蝶が吐いた綺麗な嘘
俺は駄目な教師だ。
何も出来ない。上司には褒められたことなんてないし、厳しい叱責を浴びせられるだけだ。
春の終わり目のある日。道を歩いていると綺麗な蝶が鴉に食われた。
食物連鎖。仕方ないことだ。蝶が俺で、鴉は上司なのか。
無駄に働く想像力。俺は首を振って学校に行った。
糸がぷつりと切れた。
俺は、あの子を幸せにしないと。
俺は退職届を上司に出して、全てを失った。
「雨宮ってさ、なんでそんなに理科好きなの?」
中学生の時に、隣の席の友達に言われたことがある。
俺はその時、少しだけ考えてからこう言った。
「んー、まぁ。小さい頃からさ、身の回りの現象に興味があったんだよ。なんで雨が降るのか、とか」
嘘じゃなかった。
理科に興味を持ったきっかけはこれしか無かった。
にしては少し浅く感じるが、10年ほどたった今、俺は理科教師になっていた。
でも、意外と違った。
ジグソーパズルが、合ってそうなのに噛み合わない感覚に近いのかもしれない。
生徒からは「説明がわかりやすい」と言われる俺だが、同僚からはミスの冷やかし、上司からは叱責。
晴天の下を舞う蝶を眺めながら、俺は自分はこのまま理科教師でいいのかと考えてしまった。
辞めた理由はこれだけではない。
回収した生徒のノートを持って歩いていると、ノートは他のノートの上をするりと滑って、俺は廊下にノートをぶちまけてしまった。
俺は冷や汗が背筋に伝うのを感じて、すぐにノートを拾い上げた。
「はぁ…」
溜息をついた時、横から細い手が伸びてきた。
その手は、少しだけ切り傷のような跡があり、俺がバッと顔をあげると、生徒だった。
担当した事の無い生徒。
「よいしょ。先生、これ」
その生徒は校則を破って、胸まである黒髪を下ろしていた。
顔はよく見えなかったけど、礼を言った後にちらりとネームプレートが見えた。
『文月夏帆』
上靴は黄色のラインが入っていて、すぐに2年生だとわかった。
窓から吹き込む風が熱い。
俺は少しだけ頬が緩んだ。
こんなに幸せになったのは久しぶりだ。
俺はさっきよりも慎重に、でも軽い足取りでノートをクラスに持っていった。
クラスに戻ると、クラスのムードメーカーの男子に言われた。
「センセー、今日めっちゃ笑顔じゃね?なんかいいことあったの?」
「敬語な?まあ、いい生徒に出会ったかな」
俺が控え目に言うと、クラスはさっきよりも少し騒がしくなった。
今思えば、教師人生で1番幸せだったかもしれない。
日を重ねて行く事に俺は文月夏帆の魅力にのめり込んだ。
担当することは無かったが、わざわざ俺の教室に来て、理科の質問をしてくれることがあった。
勉強熱心な文月夏帆は、まるで太陽のように俺の人生を明るく照らしてくれた。
質問に答える度に、まるでお菓子を貰った子供のように笑い、こう言ってくれるのだ。
「先生、すごく教えるの上手ですね」
そう言ってノートを受け取る文月夏帆。
いつも顔や腕に傷がついていて、聞こうとするが、彼女は質問を終えるとすぐに教室を出ていってしまい、話しかけるタイミングなんてない。
そして、日に日に彼女の顔が暗くなっていき、腕に絆創膏が貼られていることが多くなった。
(まさか、家庭に何か問題が?)
そんなことが頭によぎった。
自分は小さい頃に事故で親を無くし、施設で育ってきたけど、虐待されて来た子供は、ほとんどが腕に絆創膏が貼られていたり、マスクで傷を隠している子もいた。
嫌な予感に手が震え、夏帆に渡した解説用のメモ用紙の端に「何かあったら相談してね」と綴った。
ボールペンの先をしまい、デスクの椅子に腰掛けて、ふぅと息をつく。
彼女が虐待されててもおかしくはないという事実に、俺はどうすればいいかと悩んだ。
でも、テスト期間が迫っている。
範囲表と共に、テスト用紙を作らなければならない。
震える指でパソコンのキーボードを打った。
外からは部活のホイッスルや、公園で遊ぶ小学生の声がする。
理科室に教科書を取りに行き、ついでに窓を覗き込むと、ちょうど公園が見えた。
公園には、ベンチで黄昏ている人もいて、その姿を見て俺は驚き、手を滑らせて教科書を落とした。
鳥の羽のように教科書が広がる。
「夏帆さん……?」
文月夏帆だった。
空を眺め、足をぶらぶらと揺らしている彼女。
彼女が暑そうに上着を脱いだ。
俺は嫌な予感が確信に変わった瞬間、窓枠にかかる指を離した。
腕にあった、絆創膏で隠しきれないほどの切れ傷。
俺は教科書のことも忘れて、彼女の担任に話しかけに行った。
階段を降りる時も、背筋を伝う汗が心地悪くて、身体の震えは止まらなかった。
「あの!鏑木先生!」
彼女の担任の鏑木拓也は、俺よりも大分年上で、少しだけ肥満的な体型をしている。生徒からはよく「カブちゃん」と呼ばれるほどフレンドリーな教員だった。
鏑木は呆れたように笑って俺の方を向いた。
「なんじゃほいな?そんなに慌てて」
俺は少しだけ息を切らしながら鏑木に近づいた。
「あの……鏑木先生のクラスの文月さんなんですけど、最近様子はどうです?」
俺の言葉に鏑木はうーんと首を傾げる。
机の上には国語の教科書と淹れたてのコーヒーがあって、湯気が立ち上っていた。
「元気無いんだよなー、あの子。いつもギリギリまで教室に残るんだよね。俺が帰るように言わない限りはずっと教室で本読んでるよ」
鏑木は不思議そうに俺の目を見た。
「どうして文月のこと?担当してないよね」
俺は額の汗を裾で拭いながら、引きつった顔で笑った。
「あはは……ちょっとだけ関わったことがあって、気になって…ありがとうございました」
俺が去ろうとすると、鏑木はなにか気づいたように、俺に耳打ちした。
「あんま、親と仲良くないらしいよ。文月。なんせタブレットの検索履歴が家出の方法とか場所とか。俺も注意して様子みるけどさ」
俺は重い足取りで廊下を出た。
エアコンのない廊下は、むわっとした熱気で溢れていて、身体に熱気がまとわりつく。
やはり、そうだった。
文月夏帆は、家庭環境に悩んでいる。
まだ、公園で耐えているのだろうか。
あの公園のベンチは、日当たりスポットと言っても過言では無い。
彼女が熱中症になって倒れてもおかしくないと思った俺は、残業は家ですることに決めて、家に帰ると職員たちに伝え、公園に向かった。
夕方の公園。虫たちの鳴き声と、カラスの声。そして、帰ってゆく小学生たちの走っていく音。
夕日が照らすのはベンチと、そのうえで俯いている彼女。
くっきりとシルエットが映し出されている彼女に、俺は声をかけた。
彼女のリュックにはクマのストラップがついていて、風と共に揺れている。
「文月さん。もうすぐ下校時間ですよ。帰らないんですか」
彼女はゆっくりと俺の方を向いた。
その目は焦点が上手く結ばれてなくて、首元には汗が滴っている。
俺は自販機でミネラルウォーターを買い、彼女に手渡した。
受け取る手は、少しだけ震えていた。
「せんせ……。なんでいるんですか」
彼女は力の無い声で言う。
「なんとなく来ただけ、だよ。家、帰りたくないの?」
「……」
彼女は俺の言葉に顔を曇らせて、黙り込んでしまった。
空気が重くなり、何故か俺は必死に弁明した。
「あ、違くて、その!責めてるわけじゃないんだ。今まで、なんとなく、気づいてて…俺も、新人教師だけど、なにかできることないかとか」
「無理ですよ。先生に何が出来るんですか?私の親を止めれるんですか?殺してでも止めてくれるんですか?出来ないですよね?私はそれくらい親が憎いんですよ」
俺の話を遮り、彼女はペットボトルを少し強く握った。 キャップの開いていたペットボトルから水が零れる。
俺は彼女の言葉に黙ってしまった。
正論だったからだ。
彼女は親を殺したいくらい憎い。でも教師にはそんなこと出来ない。
人に道徳を教える人間に、そんなことは出来ないのだ。
「俺は、なんとかして君を守りたいんだ。だから、ふたりで考えようよ」
俺は彼女に訴えた。
彼女を救いたい。だって、彼女が好きだから。
文月夏帆が好きだから。
人として、1人の女性として、文月夏帆が好きだからだ。
「もういいですよ先生。先生には私の親を殺す覚悟が無いんだから。みんな私と一緒で意気地無しなんですよ。あはは…はは」
そう言って乾いた笑い声を上げた彼女は、ペットボトルを砂場に投げ捨てて公園を去った。
砂と水が合わさって、白っぽい色が黒く染まっていく。
俺はその場にへたり込んだ。
このままじゃ駄目だ。
教員のままじゃ、夏帆を救えない。
なら、全てを失った浮浪者になれば?
人を殺しても、少しは同情の気持ちを貰えるかもしれない。
俺は立ち上がって、家に向かって歩いていった。
家に帰っても、PCには全く触れなかった。
俺は何もかもを失った。
妻も、仕事も、家も、食べ物も。
ある日、俺はあの公園で座っていると、誰かが座った。
俺の横のベンチで。
胸まである黒髪。少し大人びた身体。
リュックに付いているのは、クマのストラップ。
文月夏帆のつけていたもの。
腕には、見覚えのある傷。増えているような気もするし、減っているような気もする。
グレーのパーカー姿に、細い手足が覗いている。
俯いている彼女の顔にかかった髪の隙間。そこから見えたのは黒い瞳。光を失い、闇を煮詰めたような漆黒の瞳。まつ毛が長くて、蝶の羽のようだ。
俺は夏帆を横目で見てから、ベンチの背もたれに体をあずけた。
その動きに夏帆がこちらを見る。
でも、俺だとは気付かずに、すぐに立ち上がって行ってしまった。
夏帆が鈴の音のような声でハミングするのが聞こえ、俺は彼女の後を追いかけた。
強い日差しが俺と彼女を照らす。
歩く度に汗がだらだらと流れ落ちて、俺は息を荒くした。
30分ほど歩いた後、彼女のアパートに着いた。
彼女は部屋に入って、鍵をかける音が小さく聞こえた。
俺は周辺を歩き、彼女の家に彼女の両親が来ないかと淡い期待を抱いていた。
ずっと用意していた。泣け無しの金で買った包丁とブルーシート。彼女の両親を殺し、海に沈める為に買ったものだ。
彼女は俺をヒーローだと思ってくれるだろうか。
それか、俺は残虐な人殺しになってしまうのだろうか。
彼女が幸せになるなら、俺はどんな手でも使う。
それで彼女が不幸になったら、俺は死を持って償うつもりだ。
俺は彼女が好きだから。
文月夏帆が好きだから。
2時間ほど歩いたころ、彼女のアパートの前に1台の車が止まった。
俺はそれを見て、全身の血が煮え滾るように熱くなった。
彼女の両親だ。参観日で見た時と同じ服装をしている。両親は気味の悪い人間そのものの笑い声を上げていて、俺には不快に聞こえた。
俺はゆっくりと彼らについて行った。
手元のトートバッグの中に手を突っ込む。
包丁の柄を掴み、何時でも出せるように強く握った。
彼女の両親は彼女の部屋に入り、乱暴にドアを開けた。
一瞬、彼女が絶望するような表情を浮かべたのを、見逃さなかった。
俺は階段をゆっくり登り、鍵のかかっていない部屋に入った。
彼女の母親がすぐに俺を見つめる。
俺はそれに包丁を突き立てた。
視界の端に驚いてる彼女の姿が見える。
しかし、彼女はすぐに声を上げて狂気的に笑った。
頸動脈に傷を負ったそれは、血が吹き出す音を立てながら倒れた。
俺はそのままもう1人にも手をかけた。
もう1人もすぐに動かなくなり、2人仲良く地獄に落ちた。
そして、俺も床に崩れた。
目を覚ました時には、彼女がカマキリのように俺の顔を覗き込んでいた。
俺は彼女と現実味の無い会話を交わし、しばらく一緒に暮らすようになった。
彼女との生活はとても楽しかった。
ボートを買い、死体を海に沈めた時。
(幸せだ)
彼女の皿を洗って、500円玉を貰った時。
(幸せだ)
彼女の作る料理はとても美味しくて、一口一口をゆっくり噛み締めた。
(幸せ)
ある日、彼女が氷にいちごのシロップをかけて、俺にくれた。
氷が暑さに耐えきれなくなって溶けて、綺麗に光を反射していた。
屈折した光が俺の顔を歪んで映し出す。
「状態変化……綺麗だ」
俺がそういった時、彼女は不思議そうにしてから、髪を頬に押し付けて笑ってくれた。
俺も一緒になって笑った。
(すごく…)
(幸せ)
そして、コンビニでバイトできるようになって、前よりも暮らしが豊かになった。
少しだけ多くご飯を食べれるようになり、ふたりでランチに行ってみることもあった。
彼女がその時着ていた黒と白の水玉模様のワンピースは、オオゴマダラの羽のように、スカートが綺麗に揺れていたのは一生忘れないだろう。
彼女の太陽のような笑顔や、長くパタパタと動く蝶のようなまつ毛。全てが俺を優しく幸せと一緒に包み込んでくれた。
ある日、俺は氷を3つ皿に乗せ、彼女に話しかけた。
「どれが1番美味しそう?」
彼女は液体が多い氷を選んだ。
俺は氷を人差し指と親指で掴み、口に放り込んだ。そして───、文月夏帆の口に氷を直接移した。
俺の唾液が混じった氷は、彼女の口の中でゆっくりと溶けた。
何回か行為を重ねて、しっかり思いを伝えようと考えてたある日。
夏帆が真面目な顔で声をかけてきた。
「あの……雨宮さんって…下の名前、なんですか?」
窓から太陽の光が差し込む。
雲の隙間を通った光は、柔らかく発光していた。
俺は少し悩んだ後、彼女の瞳を見つめながら答えた。
「文。俺、雨宮文」
優しく照らされた彼女は、目を見開いた。
「せん、せい……?先生なんですか?貴方は、先生なの…?」
俺は、少しだけはにかんで、涙と共に溶けて零れそうな瞳で彼女を見つめた。
「そうだよ。君が通ってた学校の先生。仕事を失っても、君を幸せにするって決めてた」
「先生…先生なの…」
「好きだったんだ。君のことが。俺に、君を幸せにする権利を与えて欲しい」
彼女は大粒の涙を零しながら、桃色の唇を震わせて、ゆっくり頷いてくれた。
「ふふ…ぜひ、よろしくお願いします」
「ありがとう。文月夏帆」




