第9話 葵の紹介
翌朝。まるで昨日呪いの怪物に襲われた騒動が嘘だったかのように、空は晴れわたっていた。こんな日はお化けや怪物も現れないものだと信じたい。
とは言っても奴らは白昼堂々どこから現れても不思議ではないけれど。例えばあそこの電柱や自販機の陰とか。
「…………」
(…………?)
サッと何かが隠れた気がするのは気のせいだと思う事にしよう。今日は朝からこんなに天気が良いのだから楽しい事だけ考えていればいいのだ。
結衣の通っている学校が近づいてきて、通学路には制服姿の生徒たちの笑い声が増えてきた。
結衣にはまだ親しく話をする友達はあまりいないけれど、朝の陽差しに目を細めながら登校していた。
(神楽を呼べば話し相手ぐらいにはなってくれるかもしれないけど、不用意に呼ぶ必要はないよね。何せ相手は呪いの神様なんだし)
手の甲にはまだ薄く呪印の痕が残っている。意識するとそれはスッと消える。結衣がまだ呪いの神様に憑りつかれ、その力を行使している証拠だ。でも――
「お母さんやみんなが言っているほど神楽って悪い奴なんだろうか……」
「おはよー! 結衣ー!」
元気な声が響いた。振り返れば昨日の騒動なんてまるで気にしていない様子で葵が明るく手を振って駆けてきた。
「結衣も無事で良かった! 昨日あれから大丈夫だった?」
「うん……何とかね。家帰ったら、案の定怒られたけど」
「私もー。遅くなっちゃったもんねー。時間が止められたら良かったのに」
「…………」
まさしくそれは初めての戦いのときに神楽がやったのだが、結衣には出来ない事だった。
学校に着いた二人は一緒に昇降口を上がって靴を履き替え、廊下を歩く。
教室の扉を開ければ、そこには変わらない日常があった。
ざわめくクラス、誰かの笑い声、机の上に開かれた教科書。――まるで、呪詛生物なんて存在しない世界。
(ここにもあいつは襲ってきたんだよなあ……)
あの逃げた奴は今頃どこでなにをしてるんだろうか。どこかで人を呪ってるんだろうか。気になるけれど今の結衣にはどうにも出来ない事だ。
(この町には古くから呪いの被害が出ている……か……)
葵と並んで席に着くと、結衣はぽつりと話し始めた。
「……昨日ね、お母さんに怒られて、思わず“呪いに襲われた”って言っちゃったんだ」
「え!? お母さんに言っちゃったんだ!?」
「うん。絶対『なにそれ、アニメの見すぎ?』とか言われると思ったんだけど……」
「……でも?」
結衣は、窓の外の空を見ながら続けた。
「すごく真面目な顔でお坊さんを呼んでお祓いまでするって言われてさ。昔からこの町には悪いものがいるって、ずっと言い伝えられてたって……」
葵の顔から、笑みがゆっくりと消えていく。
「……それって、神楽ちゃんの……?」
「うん。でも、私には神楽がそんなに悪い奴だとは思えない」
「それは私もだよ。じゃあ、こうしようか」
「え……?」
葵は少し考えてから神妙な顔をして言った。
「実はここだけの話、この学校には呪いについて研究している秘密の部活があるんだ」
「え!? そうなの!?」
結衣はびっくりしてしまう。この学校にそんな部活があるなんて知らなかった。葵はそっと人差し指を立てて内緒話をするように声を潜めて続けた。
「表向きは“郷土研究部”って名前だけど、本当は呪いとか異能とか、そういうのを真面目に調べてる人たちが集まってるらしいよ。なんか、結構すごい人もいるって」
「すごい人って……」
「“視える人”とか、“祓える人”とか……それに、昔その部にいた子が、呪詛事件を解決したって噂もあるらしいよ」
結衣は、その言葉に思わず息をのんだ。
「そんな人たちが……本当に?」
「実は私も誘われてたんだけど、それは断ったんだ」
「え!? ……どうして?」
葵ならそうした話は好きそうなのに。彼女の話してくれた理由はもっともな物だった。
「私って誰かと一緒に行動するのって得意じゃないし、運動も苦手だから」
「私もどっちも苦手なんだけど……!?」
「とにかく、結衣が呪いについて気になるなら一度行ってもいいかもしれないよ」
「うーーーん…………」
人と一緒に呪いを研究する部活……?
チャイムが鳴って先生が来る。結衣は授業を聞きながらこれからどうしようかと考えるのだった。
そして今、黒板に書かれる数式も教師の声もどこか上の空のまま、結衣はひとり思考を巡らせていた。
(私はまだ、何も分かっていない……神楽の過去も、自分の術も。だから、知りたい。だけど――)
心の奥に、小さな迷いが残っていた。
呪いの知識を知ろうということ。それは同時に、呪いの世界に深く足を踏み入れることになる。
(知らなければ、何も知らないまま、今まで通りの生活を続けられる……)
授業中なのに、無意識に呪印を握りしめていた。
ふと見ると、離れた席から葵が口の動きだけで囁いてきた。
「……無理に行かなくてもいいよ? 私だって行ってないんだし、二人だけで研究するのも悪くないと思う」
結衣はその言葉に決心を固めた。
もう呪いの襲撃に友達は巻き込めない。その為に自分に出来る事はやるのだと。
やがて、時間は静かに流れていき、授業の終わるチャイムが鳴り響いた。
結衣が自分の選択と向き合う時が来ようとしていた――。




