彼女の結論。
『せっかく会いに来てくれたのに、ゴメン』
これ以上は待っても彼女が現れる事は無いだろうと判断できる時間まで待って、俺は彼女に謝罪のメールを送った。美咲さんの愚痴に付き合わされた顛末も添えてだ。だけど、返信が来る事はなかった。
彼女は電車に乗っていたとしたら、もうすぐN市に着く頃だろうか? それとも俺が見失っただけで、まだこの駅近くの何処かにいる?
どちらにしても1人ではなく、あの「ひなっち」と呼んだ男が隣に居るのだろうか? あれは……どういう関係なのだろう?
考えがまとまらなくて頭の中がグルグルしてくると段々と、彼女の行動に対する不満も現れてくる。
そもそもO市に戻っていたならそうと連絡をくれたなら、美咲さんに付き合う事も無かったのに。
それに「話したい事」ってなんだ? 一緒に居たあの男が絡む事なのか? まさかとは思うがソイツの方が好きになったから、俺は用済みのお払い箱だとでも?
どんどん悪い方へ向かってしまう想像を振り払うように自転車のペダルを踏みつけ、彼女がまだ居るかもしれない可能性のある場所へと走る。
勤め先の店の裏、近くの喫茶店、駅裏の繁華街、彼女の家の近くにある自販機の横の赤いベンチ。
そのどれを訪れてみても結局、彼女の姿を見つけることは出来なかった。
『中川先輩に話したいことがあります。今って電話するの、大丈夫ですか?』
連絡が取れないままだった彼女、高田陽菜から唐突にメールが来たのはそれから2週間少し経った、7月も終わりごろの月曜日の夕方だった。
日が傾いた時間とはいえ真夏の日差しは刺すように強く、窓とレースカーテンの上からでも容赦なく襲い掛かってくる。その勢いに呼応するようなセミの大合唱が、締め切った窓の外から聞こえていた。
「もしもし……久しぶりだな。元気にしてたか?」
「うん。あたしはなんとか……」
2週間ぶりに聴く彼女の声は電話のせいかひどく遠く聞こえて、それは俺たちの距離を表しているのかな、って気分にさせるには十分で。
「それで、話したい事……って?」
冷房のせいで嗄れかけた声のまま、精一杯の勇気を振り絞って尋ねる。
それを聞いてしまえば多分、後悔する。そんな予感はあったけれど、彼女が話すと決めたからには、聞かないわけにはいかなかったから。
数秒の沈黙の後、彼女は出来る限り何ともないという声を作って、こう言った。
「実は同じ学科に通っていて今、同じ研修先で働いてる男子……倉田っていうんですけど。ソイツの事好きになっちゃったんです。だから先輩とはもう、付き合えないというか」
「それってこの前、駅前のカラオケ屋で陽菜を追いかけてた?」
「うん、そう……です」
時間が止まってしまったかのようだった。扇風機と冷房の無機質な機械音だけが、やけに五月蠅く聞こえる。その奥で鳴き続けるセミの声と、斜め上から俺の肌をジリジリと焼いてくる真夏の日差し。
いっそのこと、焼き尽くして灰にしてくれればいい。燻り続けている彼女への思いも、ほんのさっきまで捨て切れずにいた一縷の望みも、この俺自身も、何もかも。
「あたしってやっぱり、なんだかんだ言って一緒に居てくれる人にコロッと懐いちゃうんですよね。だから所詮それだけの女だったと思って……」
「そんなの、認められるかよ!」
「ちょっと、先輩?」
立ち上がった勢いでぶつかったテーブルの上に置いてあったグラスが地面に落ちて、ガシャンと割れる音を立てる。ここで「そうか、それなら仕方ないな」って物分かりの良い先輩のフリをして、話を終わらせてあげる方が正しい大人としての対応なのかもしれない。
でも。
大人げなくても構わないから、ここで終わりにはしたくなかった。
「お前にとっちゃ俺はさぁ、簡単に終わりに出来るそれくらいの存在だったかもしれないケド……俺は陽菜の事が本気で好きで。いくら嫌われたとしても、届かないとしたって……諦められないよ」
最後はどうしても涙声になってしまう。子供の頃は「男は簡単に泣くモンじゃない」って言われて育ってきた。だから男が失恋ごときで泣くなんて女々しくてダメな事だって、脳では理解している。
でもだからといって、感情は制御できるものじゃないみたいだ。
「……あたしだって先輩の事、簡単になんて考えてないですよ」
絞り出すようにそう言った陽菜の声は、先程までの声音とは違っていた。作りものじゃない、彼女が本当の気持ちを喋っている時の声。
「あの七夕の事があってから、先輩と何を話したら良いか分かんなくて。あの事を思い出すだけでも怖くて。そんな中で研修始まってみたら、授業だとちゃんとやれてた事が全然出来てなくて。毎日怒られてばっかで。それで話したいなって思ってたのに先輩、美咲ちゃんと楽しそうにお酒なんか飲んでて。もう何もかも、わかんなくなっちゃったんです」
あの日、カラオケ屋の前で涙を溜めながらこちらを睨みつけていた彼女の顔を思い出す。
「倉田は心配だからってわざわざ一緒に電車乗って付いて来てくれて。帰りもずっと大丈夫だからって励ましてくれて。研修で怒られた時とかもずっと見ててくれて。そういうトコに段々惹かれていくの、先輩に申し訳ないって思ってたけどそれも話せなくて……」
あんな事があった後も能天気なフリをしてメールし続けたり、N市まで会いに行っていたなら止められただろうか? なんて事も考えたけれど、そうしたところで陽菜が俺に会ってくれたとも思えない。一度動いてしまった感情はもう、どうにもならないんだと思い知らされた。
目の前の現実が脳の許容量を超えて、定まらない視点の中で壁に掛けたボードを見るとも無しに目をやる。そこに残されたカードが1枚だけあった事を思い出した。
「……もう良い。もう分ったよ。でも最後に1つだけ、チャンスをくれないか?」
「チャンス?」
「6月のうちにさ、サーカスのチケット買ってあったのって、覚えてなかったかな」
そう言いながら俺も今の今まで、忘れかけていたのだけれど。
あれは6月の半ばだったか、『10年以上ぶりに夏の間、N市へサーカスがやって来る』というのを彼女が専門学校の友人から聞いて俺に話してくれたことがあった。それと子供の頃は両親兄弟揃って観に行って楽しかったんだという事も。
それを聞いて買っておいたペアの前売り券が、壁のボードにピンで留められていたのを、ついさっき見つけたんだ。彼女と俺を繋ぎ止めるかもしれない、最後のカード。
「コレで終わりになるとしても、こんな気持ちで終わりたくないからさ。最後のデートをしよう。それでまだ陽菜の気持ちが動いてくれるなら嬉しいし、動かなかったとしても……最後は笑って楽しかった思い出で終われるから」
「うん……わかった」
別れる事を選んだ二人。
この後、最後のデートに至るわけですが……
このエピソードと最後のデートまでの間にスピンオフ
『最後の花火が鳴り終わるまで。』という花火大会の日の話があります。