことより木蓮さん、何ですかその姿は? 何と言うかえらく可愛らしくなってしまって、ぷぷっ」
「笑わないで下さい! あなたが引きちぎったからでしょう」
どこから声が聞こえてくるのかと元を辿ってみれば、白い花から声が聞こえてきたので覗き込んでみたところ、昼間見た男をそのまま縮小したような人型が、花弁の真ん中で座り込んでいた。
後は背中に羽さえ生えていれば、完璧に花の妖精だ。
男の妖精ってだけでもシュールなのに、和服って、ぷぷっ。
「そう怒るな、私はお前のためを思ってやったのだ」
「私のため、ですか?」
「いや、正確には彼女のためかな。何にせよ、悪いようにはしない」
花の妖精(笑)は怪訝な目でこちらを見つめていたが、化け物にそこまで詳しい事情を説明するつもりはない。
私がこれからすることは、あくまで彼女のためなのだから。
あの日から毎日彼女は神社へとやって来た。
参拝するでもなく、私と雑談するでもなく、ただ木蓮の木を眺めるためだけに。その表情は悲しみすら見られない、人形のようなものだった。
花がなくなっていることに彼女が気付いたのかはわからないが、彼女は毎朝やってきては、日が暮れると帰ってゆく。
生気の抜けたようなその姿はいたく私の胸を締め付けたが、今の私には待つことしかできないのだ。
そして四日目の朝、私はついに彼女に声をかけた。
「こんにちは、木蓮の花はまだ咲きませんよ」
「……何か、ご用ですか」
彼女はのろのろとこちらに人形のような顔を向けると、消え入るような声を上げた。その声は多分に拒絶の色を含んでいる。
百戦錬磨のナンパ男だろうと、今の彼女の雰囲気の前では裸足で逃げ出すことだろう。
しかし私は逃げ出すどころか彼女に向かって前進する。
なぜなら今の私には、彼女を笑顔にするためのとっておきの武器があるのだ。
「実はあなたに贈り物があるのです」
「……これは?」
私の手の内には一つのガラス瓶。そしてその中で凛として咲き誇る純白の花。
プリザーブドフラワー。
美しさをより長く楽しむために、花を加工した代物だ。
そして花弁の影から現れるのは。
「お待たせいたしました、愛しの君」
「白木……様?」
彼女は面白いほどに困惑して私の顔を見た。その目は早くも潤んでいる。
どうやらこの最終兵器を以てしても彼女を笑顔にすることは叶わなかったらしい。
「保存状態が良くて十年、素人仕事なので下手をすればもっと短いかもしれません。勘違いしないで下さいよ、私は人と化け物が恋仲にあることを許したわけではありません。ただ、心の整理をする時間くらいは必要だと思ったまでです」
その日、彼女は再び四日前と同じ泣き顔を私に見せた。表情は同じであったが、その声に悲痛の色はもはや見られなかった。
彼女と彼の様子を見守りつつも、私の心中は複雑である。
先ほども言ったが、私は人間と化け物が恋愛することなど断じて認めない。
彼岸と此岸は決して交わるべきではないのだ。そもそも彼岸の住人とは人間の想像や感情が吹きだまってできたような連中だ。
そんなものと恋をしたところで、それは小説やゲームの中の人物を相手にしていることと大差ない。
そんな何の発展性もない関係を、今回個人的な感情で後押ししてしまった。
私もつくづく、甘い。
しかし、と目の前で涙を流しながら笑い合う二人を見て思う。
当神社には縁結びの御利益もある。例え人間と化け物だろうが、その縁を結ぶことができなかったとあっては沽券に関わる。
神社の評判を落とさないためにも、今回はこの結末を選ぶしかなかったのだ。
そういうことに、しておこう。
実際どうなんですかね、発展性のない関係って。