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しらないほうがよいこと

掲載日:2026/10/20

定年退職した俺の「盲点の窓」を、妻が容赦なく開けてきた


十月半ば。


秋晴れの空はどこまでも高く、薄い雲が刷毛で引いたように伸びていた。


公園のベンチに腰を下ろした坂本修一、六十歳は、コンビニで買った温かい缶コーヒーを両手で包み込んだ。


金属の熱が、じんわりと手のひらに染みてくる。


先月末、三十八年間勤め上げた中堅建材メーカーを定年退職した。


毎朝六時に鳴り響いていた目覚まし時計の呪縛から解放され、満員電車に押し込まれることも、理不尽な役員報告に胃を痛めることもない。


悠々自適。


完全なる自由。


第二の人生の幕開けである。


――のはずだった。


「……暇だ」


口から漏れた呟きは、秋風にさらわれて消えた。


平日の午前十時。


妻の恵子は「今日はコーラスの顔合わせがあるの」と、朝から上機嫌で出かけていった。


娘の由香は数年前に独立し、今は都内で働いている。


広いとは言えないマンションのリビングに、修一だけが取り残された。


テレビをつけても面白くない。


新聞は隅から隅まで読んだ。


掃除でもしようかと思ったが、どこに掃除道具があるのか分からない。


仕方なく散歩に出たものの、行くあてもない。


会社では毎日、分刻みで予定が詰まっていた。


ところが今は、何時に何をしようと自由なのである。


自由とは、これほど扱いに困るものだったのか。


「……明日は、何をするかな」


修一が缶コーヒーを一口飲んだ、そのときだった。


「よう、修一! なんだその黄昏れた背中は。早くも粗大ゴミの仲間入りか?」


背後から、遠慮のない大声が飛んできた。


「うわっ!」


危うくコーヒーを吹き出しかけた。


振り返ると、高校時代からの腐れ縁で、近所で工務店を営む辰夫が立っていた。


作業着姿で、相変わらず人の神経を逆撫でするような笑顔を浮かべている。


「辰夫か……脅かすなよ。粗大ゴミとは人聞きが悪い」


「じゃあ何してたんだよ」


「私は今、長年の勤労を終えて、人生の思索に耽っていたんだ」


「へえ。暇を持て余してることを、ずいぶん立派に言うもんだな」


「お前は昔から口が悪い」


「お互い様だろ。隣、座るぞ」


辰夫はどっかりと腰を下ろした。


懐から煙草を取り出しかけ、「あ、ここ禁煙か」と気づいて引っ込める。


「で? 毎日サンデーの気分はどうだ。さぞ極楽なんだろうな」


「……まあな」


「歯切れが悪いな」


「少し、拍子抜けしただけだ。三十八年間、毎日やるべきことがあった。それが突然なくなると、どうにも落ち着かん」


「だろうな。お前みたいな仕事人間は、会社から放り出された途端、自分が何者か分からなくなるんだよ」


「失礼な。私は自分のことくらい、自分が一番よく分かっている」


修一がむっとして言い返すと、辰夫は面白そうに片眉を上げた。


「本当かぁ?」


「なんだ、その顔は」


「おい修一。お前、『ジョハリの窓』って知ってるか?」


「ジョハリ……?」


修一は首を傾げた。


「外国のサッシか何かの建材か?」


「違うわ!」


辰夫が膝を叩いた。


「お前、建材メーカーに長く勤めすぎだろ!」


「窓と言われれば、普通はサッシを連想するだろう」


「しねえよ。少なくとも心理学の話をしてるときにはな」


「心理学?」


「そうだ。うちの娘が社員研修で習ったらしくてな。昨日、夕飯のときに得意げに教えてくれたんだよ」


辰夫は足元から小枝を拾うと、土の上に四角い枠を描いた。


さらに十字の線を引き、四つに区切る。


「いいか。人間には四つの窓があるんだとさ」


「ほう」


「一つ目は『開放の窓』。自分も他人も知ってる自分だ」


「ふむ」


「二つ目は『秘密の窓』。自分は知ってるが、他人には見せてない自分」


「なるほど」


「三つ目は『未知の窓』。自分も他人も、まだ知らない自分だ」


「……それは、未知なんだから仕方がないだろう」


「まあな。で、問題は最後だ」


辰夫は右上に描いた枠を小枝でトントンと叩いた。


「『盲点の窓』。他人は知ってるのに、自分だけが気づいてねえ自分、だ」


修一は眉をひそめた。


「……盲点の窓」


「そう。人間ってのはな、自分のことは自分が一番分かってるつもりでも、周りから見りゃ丸見えの欠点に限って、本人はちっとも気づいてねえもんなんだとよ」


「……」


「お前にもあるんじゃねえか? そういうの」


修一の背筋に、かすかな寒気が走った。


三十八年間の会社員生活。


自分は常に冷静沈着で、公平な判断を心がけてきた。


部下の意見には耳を傾け、上司には毅然と物を申し、家庭では威厳ある父親として振る舞ってきたつもりだ。


もちろん、多少の欠点はあるだろう。


しかし、人に指摘されるほどのものがあるとは思えない。


「……辰夫」


「なんだ」


「世の中には、知らないほうが幸せなこともある」


「おいおい、もう怖じ気づいたのか?」


「怖じ気づいてなどいない。無用な詮索は人生を不幸にするという、哲学的な話だ」


「へえへえ」


辰夫はにやりと笑った。


「だったら、ちょうどいい人が来たぞ」


「何?」


「お前のことを三十年以上見てきた、生き証人だ」


辰夫が指差した先には、スーパーの買い物袋を提げた恵子がいた。


近所の奥さんと立ち話をしている。


「おい、恵子さーん!」


「ちょっ、辰夫! やめろ!」


制止もむなしく、恵子がこちらに気づいた。


「あら、あなたたち。こんなところで何してるの?」


「コーラスはどうした?」


「今日は初回の顔合わせだけだったの。早く終わったから、夕飯の買い物をしてきたところよ」


恵子は笑顔で答えた。


辰夫が待ってましたとばかりに身を乗り出す。


「いやあ、恵子さん。修一がよ、『俺は自分のことを完璧に分かってる』なんて豪語するもんだからさ」


「そこまでは言っていない!」


「ジョハリの窓ってやつで、こいつの盲点を教えてやろうと思ってな」


「ジョハリの窓?」


「本人だけが気づいてない自分の姿ってやつだ。恵子さんなら、いくらでも知ってるだろ?」


恵子は目を丸くした。


それから、ふふっと口元を押さえた。


その笑みを見た瞬間、修一の心臓が嫌な跳ね方をした。


長年の夫婦生活で培われた直感が告げている。


危険だ。


これは非常に危険な流れだ。


「よせ、恵子。辰夫のくだらない悪ふざけだ。帰るぞ」


「あら、いいじゃないの。自分の知らない自分を知るなんて、面白そう」


「私は面白くない」


「それじゃあ、まず一つ目ね」


恵子は買い物袋をベンチに置き、人差し指を立てた。


「あなた、自分のことを『聞き上手で、部下の意見をよく吸い上げる上司』だと思っていたでしょう?」


「思っていたというか、事実だ。私はいつだって『何でも言え』と声をかけていた」


「それよ」


恵子は即答した。


「娘の由香から聞いたんだけど、大学時代の先輩が、たまたまあなたの元部下だったんですって」


「なっ……!?」


「その先輩が言ってたそうよ。『坂本部長の「何でも言え」は、「俺の納得する正解を当ててみろ」の合図だから、一番怖かった』って」


修一は絶句した。


「ば、馬鹿な! 私は常に部下の自主性を重んじて――」


「あとね、『怒らないから正直に言え』って言うときのあなたの顔、般若みたいだったんですって」


「は、般若!?」


「眉間にしわを寄せて、腕を組んで、じーっと相手を睨むんですって」


「睨んでなどいない! 真剣に話を聞いていたんだ!」


「それが怖かったんですってば」


ガーン。


修一の頭の中で、寺の鐘が鳴り響いた。


三十八年間の管理職人生が、音を立ててひび割れていく。


隣では辰夫が腹を抱えて笑っていた。


「ぎゃははは! 『何でも言え』の罠! そりゃ怖えわ!」


「笑うな、辰夫!」


「今だって般若みたいな顔してるぞ!」


「誰のせいだ!」


修一は咳払いをして、なんとか威厳を取り戻そうとした。


「まあ、会社では多少厳しく見えたかもしれん。だが、家庭では違うだろう。私はいつだって穏やかで、お前たちの自主性を――」


「はい、家庭の盲点、次いきまーす」


恵子が二本目の指を立てた。


その笑顔は、もはや菩薩を通り越して閻魔大王に見えた。


「あなた、休みの日にたまに作る『男の手料理』。あれ、自分では料理上手だと思っているでしょう?」


「……思っているが?」


修一は慎重に答えた。


「スパイスから調合する本格チキンカレーは、お前たちにも好評だったはずだ」


「大好評なわけないでしょ!」


恵子の声が、公園に響き渡った。


「スパイスで台所の壁は黄色くなるし、使った鍋やフライパンは水にもつけずにシンクに山積み! 材料費だけで家族三人、外食できるくらい高級なお肉を買ってくるし!」


「う、美味いものを食わせようというサービス精神だ!」


「だったら、後片付けまでサービスしてちょうだい!」


「……」


「しかも、出来上がったあとが大変なのよ」


恵子は修一の口調を真似した。


「『どうだ? コクがあるだろう?』『隠し味が分かるか?』『店で出しても通用すると思わないか?』って、一口食べるごとに顔を覗き込んでくるんだから!」


辰夫が吹き出した。


「ぶはっ! 食事じゃなくて試食会かよ!」


「由香と二人で、毎回『美味しいねえ』って顔を見合わせてたの、まったく気づかなかったの?」


「……あれは」


修一の声が震えた。


「……お世辞だったというのか?」


恵子は少しだけ言葉を選んだ。


「味は悪くないのよ。たまに、すごく美味しいときもあるわ」


「お、おお……!」


「でも、毎回あんなに感想を求められたら、味なんて分からなくなるの!」


「……」


修一の肩が落ちた。


得意満面で煮込んでいたカレー。


台所に立ちこめる芳醇な香り。


家族の「美味しい」という言葉。


あれはすべて、自分への気遣いに支えられていたのか。


「修一、お前、顔が真っ白だぞ」


「……放っておけ」


「おい恵子さん、まだあるのか?」


「もちろんよ」


「まだあるのか!?」


修一は思わず立ち上がった。


恵子は三本目の指を立てた。


「テレビを見ながら、無意識にリモコンをカチカチ押してチャンネルを変えるでしょう」


「……」


「こっちがドラマのいいところを見ていても、平気でニュースに変えるのよ」


「そ、それは情報収集の習慣で……」


「それから、寝言」


「寝言?」


「夜中に突然、『その件は再検討だ!』って怒鳴るの。自分の声に驚いて飛び起きるくせに、翌朝は何も覚えてないんだから」


辰夫がベンチを叩いて笑い転げた。


「ぎゃははは! 退職しても寝ながら部長やってんのか!」


「やめろ……」


修一は両手で顔を覆った。


「もうやめてくれ、恵子……」


秋の爽やかな風が、冷たい刃となって心を削っていく。


知らなければよかった。


定年退職して、自分は立派に勤め上げたのだと胸を張り、家族からも尊敬される父親として、穏やかな余生を送るはずだった。


ところが、どうだ。


部下からは般若と恐れられ、家族にはカレーの感想を強要し、寝ている間まで会議を続ける男。


これが、自分の知らなかった自分なのか。


「……世の中にはな」


修一は震える声で呟いた。


「知らないほうがいいことが、山ほどあるんだよ……」


恵子と辰夫が顔を見合わせた。


やがて恵子は、ふっと表情を和らげた。


「でもね、あなた」


「……なんだ。まだ私の知らない恥ずかしい生態があるのか」


「そうじゃなくて」


恵子は修一の隣に腰を下ろした。


買い物袋から、まだ温かい缶のお茶を取り出し、修一の膝にそっと置いた。


「由香の先輩、こうも言っていたそうよ」


修一は顔を上げなかった。


恵子は、紅葉し始めた公園の木々を見つめながら続けた。


「『坂本部長は顔が怖くて、プレッシャーもすごかった。でも、他部署から理不尽な横槍が入ったときは、絶対に部下のせいにしなかった』って」


修一の指が、ぴくりと動いた。


「『失敗した部下を叱ることはあっても、上の人間には自分が責任を取ると言ってくれた。あんなに頼りになる上司はいなかった』って」


「……え?」


修一は思わず顔を上げた。


恵子は微笑んだ。


「その先輩、最後にこう言ったそうよ。『怖かったけど、坂本部長の下で働けてよかった』って」


修一の喉が、きゅっと詰まった。


思い当たることはあった。


若い部下が取引先への見積書で大きなミスをしたとき。


納期の遅れを、別部署から一方的に押しつけられそうになったとき。


理不尽な役員の指示に、現場が振り回されたとき。


修一は、部下の前では厳しい顔をしていた。


しかし、上司や取引先に頭を下げるのは、自分の役目だと思っていた。


それが管理職というものだと。


だから、感謝されているなど考えたこともなかった。


「……そうか」


小さな声が漏れた。


「そんなふうに、思ってくれていたのか……」


恵子は頷いた。


「それからね、カレーの後片付けは本当に腹が立つけど」


「……まだ言うのか」


「大事なことだから言うのよ」


恵子はくすりと笑った。


「あなたが休みの日に、一生懸命台所に立っている後ろ姿を見るのは、嫌いじゃなかったわ」


修一は目を瞬かせた。


「平日はあんなに疲れた顔で帰ってきていたでしょう。それなのに、休みの日には『今日は俺が作る』って張り切って」


「……」


「由香が小さかった頃なんて、あなたがエプロンをつけるだけで喜んでたのよ。覚えてない?」


覚えていた。


娘がまだ小学生だった頃。


小さな手で玉ねぎの皮を剥き、目を真っ赤にしながら笑っていた。


「お父さんのカレー、お店みたい!」


あの声が、ふいに蘇った。


恵子は修一の顔を覗き込み、くしゃりと笑った。


「あなた、自分が思っているほど完璧な人間じゃないわよ」


「……分かっている」


「欠点だらけで、面倒くさくて、見栄っ張り」


「そこまで言うか」


「でもね」


恵子の声が、少しだけ優しくなった。


「あなたが思っている以上に、ちゃんと周りから愛されているの」


修一は息を呑んだ。


「それも、あなたの『盲点の窓』なんじゃない?」


秋風が、二人の間を静かに吹き抜けた。


修一は膝の上の缶を両手で包み込んだ。


胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。


缶コーヒーの熱とは違う。


もっと深くて、懐かしくて、少し泣きたくなるような温もりだった。


自分が知らなかった自分。


それは、欠点ばかりではなかったのだ。


隣を見ると、辰夫が妙に静かだった。


「……おい、辰夫」


「なんだよ」


「お前、泣いているのか?」


「泣いてねえよ!」


辰夫は慌てて鼻をすすった。


「ちくしょう、いい話でまとめやがって。俺の涙の窓まで開いちまったじゃねえか」


「お前の窓はどうでもいい」


「冷てえな! せっかく感動してやったのに!」


修一は小さく笑った。


そして、ゆっくりと立ち上がった。


「……まあ、勉強になった」


「おっ、素直じゃねえか」


「ただし」


修一は人差し指を立てた。


「やはり、知らないほうが幸せなことも多い」


「おいおい、まだ言うか」


「恵子。由香の先輩の連絡先を教えてくれ」


「何をするの?」


「今すぐ電話して、『私の顔は般若ではない』と弁明する」


「ほら! そういう往生際の悪いところが、一番の盲点だって言ってるの!」


恵子が呆れた声を上げた。


辰夫は腹を抱えて笑った。


「ぎゃははは! やっぱりお前は変わらねえな!」


修一は憮然とした顔で腕を組んだ。


だが、しばらくしてから小さく咳払いをした。


「……冗談だ」


恵子が目を丸くした。


「まあ、珍しい」


「私だって、多少は反省する」


「へえ」


「それより、今夜は久しぶりにカレーでも作ろうかと思うんだが」


恵子の表情が、ぴたりと止まった。


「……後片付けまで?」


「もちろんだ」


「材料費は?」


「予算内に収める」


「使った鍋は?」


「すぐ洗う」


「感想を強要しない?」


「……そこまで信用がないのか、私は!」


辰夫が再び吹き出した。


恵子も声を上げて笑った。


「じゃあ、お願いしようかしら」


「うむ。任せておけ」


修一は胸を張った。


久しぶりに、何か役目を与えられた気がした。


それも、会社の肩書とは関係のない、小さな役目である。


そのときだった。


「ところで、辰夫さん」


恵子が、にっこりと微笑んだ。


「ん? なんだい、恵子さん」


「辰夫さんも、自分のことを気が利く男だと思っているでしょう?」


「おう! そりゃあもう!」


辰夫は得意げに胸を叩いた。


「うちの工務店じゃ、親方として皆を引っ張ってるしな。家でも頼りにされてるぜ!」


「そうなのねえ」


恵子の笑顔が、少しだけ深くなった。


修一は、その表情を見て悟った。


あ。


これは、まずい。


今度は辰夫の番だ。


「この前、奥さんとスーパーで会ったのよ」


「……おう」


「辰夫さん、町内会の掃除を毎回『仕事が忙しい』って断ってるそうね」


「……お、おう」


「でも、その時間、いつも喫茶店で競馬新聞を読んでるんですって?」


辰夫の顔が固まった。


「……な、なんで知ってるんだ?」


「奥さんが言ってたわよ。『仕事で疲れてるのは分かるけど、せめて自分の家の前くらい掃除してほしい』って」


「い、いや、それはだな……!」


「それから、家では『俺は細かいことを気にしない大らかな男だ』って言ってるそうだけど」


「お、おう……」


「脱いだ靴下を洗濯籠に入れることくらい、気にしてほしいそうよ」


「ぐはっ!」


辰夫が胸を押さえた。


修一は、ゆっくりと顔を上げた。


口元に、会心の笑みが浮かぶ。


「……辰夫」


「な、なんだよ」


「お前の盲点の窓も、ずいぶん汚れているようだな」


「うるせえ!」


「工務店の親方ともあろう者が、窓の手入れを怠るとは感心せんな」


「心理学の窓だろうが!」


「まずは家庭という建物の補修から始めたまえ」


「建材メーカーの元部長が、偉そうに施工指導してんじゃねえ!」


修一は声を上げて笑った。


こんなに腹の底から笑ったのは、いつ以来だろう。


会社では、常に責任を背負っていた。


部下の前で弱音を吐くことも、上司の前で気を緩めることもできなかった。


だが、今は違う。


妻に叱られ、友人と馬鹿を言い合い、夕飯の献立を考えている。


それだけのことが、妙に心地よかった。


やがて辰夫は腕時計を見て立ち上がった。


「おっと、いけねえ。現場に戻らねえと」


「仕事中だったのか?」


「そうだよ。お前みたいな暇人とは違うんだ」


「だったら最初から仕事をしろ」


「へいへい。じゃあな、修一」


辰夫は数歩進んでから、ふと振り返った。


「……おい」


「なんだ」


「暇だったら、今度うちの工務店に顔出せよ」


「……何?」


「若い連中に、建材のことでも教えてやってくれ。お前、そういうの得意だろ」


修一は目を見開いた。


「いや、私はもう退職した身だし……」


「別に毎日来いって言ってんじゃねえよ。たまにでいいんだ」


辰夫は照れくさそうに鼻をこすった。


「うちの若いのがさ、お前の会社の新しい断熱材について聞いてきたんだ。俺も詳しくなくてな」


「……そうか」


「まあ、気が向いたらでいい。じゃあな!」


辰夫は片手を上げ、足早に去っていった。


修一は、その背中をしばらく見つめていた。


自分には、もう役目がないと思っていた。


会社を辞めれば、これまで積み重ねてきたものも、すべて過去になるのだと。


けれど、そうではないのかもしれない。


三十八年間の経験を、必要としてくれる人がいる。


肩書がなくても、できることがある。


「……恵子」


「なあに?」


「明日、辰夫の工務店に顔を出してみようと思う」


恵子は嬉しそうに微笑んだ。


「いいじゃない。きっと喜ばれるわよ」


「ただし、余計な口出しはせんつもりだ」


「本当に?」


「……なるべく」


「ふふっ。それなら大丈夫ね」


二人は並んで歩き始めた。


公園の木々は、少しずつ赤や黄色に色づき始めている。


修一はふと、先ほど辰夫が描いた四つの窓を振り返った。


開放の窓。


秘密の窓。


盲点の窓。


そして、未知の窓。


六十歳。


自分のことなど、もう知り尽くしていると思っていた。


だが、どうやら違ったらしい。


知らなかった欠点がある。


知らなかった長所がある。


そして、これから初めて知る自分も、まだどこかにいるのだろう。


「あなた」


恵子が隣から声をかけた。


「今夜のカレー、楽しみにしてるわね」


「うむ。任せておけ」


「本当に後片付けまでお願いよ」


「分かっている」


「それから、スパイスを買い足す前に、家にあるものを確認してね」


「……分かっている」


「あと、隠し味にチョコレートを一箱入れるのはやめてね」


「……あれは企業秘密だ」


「秘密にしておいてほしいのは、あなたの味覚のほうよ」


「何だと!?」


恵子の笑い声が、秋の青空に吸い込まれていった。


修一も、つられて笑った。


定年後の人生。


思っていたよりも、少し騒がしくなりそうだ。


だが、それも悪くない。


長い間、閉め切っていた窓を開ければ、新しい風が吹き込んでくる。


六十歳の秋。


坂本修一の第二の人生は、どうやら今、ようやく始まったばかりだった。


〈完〉



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― 新着の感想 ―
ホンワカとして良くまとまった作品だと思いました。 ジョハリの窓の使い方も上手いし。 ただ、しらないほうがよいこと、このタイトル どっかでみたことあるような これも知らない方が良いかな
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