繋ぎ止めるものがあるとしたらそれは。
高田との電話を終えてから俺は毎晩、酒を飲みながら過ごした。仕事が終わるとほぼ毎日決まったバーに行き、度数の高い酒を3杯ほど飲んで、酩酊した状態で自転車を押しながら帰ってベッドに倒れ込む。
彼女が今頃どう過ごしているか、考えたくもなかった。きっと倉田とかいう新しい男と、職場でも研修が終わっても仲良く過ごして、どんどん距離を縮めているに違いない。
ほんの少し前は手が届くかもしれなかった煌めきが、流れ星みたいなとんでもないスピードで手の届かない場所へと離れていって、誰かの手の中に納まってしまうようなイメージ。
そのイメージに対してなのか、許容量を超えたアルコールに対してなのか分からない吐き気を抱えながら何とか家に辿り着こうとしている時にだけ、彼女への気持ちを忘れる事が出来た。
だけどそれ以外の時間はどうしても彼女の事ばかり考えてしまう。まるで底なし沼にズブズブと嵌まって抜け出せずにもがき続けるような、地獄だった。
そうしている間にも時間は流れ、いつの間にか8月もお盆前。約束した彼女との最後のデートは、明日に迫っていた。
『すみません、明日なんですけど現地集合・現地解散で良いですか? 研修やっと終わったばっかりで今日も明日も友達の家に泊まりなんで』
そんなメールが届いたのは俺がまだ仕事していた、午後4時過ぎの事だった。
サーカスの開園時間は午後1時。最初の予定では午前9時に彼女の家へ迎えに行き、夜までに家へ送り届ける予定になっていたのに。もう彼女にとっては「俺にくれた最後のチャンス」でも「最後の思い出」ですらないんだろう。
どうせ消化試合。チケット代分の義務。そんな言葉しか浮かばなくて、返信の内容も思いつけないままに喉の奥の苦みをアルコールで流し込んでいた。
「あら? 今日はずいぶん早いのね」
オリエンタル系の微かな香りと共に、隣の席に誰かが座る。グラスから視線を上げてそちらを見ると、そこに居たのはスミさんと呼ばれている、常連の女性だった。
時計を見るとまだ午後7時半過ぎ。県外客とその接待で人が押し寄せる花火大会とお盆に挟まれたこの時期は、来客が減るので奇跡的に早く帰れたのだ。だからって何をする気にもなれないから、此処に居るのだけど。
「また飲んでるの、ゴッドファーザー? それもそんな大きいグラスで」
「ロブロイですよ。全然違うじゃないですか」
「ほとんどウイスキーばっかりの度数が高いお酒、って意味じゃ同じよ。そんな飲み方してるとロクな大人にならないわよ」
「もう合法的に酒を飲める立派な大人ですよ」
「私からしたら、そんな飲み方してるうちは図体だけデカい子供よ。本当のオトナになるとしんどい時ほど、態度には出さないもの」
そう言って溜息を吐き出しながらカシスオレンジのグラスをゆっくりと傾ける彼女の横顔を見ていると、そうなのかもなって思う。年齢は聞いた事ないけれど、30代前半ぐらいか。俺もそれぐらいになった頃には、こんな事で悩んだりしないんだろうな。
「それで、こんな日にお酒なんて飲んでいて良いの? 明日が勝負の日なんでしょ?」
そう聞いてきた彼女に、俺は返信できないままでいるメールの内容を話した。俺と高田陽菜が今日に至るまでの話は以前、べろべろに酔っぱらった時に彼女には全部聞いてもらっている。
「取り付く島もない、か。うーん、そうだなぁ……」
彼女は頬杖をついてしばらく考えるような仕草を見せると、カシスオレンジのグラスを空けて新しいカクテルを注文した。空のグラスに残った氷がカラン、と音を立てる。
「キミはそれでも『その予定でOK』ってメールは送らないし、そう思っていないんでしょ?」
「ええ、終わりにしたく……ないって思ってます」
「だったらさ」
彼女はこちらに顔を寄せ、俺のグラスにまだ半分近く残っていたカクテルを一気に飲み干してから耳元で囁いた。
「彼女を無理にでも抱いて、気持ちを奪い去ってしまいなさい」
「えっ」
あまりにも突飛な発言。店内には俺がまだ小学生ぐらいの頃の、ラブソングの名曲をサックスアレンジしたBGMが流れている。
『誰かに取られるぐらいなら、このまま奪い去りたい』とかそんな歌詞の曲だった気がする。でも、だからって。
「状況がココまできて、キミと彼女を繋ぎ止める唯一のものがあるとしたらそれは、身体を重ねる事で情が移る以外にないと思う」
「でも、彼女はその事でずっと悩んで……」
「惨めでもみっともなくても、彼女をどうしたって失いたくないんでしょう? だったらこんなところで悩まない! キミはまだ完全に手遅れにはなっていないんだから……昔の私みたいにね」
そう言ってこちらを真正面から見据える彼女の表情は、真剣そのものに見えた。でもそのすぐ後でいつもの冗談っぽい笑顔に戻ってこんな事を言う。
「それとも本当に情が移るかどうか、これから実験でもしてみる?」
その言動に近付いた距離を離そうとのけぞると、椅子から転げ落ちそうになる。そんな俺をアハハと笑い飛ばして、2つ運ばれてきたフルートグラスの1つを手に取った。
「もちろん冗談よ、そんな事しないから。これでも応援してるんだから、今日はコレ飲んで帰りなさい」
そう言ってバーテンダーに空のオールドファッショングラスを下げさせると、俺の前にも彼女と同じフルートグラスに入った飲み物がスッと差し出される。
「キール・ロワイヤル。『最高のめぐり逢い』って意味よ。願わくばキミとその陽菜って子の運命が、そうである事を信じて。お姉さんに手伝ってあげられることは、コレぐらいだな」
店を出てアルコールの勢いとスミさんから貰った励ましの力を借りて、陽菜に思い切って電話してみる。出てもらえないか、出ても誰かと一緒に居る事も想定していたけれど、5コールの呼び出し音の後、通話口の向こうから彼女の声が聞こえてきた。
「陽菜、明日なんだけど、やっぱり少しでも長く一緒に居たいと思う。……ダメかな?」
ここまでお読みいただきありがとうございます。物語はいよいよ最後のデートへ。最終回まで、残り3話! 最後までお付き合いいただければ光栄です。