しらないほうがよいこと
定年退職した俺の「盲点の窓」を、妻が容赦なく開けてきた
十月半ば。
秋晴れの空はどこまでも高く、薄い雲が刷毛で引いたように伸びていた。
公園のベンチに腰を下ろした坂本修一、六十歳は、コンビニで買った温かい缶コーヒーを両手で包み込んだ。
金属の熱が、じんわりと手のひらに染みてくる。
先月末、三十八年間勤め上げた中堅建材メーカーを定年退職した。
毎朝六時に鳴り響いていた目覚まし時計の呪縛から解放され、満員電車に押し込まれることも、理不尽な役員報告に胃を痛めることもない。
悠々自適。
完全なる自由。
第二の人生の幕開けである。
――のはずだった。
「……暇だ」
口から漏れた呟きは、秋風にさらわれて消えた。
平日の午前十時。
妻の恵子は「今日はコーラスの顔合わせがあるの」と、朝から上機嫌で出かけていった。
娘の由香は数年前に独立し、今は都内で働いている。
広いとは言えないマンションのリビングに、修一だけが取り残された。
テレビをつけても面白くない。
新聞は隅から隅まで読んだ。
掃除でもしようかと思ったが、どこに掃除道具があるのか分からない。
仕方なく散歩に出たものの、行くあてもない。
会社では毎日、分刻みで予定が詰まっていた。
ところが今は、何時に何をしようと自由なのである。
自由とは、これほど扱いに困るものだったのか。
「……明日は、何をするかな」
修一が缶コーヒーを一口飲んだ、そのときだった。
「よう、修一! なんだその黄昏れた背中は。早くも粗大ゴミの仲間入りか?」
背後から、遠慮のない大声が飛んできた。
「うわっ!」
危うくコーヒーを吹き出しかけた。
振り返ると、高校時代からの腐れ縁で、近所で工務店を営む辰夫が立っていた。
作業着姿で、相変わらず人の神経を逆撫でするような笑顔を浮かべている。
「辰夫か……脅かすなよ。粗大ゴミとは人聞きが悪い」
「じゃあ何してたんだよ」
「私は今、長年の勤労を終えて、人生の思索に耽っていたんだ」
「へえ。暇を持て余してることを、ずいぶん立派に言うもんだな」
「お前は昔から口が悪い」
「お互い様だろ。隣、座るぞ」
辰夫はどっかりと腰を下ろした。
懐から煙草を取り出しかけ、「あ、ここ禁煙か」と気づいて引っ込める。
「で? 毎日サンデーの気分はどうだ。さぞ極楽なんだろうな」
「……まあな」
「歯切れが悪いな」
「少し、拍子抜けしただけだ。三十八年間、毎日やるべきことがあった。それが突然なくなると、どうにも落ち着かん」
「だろうな。お前みたいな仕事人間は、会社から放り出された途端、自分が何者か分からなくなるんだよ」
「失礼な。私は自分のことくらい、自分が一番よく分かっている」
修一がむっとして言い返すと、辰夫は面白そうに片眉を上げた。
「本当かぁ?」
「なんだ、その顔は」
「おい修一。お前、『ジョハリの窓』って知ってるか?」
「ジョハリ……?」
修一は首を傾げた。
「外国のサッシか何かの建材か?」
「違うわ!」
辰夫が膝を叩いた。
「お前、建材メーカーに長く勤めすぎだろ!」
「窓と言われれば、普通はサッシを連想するだろう」
「しねえよ。少なくとも心理学の話をしてるときにはな」
「心理学?」
「そうだ。うちの娘が社員研修で習ったらしくてな。昨日、夕飯のときに得意げに教えてくれたんだよ」
辰夫は足元から小枝を拾うと、土の上に四角い枠を描いた。
さらに十字の線を引き、四つに区切る。
「いいか。人間には四つの窓があるんだとさ」
「ほう」
「一つ目は『開放の窓』。自分も他人も知ってる自分だ」
「ふむ」
「二つ目は『秘密の窓』。自分は知ってるが、他人には見せてない自分」
「なるほど」
「三つ目は『未知の窓』。自分も他人も、まだ知らない自分だ」
「……それは、未知なんだから仕方がないだろう」
「まあな。で、問題は最後だ」
辰夫は右上に描いた枠を小枝でトントンと叩いた。
「『盲点の窓』。他人は知ってるのに、自分だけが気づいてねえ自分、だ」
修一は眉をひそめた。
「……盲点の窓」
「そう。人間ってのはな、自分のことは自分が一番分かってるつもりでも、周りから見りゃ丸見えの欠点に限って、本人はちっとも気づいてねえもんなんだとよ」
「……」
「お前にもあるんじゃねえか? そういうの」
修一の背筋に、かすかな寒気が走った。
三十八年間の会社員生活。
自分は常に冷静沈着で、公平な判断を心がけてきた。
部下の意見には耳を傾け、上司には毅然と物を申し、家庭では威厳ある父親として振る舞ってきたつもりだ。
もちろん、多少の欠点はあるだろう。
しかし、人に指摘されるほどのものがあるとは思えない。
「……辰夫」
「なんだ」
「世の中には、知らないほうが幸せなこともある」
「おいおい、もう怖じ気づいたのか?」
「怖じ気づいてなどいない。無用な詮索は人生を不幸にするという、哲学的な話だ」
「へえへえ」
辰夫はにやりと笑った。
「だったら、ちょうどいい人が来たぞ」
「何?」
「お前のことを三十年以上見てきた、生き証人だ」
辰夫が指差した先には、スーパーの買い物袋を提げた恵子がいた。
近所の奥さんと立ち話をしている。
「おい、恵子さーん!」
「ちょっ、辰夫! やめろ!」
制止もむなしく、恵子がこちらに気づいた。
「あら、あなたたち。こんなところで何してるの?」
「コーラスはどうした?」
「今日は初回の顔合わせだけだったの。早く終わったから、夕飯の買い物をしてきたところよ」
恵子は笑顔で答えた。
辰夫が待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「いやあ、恵子さん。修一がよ、『俺は自分のことを完璧に分かってる』なんて豪語するもんだからさ」
「そこまでは言っていない!」
「ジョハリの窓ってやつで、こいつの盲点を教えてやろうと思ってな」
「ジョハリの窓?」
「本人だけが気づいてない自分の姿ってやつだ。恵子さんなら、いくらでも知ってるだろ?」
恵子は目を丸くした。
それから、ふふっと口元を押さえた。
その笑みを見た瞬間、修一の心臓が嫌な跳ね方をした。
長年の夫婦生活で培われた直感が告げている。
危険だ。
これは非常に危険な流れだ。
「よせ、恵子。辰夫のくだらない悪ふざけだ。帰るぞ」
「あら、いいじゃないの。自分の知らない自分を知るなんて、面白そう」
「私は面白くない」
「それじゃあ、まず一つ目ね」
恵子は買い物袋をベンチに置き、人差し指を立てた。
「あなた、自分のことを『聞き上手で、部下の意見をよく吸い上げる上司』だと思っていたでしょう?」
「思っていたというか、事実だ。私はいつだって『何でも言え』と声をかけていた」
「それよ」
恵子は即答した。
「娘の由香から聞いたんだけど、大学時代の先輩が、たまたまあなたの元部下だったんですって」
「なっ……!?」
「その先輩が言ってたそうよ。『坂本部長の「何でも言え」は、「俺の納得する正解を当ててみろ」の合図だから、一番怖かった』って」
修一は絶句した。
「ば、馬鹿な! 私は常に部下の自主性を重んじて――」
「あとね、『怒らないから正直に言え』って言うときのあなたの顔、般若みたいだったんですって」
「は、般若!?」
「眉間にしわを寄せて、腕を組んで、じーっと相手を睨むんですって」
「睨んでなどいない! 真剣に話を聞いていたんだ!」
「それが怖かったんですってば」
ガーン。
修一の頭の中で、寺の鐘が鳴り響いた。
三十八年間の管理職人生が、音を立ててひび割れていく。
隣では辰夫が腹を抱えて笑っていた。
「ぎゃははは! 『何でも言え』の罠! そりゃ怖えわ!」
「笑うな、辰夫!」
「今だって般若みたいな顔してるぞ!」
「誰のせいだ!」
修一は咳払いをして、なんとか威厳を取り戻そうとした。
「まあ、会社では多少厳しく見えたかもしれん。だが、家庭では違うだろう。私はいつだって穏やかで、お前たちの自主性を――」
「はい、家庭の盲点、次いきまーす」
恵子が二本目の指を立てた。
その笑顔は、もはや菩薩を通り越して閻魔大王に見えた。
「あなた、休みの日にたまに作る『男の手料理』。あれ、自分では料理上手だと思っているでしょう?」
「……思っているが?」
修一は慎重に答えた。
「スパイスから調合する本格チキンカレーは、お前たちにも好評だったはずだ」
「大好評なわけないでしょ!」
恵子の声が、公園に響き渡った。
「スパイスで台所の壁は黄色くなるし、使った鍋やフライパンは水にもつけずにシンクに山積み! 材料費だけで家族三人、外食できるくらい高級なお肉を買ってくるし!」
「う、美味いものを食わせようというサービス精神だ!」
「だったら、後片付けまでサービスしてちょうだい!」
「……」
「しかも、出来上がったあとが大変なのよ」
恵子は修一の口調を真似した。
「『どうだ? コクがあるだろう?』『隠し味が分かるか?』『店で出しても通用すると思わないか?』って、一口食べるごとに顔を覗き込んでくるんだから!」
辰夫が吹き出した。
「ぶはっ! 食事じゃなくて試食会かよ!」
「由香と二人で、毎回『美味しいねえ』って顔を見合わせてたの、まったく気づかなかったの?」
「……あれは」
修一の声が震えた。
「……お世辞だったというのか?」
恵子は少しだけ言葉を選んだ。
「味は悪くないのよ。たまに、すごく美味しいときもあるわ」
「お、おお……!」
「でも、毎回あんなに感想を求められたら、味なんて分からなくなるの!」
「……」
修一の肩が落ちた。
得意満面で煮込んでいたカレー。
台所に立ちこめる芳醇な香り。
家族の「美味しい」という言葉。
あれはすべて、自分への気遣いに支えられていたのか。
「修一、お前、顔が真っ白だぞ」
「……放っておけ」
「おい恵子さん、まだあるのか?」
「もちろんよ」
「まだあるのか!?」
修一は思わず立ち上がった。
恵子は三本目の指を立てた。
「テレビを見ながら、無意識にリモコンをカチカチ押してチャンネルを変えるでしょう」
「……」
「こっちがドラマのいいところを見ていても、平気でニュースに変えるのよ」
「そ、それは情報収集の習慣で……」
「それから、寝言」
「寝言?」
「夜中に突然、『その件は再検討だ!』って怒鳴るの。自分の声に驚いて飛び起きるくせに、翌朝は何も覚えてないんだから」
辰夫がベンチを叩いて笑い転げた。
「ぎゃははは! 退職しても寝ながら部長やってんのか!」
「やめろ……」
修一は両手で顔を覆った。
「もうやめてくれ、恵子……」
秋の爽やかな風が、冷たい刃となって心を削っていく。
知らなければよかった。
定年退職して、自分は立派に勤め上げたのだと胸を張り、家族からも尊敬される父親として、穏やかな余生を送るはずだった。
ところが、どうだ。
部下からは般若と恐れられ、家族にはカレーの感想を強要し、寝ている間まで会議を続ける男。
これが、自分の知らなかった自分なのか。
「……世の中にはな」
修一は震える声で呟いた。
「知らないほうがいいことが、山ほどあるんだよ……」
恵子と辰夫が顔を見合わせた。
やがて恵子は、ふっと表情を和らげた。
「でもね、あなた」
「……なんだ。まだ私の知らない恥ずかしい生態があるのか」
「そうじゃなくて」
恵子は修一の隣に腰を下ろした。
買い物袋から、まだ温かい缶のお茶を取り出し、修一の膝にそっと置いた。
「由香の先輩、こうも言っていたそうよ」
修一は顔を上げなかった。
恵子は、紅葉し始めた公園の木々を見つめながら続けた。
「『坂本部長は顔が怖くて、プレッシャーもすごかった。でも、他部署から理不尽な横槍が入ったときは、絶対に部下のせいにしなかった』って」
修一の指が、ぴくりと動いた。
「『失敗した部下を叱ることはあっても、上の人間には自分が責任を取ると言ってくれた。あんなに頼りになる上司はいなかった』って」
「……え?」
修一は思わず顔を上げた。
恵子は微笑んだ。
「その先輩、最後にこう言ったそうよ。『怖かったけど、坂本部長の下で働けてよかった』って」
修一の喉が、きゅっと詰まった。
思い当たることはあった。
若い部下が取引先への見積書で大きなミスをしたとき。
納期の遅れを、別部署から一方的に押しつけられそうになったとき。
理不尽な役員の指示に、現場が振り回されたとき。
修一は、部下の前では厳しい顔をしていた。
しかし、上司や取引先に頭を下げるのは、自分の役目だと思っていた。
それが管理職というものだと。
だから、感謝されているなど考えたこともなかった。
「……そうか」
小さな声が漏れた。
「そんなふうに、思ってくれていたのか……」
恵子は頷いた。
「それからね、カレーの後片付けは本当に腹が立つけど」
「……まだ言うのか」
「大事なことだから言うのよ」
恵子はくすりと笑った。
「あなたが休みの日に、一生懸命台所に立っている後ろ姿を見るのは、嫌いじゃなかったわ」
修一は目を瞬かせた。
「平日はあんなに疲れた顔で帰ってきていたでしょう。それなのに、休みの日には『今日は俺が作る』って張り切って」
「……」
「由香が小さかった頃なんて、あなたがエプロンをつけるだけで喜んでたのよ。覚えてない?」
覚えていた。
娘がまだ小学生だった頃。
小さな手で玉ねぎの皮を剥き、目を真っ赤にしながら笑っていた。
「お父さんのカレー、お店みたい!」
あの声が、ふいに蘇った。
恵子は修一の顔を覗き込み、くしゃりと笑った。
「あなた、自分が思っているほど完璧な人間じゃないわよ」
「……分かっている」
「欠点だらけで、面倒くさくて、見栄っ張り」
「そこまで言うか」
「でもね」
恵子の声が、少しだけ優しくなった。
「あなたが思っている以上に、ちゃんと周りから愛されているの」
修一は息を呑んだ。
「それも、あなたの『盲点の窓』なんじゃない?」
秋風が、二人の間を静かに吹き抜けた。
修一は膝の上の缶を両手で包み込んだ。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。
缶コーヒーの熱とは違う。
もっと深くて、懐かしくて、少し泣きたくなるような温もりだった。
自分が知らなかった自分。
それは、欠点ばかりではなかったのだ。
隣を見ると、辰夫が妙に静かだった。
「……おい、辰夫」
「なんだよ」
「お前、泣いているのか?」
「泣いてねえよ!」
辰夫は慌てて鼻をすすった。
「ちくしょう、いい話でまとめやがって。俺の涙の窓まで開いちまったじゃねえか」
「お前の窓はどうでもいい」
「冷てえな! せっかく感動してやったのに!」
修一は小さく笑った。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……まあ、勉強になった」
「おっ、素直じゃねえか」
「ただし」
修一は人差し指を立てた。
「やはり、知らないほうが幸せなことも多い」
「おいおい、まだ言うか」
「恵子。由香の先輩の連絡先を教えてくれ」
「何をするの?」
「今すぐ電話して、『私の顔は般若ではない』と弁明する」
「ほら! そういう往生際の悪いところが、一番の盲点だって言ってるの!」
恵子が呆れた声を上げた。
辰夫は腹を抱えて笑った。
「ぎゃははは! やっぱりお前は変わらねえな!」
修一は憮然とした顔で腕を組んだ。
だが、しばらくしてから小さく咳払いをした。
「……冗談だ」
恵子が目を丸くした。
「まあ、珍しい」
「私だって、多少は反省する」
「へえ」
「それより、今夜は久しぶりにカレーでも作ろうかと思うんだが」
恵子の表情が、ぴたりと止まった。
「……後片付けまで?」
「もちろんだ」
「材料費は?」
「予算内に収める」
「使った鍋は?」
「すぐ洗う」
「感想を強要しない?」
「……そこまで信用がないのか、私は!」
辰夫が再び吹き出した。
恵子も声を上げて笑った。
「じゃあ、お願いしようかしら」
「うむ。任せておけ」
修一は胸を張った。
久しぶりに、何か役目を与えられた気がした。
それも、会社の肩書とは関係のない、小さな役目である。
そのときだった。
「ところで、辰夫さん」
恵子が、にっこりと微笑んだ。
「ん? なんだい、恵子さん」
「辰夫さんも、自分のことを気が利く男だと思っているでしょう?」
「おう! そりゃあもう!」
辰夫は得意げに胸を叩いた。
「うちの工務店じゃ、親方として皆を引っ張ってるしな。家でも頼りにされてるぜ!」
「そうなのねえ」
恵子の笑顔が、少しだけ深くなった。
修一は、その表情を見て悟った。
あ。
これは、まずい。
今度は辰夫の番だ。
「この前、奥さんとスーパーで会ったのよ」
「……おう」
「辰夫さん、町内会の掃除を毎回『仕事が忙しい』って断ってるそうね」
「……お、おう」
「でも、その時間、いつも喫茶店で競馬新聞を読んでるんですって?」
辰夫の顔が固まった。
「……な、なんで知ってるんだ?」
「奥さんが言ってたわよ。『仕事で疲れてるのは分かるけど、せめて自分の家の前くらい掃除してほしい』って」
「い、いや、それはだな……!」
「それから、家では『俺は細かいことを気にしない大らかな男だ』って言ってるそうだけど」
「お、おう……」
「脱いだ靴下を洗濯籠に入れることくらい、気にしてほしいそうよ」
「ぐはっ!」
辰夫が胸を押さえた。
修一は、ゆっくりと顔を上げた。
口元に、会心の笑みが浮かぶ。
「……辰夫」
「な、なんだよ」
「お前の盲点の窓も、ずいぶん汚れているようだな」
「うるせえ!」
「工務店の親方ともあろう者が、窓の手入れを怠るとは感心せんな」
「心理学の窓だろうが!」
「まずは家庭という建物の補修から始めたまえ」
「建材メーカーの元部長が、偉そうに施工指導してんじゃねえ!」
修一は声を上げて笑った。
こんなに腹の底から笑ったのは、いつ以来だろう。
会社では、常に責任を背負っていた。
部下の前で弱音を吐くことも、上司の前で気を緩めることもできなかった。
だが、今は違う。
妻に叱られ、友人と馬鹿を言い合い、夕飯の献立を考えている。
それだけのことが、妙に心地よかった。
やがて辰夫は腕時計を見て立ち上がった。
「おっと、いけねえ。現場に戻らねえと」
「仕事中だったのか?」
「そうだよ。お前みたいな暇人とは違うんだ」
「だったら最初から仕事をしろ」
「へいへい。じゃあな、修一」
辰夫は数歩進んでから、ふと振り返った。
「……おい」
「なんだ」
「暇だったら、今度うちの工務店に顔出せよ」
「……何?」
「若い連中に、建材のことでも教えてやってくれ。お前、そういうの得意だろ」
修一は目を見開いた。
「いや、私はもう退職した身だし……」
「別に毎日来いって言ってんじゃねえよ。たまにでいいんだ」
辰夫は照れくさそうに鼻をこすった。
「うちの若いのがさ、お前の会社の新しい断熱材について聞いてきたんだ。俺も詳しくなくてな」
「……そうか」
「まあ、気が向いたらでいい。じゃあな!」
辰夫は片手を上げ、足早に去っていった。
修一は、その背中をしばらく見つめていた。
自分には、もう役目がないと思っていた。
会社を辞めれば、これまで積み重ねてきたものも、すべて過去になるのだと。
けれど、そうではないのかもしれない。
三十八年間の経験を、必要としてくれる人がいる。
肩書がなくても、できることがある。
「……恵子」
「なあに?」
「明日、辰夫の工務店に顔を出してみようと思う」
恵子は嬉しそうに微笑んだ。
「いいじゃない。きっと喜ばれるわよ」
「ただし、余計な口出しはせんつもりだ」
「本当に?」
「……なるべく」
「ふふっ。それなら大丈夫ね」
二人は並んで歩き始めた。
公園の木々は、少しずつ赤や黄色に色づき始めている。
修一はふと、先ほど辰夫が描いた四つの窓を振り返った。
開放の窓。
秘密の窓。
盲点の窓。
そして、未知の窓。
六十歳。
自分のことなど、もう知り尽くしていると思っていた。
だが、どうやら違ったらしい。
知らなかった欠点がある。
知らなかった長所がある。
そして、これから初めて知る自分も、まだどこかにいるのだろう。
「あなた」
恵子が隣から声をかけた。
「今夜のカレー、楽しみにしてるわね」
「うむ。任せておけ」
「本当に後片付けまでお願いよ」
「分かっている」
「それから、スパイスを買い足す前に、家にあるものを確認してね」
「……分かっている」
「あと、隠し味にチョコレートを一箱入れるのはやめてね」
「……あれは企業秘密だ」
「秘密にしておいてほしいのは、あなたの味覚のほうよ」
「何だと!?」
恵子の笑い声が、秋の青空に吸い込まれていった。
修一も、つられて笑った。
定年後の人生。
思っていたよりも、少し騒がしくなりそうだ。
だが、それも悪くない。
長い間、閉め切っていた窓を開ければ、新しい風が吹き込んでくる。
六十歳の秋。
坂本修一の第二の人生は、どうやら今、ようやく始まったばかりだった。
〈完〉




