4.特別なダンス
結局眼鏡が直るまで一週間ほどかかった。他のものならそうでもないのだが、リリアーナの分厚いレンズは特注のもので時間がかかるのである。
無事直った眼鏡をかけて、リリアーナは早速王宮に向かった。約束をしていたわけではないが、シルヴィオにお礼を言いたかった。事付けを頼むだけでもいい、そう思っていた。
王宮に着いて侍従に事情を話すと、彼は温室にいるという。
「リリアーナ様でしたらお通ししてよいと伺っております」
言われるがままに温室に向かうと、いつもよりも軽装のシルヴィオがスコップを持っていた。リリアーナの姿を認めると、彼は立ち上がって青い目を細めた。
「眼鏡は直ったようだな」
リリアーナは首をぶんぶんと縦に振った。
直っている。ついでに度数を調整したのでよりよく見えるようになったのだが、目の前が眩しすぎる。どんな恰好をしても氷の王太子は様になるので困った。少し度数を上げ過ぎたのかもしれない。
「先日はとんだ失礼を……」
「君が謝ることではない」
はっきりとした物言いは突き放したようにも聞こえるが、その実そうではないということが少しずつリリアーナにもわかるようになった。少し前ならこれだけで怯んでしまいそうだったものだが、不思議と怖いとは思わなくなった。
「その、わたしはこれで」
「構わない。灰を撒くのは終わったんだ」
「灰を、撒くのですか?」
そんなものが役に立つのだろうか。灰なんて、何の意味もない残り滓だろうに。
屋敷にも庭はあるが、庭師に任せっきりでリリアーナには詳しいことは分からない。こんなことなら少しくらい聞いておけばよかった。
「ああ。落ち葉や枯れ木を燃やしたものはカリウムやリンを多く含んでいて、土壌の改善に繋がりなおかつ防虫効果があってだな。特に花つきが」
朗々とした声が流れるように紡ぐ言葉がまるで呪文のように聞こえる。何がなんだか全く意味が分からなかった。リリアーナがぽかーんとしていると、怜悧な相貌は一つ大きく息を吐いた。
「簡単に言うと、きれいな花が咲く。以上だ」
シルヴィオは実に明快にまとめてくれた。それだけは、よくわかった。
「せっかくだ。この前の埋め合わせをしよう」
呆れられたかと思ったのに、長い指は手近な花を指さした。そうだった。花の名前を教えてくれると彼は言っていたのだ。
「これはゼラニウム」
はじめて温室に来た日にシルヴィオが撫でていた花だ。
その向こうはアイリス。その隣がストレリチア。淡々と彼は花の名前を挙げていく。
名前のある花は幸せだ。他とは違う何かを見出された花は、そうやって名前を手に入れる。ただの雑草の名を、人は呼ばない。
「あれは、なんですか?」
温室の一番奥に、細い緑の葉が茂っているところがあった。他の花は咲いているのにそこだけ何もない。
「ああ、あれはな」
まさかあれだけ雑草なのだろうか。いや、シルヴィオに限ってそれはないだろう。けれどとても花のようには思えなかった。
「あれは私のとっておきだ」
僅かにシルヴィオが口角を上げる。それを見て胸がきゅっとした。
とっておきとは、なんて甘美な言葉だろう。彼の心の中に、この花が占める場所があるのだと明確に理解した。
みっともないにもほどがある。分不相応だとずっと思っているのに。
リリアーナはその花とも何ともつかない何かを羨ましいと思った。思ってしまった。
「君さえよければ次の王宮での夜会に一緒に出て欲しいのだが、どうだろう」
つまりはシルヴィオの婚約者として夜会に出るということである。
「は、はい?」
氷の王太子はこんな時まで顔色が変わらないのだなと思った。いつもと変わらぬ涼しげな顔立ち。まるで明日の会議の内容でも尋ねるような、平坦な口調だった。
毎回屋敷を出る前には「断ろう」、そう思うのだ。それなのに、なんとなくずるずると会うのを続けてしまっていたのだからそう言われてもしょうがない。
理由もなく会えるほど、シルヴィオは暇人ではない。これは王太子妃を見つけるというれっきとした彼の責務の一つでしかない。
だから今日こそは、断らねばならない。
「わたし、夜会が苦手で……ほとんど出たことがなくて」
「そうか」
「ご迷惑をお掛けしてしまうと思うんです」
やっと言えた。そう思ったのに、シルヴィオの青い目は真っ直ぐにこちらを捉えていた。
「迷惑ではない」
この瞳はいつも突き刺さるようにリリアーナを見つめてくる。
「苦手なことがあるのなら、それについて対策を考えればいい」
返されたのは実に建設的な提案だった。
「私にできることなら協力はする。一体何が苦手なんだ?」
こうやって大臣達とも議論しているのだなとわかる明瞭な回答。彼は、正しい。
「……ダンスが、踊れなくて」
嘘ではないが本当ということもない。真実の二周外ぐらいにある結論。
実際リリアーナはダンスがあまり巧くはない。そして、ろくに男の人と踊ったこともない。
「分かった。それならダンスについて対策をしよう。君も久しぶりの夜会は緊張するだろうから、今回は練習だと思って出ればいい」
婚約発表はその次でいいとシルヴィオは言った。
練習。
そんな風に気楽に思えはしなかったけれど、それなら夜会が終わった後でもまだ断れる。きっと何も満足にできないから、そうすればシルヴィオも納得してくれるだろう。そう思った。
そうしてダンスの練習をすることになり、窓の大きな広い部屋に通された。
「まずはステップの復習からでいいか?」
すらりとした長身がリリアーナの前に立った。日頃座っていることが多いので忘れがちだが、改めてこうして向かい合うと彼は背が高い。
いや、これはどういうことだろう。
「え、あ、はい?」
この国で一番ダンスを踊りたい相手で有名な人が、自分に手を差し出しているというこの事実。
「私が相手では、問題があるか?」
「い、いえ」
ぷるぷるとリリアーナは首を横に振った。口が裂けてもそんなことは言えない。
「てっきり教師の方か誰かが教えて下さるのかと……」
まさか王太子自らが練習相手をしてくれるだなんて誰も夢にも思わない。
「それでもいいが、ダンスなら私でも踊れないことはない。協力すると言ったのに人に任せてばかりもいられないからな」
昔シルヴィオがどこかの国の王女と踊るダンスを、リリアーナは大広間の隅から眺めていたことがある。王女の熱っぽい視線を歯牙にもかけず、彼は華麗な足さばきを披露していた。そこにいた令嬢の誰もが、シルヴィオの虜だった。
「きっと上手にできないので」
「できないから、練習するのだろう? それだけのことだ」
「それは、そうですね……」
そうやってまた何も言えなくなった。差し出された手に己の手を重ねたら、腰に手が添えられた。流れるようにするりと、ダンスが始まる。
本当は、こんな風に誰かとダンスを踊ってみたかった。
けれどそんな日は、ずっと来ないのだと思っていた。
くるりとターンを回る度に銀色の髪が舞う。しなやかな腕がリードしてくれる。
この時間が永遠に続けばいいと思った。
あの王女の気持ちが、少しわかった。ああなってしまうのも無理はない。夜会もダンスも一生好きにはなれないと分かっているけど、それでもシルヴィオとダンスを踊るのは楽しかった。
最後に彼がお手本のような美しい礼をしてその手が離れる時、無性に切なくなった。
「そこまで気にするほどではないと思うが」
「それは、殿下がお上手だからです」
記憶にある限り、リリアーナはこんなにちゃんと踊れたことなどない。
「私も特段上手いということはない。ただ人より少し踊る機会が多かっただけだ」
「そんなことは、ないのでは?」
「ある。私よりジェラルドの方が上手い」
「ジェラルド……?」
さて誰だっただろうと首を傾げたところで、
「ロジータが連れていた背の高い騎士がいただろう?」
彼のことなら覚えている。困ったような顔で笑う人。
「妹がデビュタントの時、練習相手を私がしていたんだが最終的にロジータに断られてな。あいつの方がいいと言われた」
シルヴィオが窓の向こうに目をやる。もっと遠くのもの、とても眩しいものでも眺める様に、彼はすっとその青い目を眇めた。
ロジータの煌びやかな金髪が脳裏に蘇る。
「それは多分、少し違うんじゃないでしょうか」
そして、彼女をずっと見守っていたあの穏やかな目も。
リリアーナはロジータの多くを知るわけではないけれど、それでもわかる。
「好きな人と踊るダンスは、きっと特別なものです」
自分と結びついた人と踊るダンスはきっと特別で、他と比べられるものではない。
上手いとか下手とか、そんなことは関係ないのだ。
世界にきっと、その人しかいないようなそんな心地になるだろう。
「そういうもの、かもしれないな」
そう言って、シルヴィオが珍しく眉を下げて苦笑した。
リリアーナは思わず息を呑んだ。
こんな顔をする人だとは知らなかった。これは完全無欠とは遠いところにあるものかもしれないけれど、それでも目が離せなかった。
「リリアーナ」
呼ばれた己の名前に、はっと我に返る。
「私の顔がどうかしたのか?」
長い指が頬に当てられる。ひやりとした感触が気持ちいい。
そうして気づく。この手が冷たいのではない。自分の頬が熱いのだ。
きっと真っ赤になっている。慌てて隠すように両手で顔を押さえて俯いた。
「どこか具合でも悪いのか?」
「大丈夫です!」
「この前はそう言って、全く大丈夫ではなかったがな」
眼鏡が割れた時の話をしているのだろう。このままだとシルヴィオは侍医でも呼びそうな勢いである。
けれどなんて説明をしたらいいのだろう。あなたに見惚れていましただなんて。
「今日は、本当に、大丈夫です……」
俯いたまま精一杯の主張をしたら、頭の上で彼がまた笑う気配がした。
「ならいい」
置かれた手は踊って少し乱れた髪を撫でる。まるで小さな子供にするような仕草。ロジータの髪もこんな風に撫でていたのかもしれない。彼にとってはきっと、大したことではないのだろう。
それでもしばらく、リリアーナは顔を上げられなかった。




