第1話 ご近所JK、異世界帰還。そして「魔力ください」と言われた。
平日の二十一時、やっと帰宅した俺は、コンビニ袋をカウンターに置いて、溜め息と一緒にネクタイを外した。
ワイシャツの襟がぱたりと開いて、首が自由を知る。電子レンジに冷凍チャーハンを突っ込もうとした、そのとき――。
ピンポーン。
……早い。配達でもない。アポもない。
玄関の小窓から覗くと、制服のスカート。見覚えのある紺色。見慣れた白いイヤホン――いや、これは違う。
俺はチェーンを外し、そっとドアを開けた。
「こんばんは、佐原さん。三年ぶり、です」
そこにいたのは、隣室の住人だった女子高生、伊勢崎真白。
俺が引っ越してきた十年前、彼女はまだ小学生で、よく廊下に忘れ物を散らかして母親に怒られていた。
三年前、突然引っ越した――と、思っていた。
「……ああ、久しぶり。引っ越したんじゃなかったのか?」
「はい。異世界に、行っていました」
冷凍チャーハンのタイマーが、無情にカウントを刻む。
俺の脳は、その間のすべての思考を捨てて、ただ一言に収束した。
「は?」
「説明は後で。お願いです、魔力をください」
どうやら、今日という日は、電子レンジが仕事をするより前に非日常が始まる運命らしい。
真白は、深く頭を下げた。
制服の襟元から覗く銀の聖印。髪は肩の上で揺れ、瞳だけが真直ぐに俺を射抜く。
冗談にしては、彼女の背後に広がる空気の揺らぎが、本気だと言っていた。
玄関の外――廊下の端に、空間の表面のようなものが、薄く波打っている。
「ちょっと待て。魔力って、俺がそんなファンタジーっぽいものを持ってるわけ――」
「持ってます。佐原誠さん、三十六歳。あなたの体内にある“位相”が、向こう側と同期しています」
「個人情報の出し方がずるい」
口が軽口を叩く一方で、眼はあの揺らぎに釘付けだった。
見間違いなんかじゃない。廊下の空気が、透明な膜になって凪いでいる。
膜の向こうには、石畳。火の色。遠い鐘。
「……本当に、向こうに繋がってるのか」
「はい。**時空の綻び(ほころび)**です。開いていられる時間は長くない。だからお願い。供給を」
供給、という単語の生々しさに、喉が鳴った。
真白は続ける。
「方法は簡単です。私の手首に触れて、息を一度、深く吐いてください。それだけで“流れ”が繋がる。危険は、ありません。……できるだけ、ありません」
「最後の注釈が多い」
電子レンジが「チン」と鳴った。あまりにも間が悪い音。
俺は笑って、笑いきれずに、頷いた。
「――わかった。やってみよう。隣人のよしみだ」
「ありがとうございます」
玄関マットの境目で向かい合い、彼女の手首にそっと触れる。
驚くほど冷たい。冬の外気に晒された金属のような、張り詰めた温度。
俺は言われた通りに、息を深く吐いた。
落ちる。
足下の世界が、ひとつ分、音を立てて沈む。
耳鳴り。血管の内側を、目に見えない糸が引いていく感じ。
次の瞬間、廊下の蛍光灯が遠ざかり、石と松明の匂いが近づいた。
視界がはじけ、俺たちは石畳の路地に立っていた。
夜。けれど夜空は黒ではなく、薄い群青。星の並びが知らない。
遠くで、角笛と鐘。火の粉が屋根の上を舞い、どこかで人々が祈っている。
「……本当に、異世界……?」
「ようこそ。サンクト=リガル王都下町へ。今は戦の後で、治癒と祈祷の手が足りません」
真白は片手を上げると、指先から光を零した。
淡い金色の花弁が風に散り、通りの隅で倒れていた少年の傷が閉じていく。
少年の母親らしき人が涙を零して真白の手を握り、早口で礼を言う。
言葉は分からない。けれど、意味は伝わる。
「すごいな……」
「魔力、もう少しください。あなたの供給があると、私の術は清浄を保つ」
俺は頷き、もう一度、彼女の手首に触れる。
今度の流れはさっきよりも滑らかで、温度が少しだけ柔らかかった。
胸の奥が空気で軽くなる。寝不足の朝に飲む一杯の水みたいな、正しい消耗感。
「ありがとう。――行きましょう。次は**教会**の臨時施療所です」
「案内は任せてくれ。知らないけど」
俺が冗談を言うと、真白は少しだけ笑った。
笑うと、昔の近所の女の子に戻る。それがなぜか、ほっとする。
路地を抜けると、小さな広場。崩れかけた噴水の縁に、怪我人が並んでいた。
真白は一人ひとりに短い言葉をかけ、手を重ねる。
光が満ち、傷口に咲いては消える。
俺は横で呼吸を整え、必要なタイミングで手首を取らせ、流れを繋いだ。
十人目の治療が終わるころ。
空の端が、びりと裂けた。
風が逆流する。紙片が上へ落ち、松明の火が横向きに伸びる。
俺は無意識に真白を庇って一歩出た。
裂け目の向こう――見慣れたものが覗く。白い壁。蛍光灯。エレベーターの表示板。
「……うちのマンションの、廊下?」
「時空の綻びが、こちらから“地球側”に繋がろうとしている」
真白の声が低くなる。「いやな予兆です。戦の残火が、こちらに流れてくる」
裂け目から、鉄の足音。
甲冑。槍。見知らぬ紋章。三人。
彼らは世界の縫い目を跨いでこちらへ出てきた――いや、違う。俺たちの廊下へ出ていこうとしている。
「行き先、間違ってるぞ!」と叫んだ俺に、最前の兵士が一瞥をくれた。
目の色が、濁っている。人の目ではあるが、戦場で焦げた金属みたいに冷たい。
真白が一歩前に出て、聖印に指を添えた。
「退け」
短い言葉とともに、空気が鳴る。
けれど、兵士は止まらない。裂け目の縁を踏んで、片足を――俺たちの廊下へ。
「待て!」
気づけば俺は走っていた。
自分でも驚くほどの速度。地球側へ、甲冑の影が落ちる前に、腕を伸ばす。
指先が、裂け目の淵に触れた瞬間――世界が、ふたつに分かれた。
視界の半分は石畳と火の粉。
もう半分は白い壁と非常口の緑。
その境目に、俺の手首と兵士の槍が、ぴたりと重なっている。
「佐原さん、供給!」
真白が叫ぶ。
俺は反射で息を吐き、彼女の名を呼び――
光が爆ぜた。
綻びの線に沿って、眩しい光が走る。
兵士の槍は弾かれ、廊下側に落ちかけた足が空を探る。
俺の胸が焼け、何かが流れ込んで、同時に流れ出す。
光の余韻の中、裂け目はぬるりと閉じかけ――
――閉じきらなかった。
割れ目の奥から、女の声がした。
乾いた紙をめくるみたいな、小さく冷たい声。
『聖女。戻れ。鍵を持っているのは、そいつだ』
そいつ、とは、俺のことだ。
真白が、わずかに息を呑む。
「……鍵?」
「佐原さん」
彼女は俺の袖を掴み、ぐっと引き寄せた。
距離が近い。彼女の心臓の音が、早い。俺のも同じだ。
「説明が必要です。ですが、今は――地球側を守るのが先」
真白は顔を上げ、決意の光を宿す。
「供給お願いします。もう一度。今度は“扉”を閉じ切る」
「了解。――やれるのか?」
「やります。私たちで」
俺は頷いて、彼女の手首に触れた。
呼吸が合う。
光は、すぐそこにあった。
――そして、玄関の内側で鳴り続ける電子レンジの「チンチンチン」を、俺たちは最後まで聞かない運命なのだと悟った。
*次回:第2話「鍵と聖女と、供給のルール」