第3話 空中都市アルテリウムと、鍵の紋章
落ちている――そう思った。
風が耳を裂く。青ではない空、群青の海が上下を逆さに流れている。
身体が浮いているのか、落ちているのかすら分からない。
その中で、俺はただ、真白の手を離さないように握りしめていた。
「離さないでください! ここは――アルテリウム上空層です!」
「上空層? 上じゃなくて空中そのものだろこれ!」
「はい、空中都市です! “神々の港”とも呼ばれています!」
重力が切り替わる。視界が反転し、俺たちは雲の上の街に叩き落とされた。
痛みよりも、息を呑む。
そこには、ガラスと石でできた巨大な都市が浮かんでいた。
雲の海の上に、無数の円盤状の区画。
空気が薄く、風が歌っている。
都市全体を囲むように、**七つの巨大な環**が旋回していた。
「……ここが、異世界の“神域”?」
「その手前です。ここは“主層”への玄関口。
選ばれし鍵保持者――つまり、佐原さんの到来を感知して、扉が開いたんです」
「俺が選ばれた覚えなんてないぞ」
「鍵は選ばないんです。“共鳴”するだけです」
真白の言葉に、俺はポケットの中の銀の鍵を握る。
掌に収まるそれは、確かに微かに震えていた。
まるで、何かを呼び覚ますように。
そのとき、上空を何かが横切った。
風を切る音。銀の光。
見上げると、翼を持つ人影が旋回している。
「……天使、か?」
「いえ。**管理者種**です。神域の守護者。
ここは“鍵を持つ者”しか立ち入れないはずなのに……」
言葉が途切れる。
上空の影が一斉にこちらを見た。
金属の羽根が光を弾く。
そして、甲高い声が響いた。
『不正侵入者、確認。鍵保持者、解析開始。――照合一致。対象名:サハラ=コード03』
「は? 誰がコードだ!」
『確定。対象、封印鍵を所持。捕縛プロトコルを起動――』
次の瞬間、光の鎖が四方から伸びた。
反射的に真白を抱き寄せる。
鎖が床を砕き、青い光の床が軋んだ。
熱い。光の束が腕に絡みつき、皮膚の下で電流が走る。
「佐原さん!」
真白が俺の前に立ち、聖印を掲げる。
光が爆ぜ、鎖を弾く。しかし、数が多い。
空から次々に現れるアーカイヴたち。
十体、二十体、いや、数百。
『封印対象、起動条件を満たす。――制御不能のリスク。即時削除を推奨』
「削除って言うな!」
俺は叫び、拳を握る。
――その瞬間、胸の奥が爆ぜた。
鍵が、光る。
ポケットの中で震えていたそれが、まるで心臓の鼓動に合わせて明滅する。
そして、俺の足元の空間に魔法陣が展開した。
真白の陣とは違う。これは……俺自身のだ。
「まさか、あなた……」
真白が息を呑む。
光が腕を包み、鎖が焼ける。
アーカイヴたちが一斉に距離を取った。
『鍵保持者、魔力値測定不能。コード――認識エラー』
俺は思わず叫ぶ。
「これが俺の“供給力”か!」
冗談じゃない。だが笑えるほど、流れが強すぎる。
視界の端で真白が必死に制御を試みている。
だが彼女の聖印が焼け、光が暴走しかけていた。
「駄目です! このままでは境界が――!」
「抑える方法は!?」
「……私と同調するしかない!」
真白は迷わず俺の手を掴み、自らの胸元に押し当てた。
心臓の鼓動が伝わる。彼女の魔力が流れ込む。
そして――世界が、静止した。
風も、声も、止んだ。
空の環が、止まっている。
俺と彼女だけが、光の中にいた。
真白がゆっくりと目を開ける。
その瞳の色が、変わっていた。
青と金の二層。まるで二つの世界を映しているような光彩。
「佐原さん……聞こえますか。これは、時空同調。
今、私たちは魔力と記憶を共有しています」
「記憶?」
「ええ。あなたの時間、私の時間――そして、“鍵”の記憶も」
彼女が指を伸ばす。
空間に、映像が広がった。
光の粒が集まり、ひとつの記録映像を形づくる。
そこには、今と同じ光景があった。
ただし――登場していたのは、俺ではなく、別の男。
白衣を着た青年。目の色も髪の色も俺と同じ。
その胸には、同じ鍵の紋章。
「……誰だ、あれ」
「あなたの“前任”です。鍵保持者は、代替わりする。
その男が、神域の扉を閉じた最後の人間でした」
映像の中で、青年が微笑む。
彼の背後には、まだ若い真白――いや、“初代聖女”の姿があった。
声が、微かに響く。
『次の保持者が現れたとき、世界はまた二つに裂かれる。
だが、怖れるな。君の隣に、“聖女”がいる限り――扉は再び、開かれる』
映像が途切れた。
真白が小さく息を吐く。
手のひらの光が消え、時が動き出す。
「……つまり俺は、“前任者の継承者”ってことか」
「そう。あなたが“新しい鍵”。
そして私が、その**護持者**です」
「ガーディアン、ね。守ってもらうより、一緒に戦ったほうが早い気がするが」
「冗談を言えるのは、元気な証拠です」
そう言って笑う彼女の背後で、再び空が鳴った。
アーカイヴたちが、再起動する。
だが今度は、彼らの動きが違う。
攻撃ではなく――跪いた。
『鍵保持者、認証完了。コード・サハラ=正統継承者。
アルテリウム、入域を許可。』
巨大な環のひとつが開く。
風が巻き、光の門が現れる。
「……どうする?」
「行きましょう。主層の奥、“神の塔”へ。
そこに、“戦を終わらせる装置”があります」
「戦を終わらせる装置、ね。そんな都合のいいものがあるのか?」
「あります。けれど、代償もあります。」
真白の声は小さかった。
問い返そうとしたが、光が強すぎて声にならない。
門の中は、果てしない青。
俺と彼女は、再びその光の中へ踏み出した。
そして、その瞬間――。
背後で、誰かの声がした。
『――おかえりなさい、“鍵”。』
振り返る暇もなく、視界が白く弾ける。
足元の感覚が消え、ただ、遠くで鐘の音だけが響いた。
次回予告:第4話「神の塔と、七つの代償」
地球と異界の境界は再び不安定に。
真白の正体、そして「供給」の真の意味が明かされる――。