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抱き合う事は出来ないとしても。


 彼女・高田陽菜と【お試し】とはいえ、彼氏という立場を勝ち得た俺はこれまでよりもさらに近付き、週に4日を彼女と過ごすために費やした。


 とは言っても一緒に過ごせる時間は少なくて、土日はバイト終わりの帰り道だけ、店休日を含めた週2日ある俺の休みも彼女の学校帰りだけしか一緒に居られなかったけれど。それでも彼女の隣で過ごせる時間に、俺は幸せを感じていた。


 

「いいなぁ~。いつかはこんな所で、こんなお店を開きたいんですよね」


 メインディッシュをすっかり平らげ、食後のデザートと紅茶を待つ間に彼女がそう呟いたのは、N市までの送迎帰りに寄った広々とした風景の中にあるレストラン。


 その店は近くの農場で採れた野菜をメインにした洋食と焼き立てのパンを看板メニューにしていて、景色もだが料理の味も素晴らしくて「是非また来たい」と思わせてくれるに充分過ぎるお店だった。フレンチのシェフであるご主人が料理を作り、奥さんがパンを焼いてそれを提供する、小さなお店。


 彼女と2人でいつか、こんなお店を開けるならと想像してみた。今働いている所は和食だけれど、俺は和洋中にこだわらずどんな料理も作るのは好きだし、今の会社で調理の基礎を学んだらいずれ、会社の幹部に上り詰めるよりも他の事にも挑戦してみたいと思っている。


 彼女と励まし合いながらそれを続けていって、2人で協力して『夫婦で営んでいる小さなお店』という和やかで幸せな空気に満ちた空間を作っていけるなら……その為に頑張りたい。運ばれて来た熱い紅茶を少しずつ啜りながら、ぼんやりと考えていた。


 もちろん、彼女にはこんな()()()()()()()()は言わないけれど。


 

 そんな風に小さなデートを重ねて2週間が過ぎた、6月半ばの日曜日、仕事終わりの帰り道。


「今日もホントに疲れましたね。早く帰りましょ」


 その日に限ってはいつもと違い、彼女の方から腕を絡めて手を繋いできた。これまではそういう風に接したいと思うと「くっつき過ぎ! もうちょっと距離考えてください」とか「先輩調子乗りすぎ。あくまでお試しなんで」とか怒ってきたのに。


「なんか、いつもと違わない?」

「そんな事ないですよ。あたしはいつだって普通です。先輩こそ暑くなってきて脳内おかしくなってるんじゃないですか?」


 毒舌っぷりはいつもと変わらないだけに、余計その変化が疑問に感じる。じいっと彼女の横顔に疑いの目を向けてずっと見つめていると、俺とは反対側に視線をずらしながら彼女は呟いた。


「だって、少しずつでもこういうのに慣れないといけないじゃないですか……」


 

 彼女の表情を覗き込むと、いつぞやお試しとはいえ彼氏になる事を許可してくれた時のように、頬を赤らめている。彼女のそんな部分に触れる機会はレアなのでここぞとばかり、こちらから踏み込んでみる。


「そうだね。コレぐらい普通になっていかないとね~」

「え? ふ、普通って!? あたしにはこれでも限界なんですけど……」

「自分で言ったろ。慣れていくって」


 そう言って繋いだ手を指と指を絡めて握り返す。普段と違い、俯きがちで無言のまま歩いていた彼女は駅裏の繁華街を抜けたあたりで、ぼそっと呟いた。


 

「先輩はやっぱり、なんていうか……もっと、って思うんですよね?」


 何を、と言うのは聞くまでもない話だし、答えもそう。好きな子とは何処までだって距離を詰めたい、と思うのは自然な事だと思う。


「まあ……そりゃあね。もっと陽菜と近付きたいって思うよ」

「もっと、って……たっ例えば?」

「そうだなぁ」


 それは本音を言ってしまえば俺だって健全な22歳男子だ。『組み伏せて自分のモノにしてしまいたい』なんて事だって考えるけれど……


 彼女はそういう事に対する恐怖心がきっと拭えていない事も知っている。だからなるべく言葉を選んで、こう答えた。


「そりゃさ、叶うなら抱きしめたいとか、ちゅーしたいとかも思うケド……それは」

「あ、あたしでエロい事とか考えんな! 馬鹿バカッ」


 繋いでいた手を引き剝がすように振り払うと、全速力で走り去る陽菜。


 

 誰かと付き合うのが初めてではない成人男子の俺にとっては、『エロい事』とかそんな認識は無かったんだけれど……まだ今の彼女にとってはそれだけでも、トラウマを刺激してしまう事だったのかもしれない。


 マズい事を言ってしまったと思いながら、自転車を押して必死で彼女の後を追いかける。


 

_________


 

 彼女の後ろ姿を見失ったままで家へと続く上り坂を走っていた時はもう、彼女は帰ってしまってこのまま弁明の機会すら貰えないのかなと焦った。


 けれど、坂を登り切った自販機横にあるいつもの赤いベンチに、彼女はちょこんと座っていた。


「良かった、もう帰っちゃったのかと思った……ホントにゴメン」


 肩で息をしながらとにかく頭を下げる。ここまで彼女なりに頑張って勇気を出してくれたのに……


「いえ、あたしが例えば? って聞いたんですから……あたしの方こそごめんなさい」


 とりあえず謝罪の気持ちを形に、と思って自販機でコーラとサイダーを買って両方を差し出す。彼女がサイダーの方を受け取ってくれるのを確認して、俺もベンチに腰を下ろした。2人とも無言のままでプルタブを開ける。乾いた喉に染み込んだコーラは、夏の味がした。


 

「前に話したあたしの親友の話、って覚えてますか?」


 それならちゃんと覚えている。その子のおかげでこうして暫定とはいえ彼氏として隣に居られるわけだから、実際に会う機会があれば頭が上がらないぐらいの存在だ。


「その子が昨日、我が家に泊まったんですけど先輩との状況を聞いてこんな事言ってきたんです。『そんなに頻繁にデートしてても向こうは我慢して全然手も出さないで付き合ってもらってるんだから、アンタはキスぐらい許してあげなさいよ』って」



 それでさっきから様子が変だったのか、と納得する。彼女なりに意識していたのだろう。


「先輩はあたしとキス、したいんですよね?」

 

 俯いたままで呟く彼女。どう答えるのが正解だろう? って考えると鼓動が早まるのを感じる。さっき飲んだコーラの炭酸が、胸の中でシュワシュワと弾けているような感覚だ。頭の中は混乱したままそれでも、何とか言葉を紡ぎだす。

 


「俺は……したいと思ってるけど。でも陽菜がもし無理、って思うんだったら。まだしないつもりでいるよ」


 彼女に無理を強いないようにと考えて考えて、ようやく選び出した言葉。それを聞いても俯いて止まったままで居る彼女。



「あたしは……わかんないからこのままでいます!」


 数秒の沈黙の後、ポツリと呟くと目は瞑ったままで顔を上げて固まっている。それって……しても良いって半分くらいは思ってくれているんだろうか? さっき胸の奥で鳴っていた気がした炭酸の弾ける音が、全身に広がるみたいな錯覚を受ける。


 

 真夏の海に飛び込むような緊張感で彼女に顔を近づけ、頬に触れて顔をこちらに向けさせるとゆっくりと唇を合わせる。どれくらいそうしていただろうか。唇が触れる瞬間に通り過ぎた車の音が遠くなり、やがて聴こえなくなるのをそのままで見送って、鼓動の音さえ聞こえてしまいそうな静寂が訪れたあたりで唇をそっと離す。そしてほぼ同時に目を開いた。


「なんか……忠実な番犬だと思ってた犬に不意打ちを食らったような感じです」


 両手で顔を隠しながら彼女が言う。その仕草が可愛すぎてもう一度と思ってしまったところで、彼女は不意にベンチから立ち上がって叫んだ。


 

「先輩……あたし、初めてだったんですよ! お、おやすみなさいっ!!」


 足早に去っていく彼女の姿をベンチに倒れ込んだまま見送った俺は、心臓のバクバクする音がやけにうるさくて、しばらく起き上がれないままで居た。

いかがでしょうか? ここまで読んでいただいて面白いと思っていただけましたら

「いいね」「評価」などいただけますと嬉しいです。

また恋愛作品を書くのが不慣れですので何か感想コメントなども戴けますと励みになります。

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