最終話 この夏に、君と。
ついに最終話です。
時間軸がオープニング(あの夏から10年後)に戻ります。
あれ以来、高田陽菜と俺が顔を合わせる事は無かった。
陽菜は研修が終わってバイトには戻ってくるのかと思っていたのだけど、研修先でそのまま卒業まではバイト扱いで働くことになったそうで、俺には何も告げず彼女は俺の勤め先から居なくなっていた。
俺はその後も何年かはずっと彼女の事を考えていたけれどやがて、自分の人生の忙しさにかまけてあの夏の事は忘れていった。でも真夏の馬鹿みたいに暑い日には時々、思い出す事があった。
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「あれぇちょっとお兄さん、こんな所で座り込んでたら干からびるよ!」
突然耳に入ってきたガシャン、という音と、掛けられた声に気付いて顔を上げる。どうやら昔の事を思い出しているうちに、自転車を降りて座り込んだまま少し眠りこんでしまったみたいだ。
「これ、よかったらどうぞ」
声の主が差し出してくれた見慣れたデザインの缶コーヒーを受け取って礼を言い、一気に飲み干すと身体の中にもう水分が残っていなかったことに気付く。寄りかかっていた壁はさっきまでは日陰だったハズなのに、いつの間にか頭上から燦燦と陽光が降り注ぎ、俺の顔を灼いていた。
「すみません、助かりました。コーヒーの分のお金……」
「いやいや、いいんだよ。あたしもひと休みに来たついでだし」
立ち上がって背中のポケットから小銭入れを取り出そうとしたが手をひらひらと出して止められる。立っていたのは60代くらいだろうか、小柄なおばさんで今度は自分の飲み物を選ぼうと自販機に小銭を投入しているところだった。
「ああ、そうだ! お兄さん、朝ご飯もう食べたかい?」
「いえ、帰ってからと思ってたところで」
「ならちょうどいいや。裏の角を曲がったところにパン屋が建ってるんだけどね、良かったらコーヒー代の代わりになんか買っていっておくれ。ウチの娘が始めた店でね」
そう言って人懐こそうな顔で笑うおばさんの笑顔が、どこかで見た誰かによく似ているような気がした。だけどその時はそれが誰だったか、思い出せなかった。
自販機の角を曲がってカーブした道の3件目に、その店はぽつんと立っていた。見える範囲だとガラス張りで8畳くらいのスペースに何種類ものパンが並べられている。押していた自転車を道路脇に立てかけ、店に入ろうとした瞬間に店主と思われる女性と目が合う。
一瞬、息が止まるかと思った。
きゅっと後ろで1つにまとめた髪、少し日に焼けた肌、女性にしてはちょっと強い印象を受ける目元。あの頃と同じ、彼女の姿だと気付いたから。
店に入る俺へガラス越しに一礼すると、その姿は忙しなく店の奥の方へと消えていく。
彼女は俺に気付いただろうか? いや、きっと気付いていないだろう。何しろあれからもう10年だ。
いつか自分の店を出せるように頑張りたい、と思っていた調理の仕事は、勤続年数を増すごとに増える責任と勤務表には書けない勤務時間に押しつぶされ、体調にも精神的にも変調をきたして辞めてしまった。
今やっている仕事は全く別の業種で働いてる時間帯が不定期だったり、付き合いで酒を飲まないといけないこともあったりで体重も増えたし髭も伸びた。30代に入ったばかりだがもう、立派な「おっさん」だって自覚している。そんな風にすっかり変質してしまった俺に彼女が気付かなかったとしても、何ら不思議はない。
「いらっしゃいませ。よかったらご試食、いかがですか?」
店内に並べられたパンを眺めながらそんな事を考えていると、真後ろから突然声を掛けられてびっくりする。
振り返るとそこには、にこやかな笑顔を向ける彼女がトレーを差し出していた。その上には6等分に切り分けられたパンが載せられていて、それは……
「クリームパンです。ウチの看板商品で自慢の一品なんですよ♪」
試食させてもらったソレはいつだったかに食べたものに比べると格段に美味しくて、さすが自慢の一品というのも頷けるクオリティだった。
「……実は、初めて人に食べてもらったのがこのクリームパンで。その人が食べてすっごく感激してくれて、それでパン屋さんとして頑張ろうって思えたんですよ。辛かった時とかもその事を思い出したりしてて……だからあたしにとって原点なんです」
購入したクリームパンを包装してくれてレジを打つ間、それが俺だと知ってか知らずか、彼女はそんな話をする。
でもそれはもう過去の話でしかなくて、今に繋がっていたりなんていないのだろう。彼女にとってはただの『昔の美談』であって今はきっと違う人生を生きている俺の事など、気にもかけていないに違いない。
俺にあれからの人生があったように、彼女にもここまでの人生があって。もしかしたらその中で幾つもの出会いもあって、とっくに違う誰かと結婚していたりするかもしれなくて。
だから現に目の前でこうしてやりとりしていても、俺に気付かないでいるのだと思った。
そう思って無言のままお釣りと袋を受け取って店を出ようと振り返ったところで、彼女はこう声を掛けてきた。
「『毎日来て』とは言わないですけど、出来たら週に1回ぐらいでいいから買いに来てくれたら嬉しいです。あたしはここでお店を開けて待ってますから。あたしってやっぱり、なんだかんだ言って一緒に居てくれる人にコロッと懐いちゃうみたいなんで……先輩♪」
その言葉に振り返ると、彼女は悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。それが向日葵のように鮮やかで眩しいのは、あの夏から変わってないなと思った。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!これで完結となります。
いかがでしたでしょうか?もしよかったら読み終えての感想やレビューなど戴けると嬉しいです。
この後はあとがき&おまけ(設定資料&参考にした音楽について)もありますが、そちらにも目を通していただけると幸いです。