夕凪と提案。
「うっわぁフカフカ♪これなら心置きなく安眠できそう」
夕方、学校の近くで出迎えた陽菜は助手席に乗り込むなり、歓喜の声を上げる。ご所望だった座面用のクッションを、昼のうちに買っておいたからだ。
「こんな乗り心地の良い車まで用意したのに、結局女の子は1人も釣れなかったんですね。先輩ったら可哀そう」
「だーからナンパなんてしてないしっ!」
「仕方ないなぁ、ここはご主人様が空席を埋めてあげますよ」
朝に比べてやたらとテンションが高い彼女を乗せて、交通量の多い市街地を抜ける。
「ところで、どっか寄りたい所とかある? ついでに行っても良いけど」
「えーホントですか!? じゃあこのまま海側の国道を抜けてN市の外れにある〇〇ってパン屋さん寄ってもらえません? そこのメロンパンが絶品らしいんですよ♪」
「かしこまりました、ご主人様」
案内されるままに海の方へと車を走らせ、ベーカリーで目的のメロンパンを手に入れる。そのまま海沿いの通りに出ると、太陽は西へと傾き、海をオレンジの混ざった青に染めていた。
「ん~、この時間からで間に合うかな?」
「うん? 他にもどっか寄りたいトコあった?」
「おとといの夜、天領橋に行ったじゃないですか。やっぱりあそこは出来れば夕暮れの時間に行きたいな~って思うんですけど、間に合うかな?」
こういうのを、以心伝心と言うのだろうか。俺も出来るならその場所へ明るい時間に辿り着きたいと思っていた。彼女の要望に応えようと、真剣にハンドルを握ってアクセルを踏み込む。
まだ高い位置にあった太陽が水平線に近付き、海をオレンジ色に染め上げた頃、車は目的の桟橋近くにようやく辿り着いた。
「そう、コレ! コレが見たかったんですよ~」
「まだ橋の上に行けるみたいだな。行こうか」
この海の上にかかる桟橋・天領橋は別名「夕凪の橋」とも呼ばれていて、海に沈みゆく夕日をまさしく海の上から見る事の出来る、絶景スポットだった。
おととい来た時は夜中で鍵が掛かっていて橋の上を渡る事が出来なかったから、そうじゃない時間帯に来たいと思っていたんだ……彼女と2人で。
「キレイ……こんな中で愛の告白とかされたら、思わずキュンときちゃうんだろうなぁ」
「それは……このシチュエーションでだったら答えは変わっていた、って遠回しに言いたいのか?」
「ん~、でもきっと答えは変わらなかったと思います」
じゃあ何でそんな事言ったんだよ、とふてくされるように乱暴にベンチへ腰かけた俺に合わせて、彼女もベンチへ腰かける。
それもなぜか隣に、ではなく正面に向き合うような形で、だ。
「でもね……今度はあたしの方から、伝えなきゃいけない事があります」
はっきりとそう言った彼女はいつもと変わらない柔らかい表情だったけれど、何か意を決したような雰囲気だった。自然と俺も居住まいを正し、彼女の正面にしっかりと座り直して話を聞く。
「おとといの夜に先輩が言ってくれた事を昨日、誕生日祝いに来てくれた親友に話したんです」
その親友というのは彼女にとって高校時代からの親友で、ラブホ連れ込まれ事件の時は深夜に関わらず車で迎えに駆けつけてくれた、事情を知る数少ない1人なのだという。
「そしたら言われちゃったんですよ。『アンタの事をそんだけ思ってくれて、一緒に居ようとしてくれる男なんて今後どんだけいると思う? そんな人大切にしないでどうすんの?』って」
さすがはこんなぶっ飛んだ子の親友を長年務められるだけの事はある。すごく良い事を言うじゃないか。いつか紹介してもらえることがあったら手土産を持参しないといけないところだ。今日買ったメロンパンを5個ぐらいとか。
「それで彼女が言うには……『付き合っているうちに好きになって、無理だった事が大丈夫になっていく事もあると思うから【お試し】で付き合ってみても良いんじゃないの』って。だからその……お試しで付き合っても、良いかなって」
最後の方はギリギリ聴きとれるかどうかってぐらいに声が小さくなりながら、腰の後で手を組んで視線を外しがちに言う彼女。その頬がいつもより僅かに朱く見えるのは、夕日のせいなのかそれとも、発言のせいなのか。
その普段とは違う可愛らしさに、思わず抱きしめたい衝動に駆られる。だけどそれは我慢しながら努めて冷静に、言葉を返す。
調子に乗ってしまった行動でこの前みたいに反射的な過剰な拒絶に遭ってしまったら、全部台無しになるかもしれないから。
「陽菜は……お試しとはいえ、俺が彼氏でも良いのか?」
「ん~、まだ番犬としか思えてないんだけど……でも、隣に居てくれて心強いなとは思ってるよ?」
そこから認識的な意味での昇格は、まだずいぶんと先になりそうな気はするけれど。
それでも『彼女の一番隣に居る男である権利』を、暫定とはいえ俺に渡してくれても良いと彼女が思ってくれているんなら。
「……それでもいいよ。こんなヤツで良いんだったら、お試しでも何でも構わないから……付き合ってください」
こうして俺は、忠実な番犬から仮の立場とはいえ「彼氏」という形で彼女の隣に居られることになったんだ。