最後のデートと、サーカスの魔法。
いよいよ迎えた最後のデートの日。
果たしてどんな展開になるのか!?
午前10時。いつもの自販機の前に数分遅れて、彼女はやってきた。
「ごめんなさい、シャワー浴びてたから。今日もあっついですね」
車に乗り込むなりそう言って両手を団扇のようにしてあおぐ彼女。その服装はキャミソールの上に半袖のシャツを羽織っただけとラフな格好だ。普段は暑くても長袖で胸元が見えないような服装をしていた彼女にしては、珍しい。
「てっきりN市の友達のトコに居るんだと思ってた」
「昨日は同じ中学からの親友の家に泊まりで、今日もその子や中学の頃仲良かったメンバーで同級会的なBBQなんです」
それならなんでわざわざ現地集合・現地解散なんて、と車を走らせながら喉まで出かかったが、それを押し殺す。頼み込んでせっかくこちらの提案に切り替えてくれたのに、わざわざ険悪な雰囲気にする必要はない……それも、最後まで。
「だから実はあんまり寝てないんですよね~」
「じゃあ、着くまで寝てても良いよ」
「ホントにいいんですか?」
いつもそれが普通だったじゃん、と言いそうになったが止めておいた。
もうこれは、普通の『いつも』ではないんだ。だから彼女もわざわざ聞いてきたんだと思う。『これで最後なのに』って、その言葉は敢えて言わないままで。
「じゃあお言葉に甘えて、寝ます」
「ああ。着いたら起こすから」
そんな短いやり取りの後、彼女は座席を倒して窓の方へと身体を向ける。「襲わないでくださいね」とか「番犬として信頼してるんで」なんて言葉も無いけれど、代わりにこちらを向いてくれる事もない事を少しだけ、悲しいと思った。
「本当はね……あんな事があって家族以外の車に乗るのも怖かったんです。だから、N市まで電車で行って帰ろうかと思ってました」
もう寝ちゃったかな、と思って何度目かに助手席に視線を移した瞬間、彼女は独り言のように呟いた。
「……でも、なんか……安心した。先輩だから、なのかな」
「それなら良かったよ」
陽菜がこうして落ち着ける場所に今でもなれるのなら、彼女の忠実な番犬のままでもいいと思った。でもやっぱりそれも、キツイかもしれないとも考えた。
だって、俺にとっては唯一で1番大好きな飼い主が、他の誰かに同じような目を向けるのを1番近くで見ていなければいけないのは……やっぱり耐えられそうにない。
そんな俺の葛藤は多分伝わる事なく、彼女はそのまま本当に眠りに落ちてしまったようだった。
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「うわぁ……凄い」
「これは確かに……想像以上かもしれない」
辿り着いたテントで行われていたサーカスの内容は目を見張るものばかりだった。大迫力のゾウやライオンの曲芸はもちろんのこと、次々と繰り出される空中での華麗な技や見てるこっちがハラハラするようなマジックに、まさしく童心に帰る感じで心を奪われた。
そして公演はクライマックスを迎え、聖火のようなトーチを持った女性が空中ブランコを伝ってどんどん天井へと舞い上がっていく。
「皆様、本日は公演にご来場いただきありがとうございました。真夏の一日だけの魔法、楽しんでいただけましたでしょうか? 願わくば今日の一日が皆様の心に楽しい記憶として残りますように、団員一同心から願っております」
トーチの火が消えて最後のアナウンスが流れ、周りの人々が出口へと動き始めても俺はその場を離れられずにいた。
サーカスの掛けてくれた、一日だけ非日常を見せてくれる魔法。でもそれが彼女にとって『楽しかった記憶』として残ってくれる事を、心から願わずにいられなかったからだ。何年も経って、そういえばあの夏に……と思い出してもらえるような。
「先輩? もう行きますよ」
彼女に促されて席を立ったのは、周りが誰も居なくなってからだった。
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「帰りはちょっと遅くなるけど、海沿いを通って帰りたいんだ。いいかな?」
「んーじゃああたし、親友に連絡してみますね」
車を混雑する市街地の外れへと向けて走らせる。
家まで送り届けてしまったら、これで最後。そう思えば少しでも長く、彼女と居たいなと思った。
その時だった。
『彼女を無理にでも抱いて、気持ちを奪い去ってしまいなさい』
電話しながら無邪気に笑う彼女の姿を見つめていて不意に、昨日スミさんが囁いた言葉が、脳裏にガツンと氷の塊でもぶつけられたようにフラッシュバックする。
『惨めでもみっともなくても、彼女をどうしたって失いたくないんでしょう?だったら……』
必死でその考えを脳内から振り払おうとするが、一度浮かんでしまったソレは消えることなく、俺の頭に繰り返しささやきかける。そんな事は思っていないとは、言えない。どんな事があったって彼女を失いたくないって、どこかで心からそう思ってる。
「遅れるかもって話したら、良いよ良いよ~そのまま連れ去られちゃえ! むしろ時間通りに来ても、お前の肉ねぇから! って言われちゃいました。ちょっとヒドくないですか?」
笑いながらそう報告してくる彼女を、真剣に見つめて素直な気持ちを伝えた。
「このままどっか遠くまで連れ去って、誰にも渡したくないって思ってる」
向日葵のように無邪気に笑っていた彼女の表情は一瞬の驚愕へ変わり、それは拒絶ともとれる険しいものに変わる。
「……先輩がそんな事を言うなんて、思いませんでした……最低」
「そう思われても仕方ない事を言っていると思ってる。でも……嫌なんだ。陽菜が誰かのものになって、2度とこんな風に会う事すら出来なくなるなんて……考えられない」
俺の縋るような言葉には何も答えないまま、彼女は俺から顔を背け、窓から見える景色だけを見つめ続けた。
真夏なのに凍り付いたような空気の無言が流れる中、窓の外の景色だけがオレンジ色に染まっていく。
「いいですよ。先輩がどうしてもそうしたいって言うなら、どこへでも」
永遠かと思えるぐらいの沈黙の末に彼女がそう呟いたのは陽が傾きかけた頃だった。海へかかる桟橋にはしゃぐ何組かのカップルのシルエットが見え、その風景をスピードが追い越していく。
「あの日だって先輩に助けてもらって、ずっとあたしが『番犬』って言ってたの聞いて守ってくれていて。考えてみれば何も返せてないですもんね。だから『体で払う』じゃないですけど……いいですよ」
そう呟く彼女に俺は、視線を向けられないままでハンドルを強く握った。
ラストまであと2話です。
次回「ラストシーン。」