あの自販機の角を曲がって。
あの坂を登って自販機の角を曲がれば、彼女の住んでいる家がある。
……って言っても俺には、彼女の家は分からないのだけど。
坂を登り切った道沿いにある、個人商店前の自動販売機と小さなベンチ。いつもそこまでは送らせてもらえたけれど、角を曲がって何件目の家が自宅なのかは、用心深い彼女は『最後まで』教えてはくれなかった。
急に十数年も前のそんな事を思い出したのはつい最近、自転車でそこを通りかかったから。
もう個人商店は店を閉め、よくそこで座って話していた古ぼけた赤いベンチも無くなっていたけれど、個人商店の建物と自動販売機は変わらずそこにあって。それを見た瞬間、急にあの頃の事を思い出せたんだ。
漕いでいた自転車を自販機の脇に立てかけ、ポケットの小銭で冷たい缶コーヒーを買うと、カラカラに乾ききった身体に染み込ませるように飲み干して空を見上げる。
まだ7月も始まったばかりで、それも朝7時を幾らか過ぎたばかりだというのに照り付ける日差しは強すぎて。茹だる様な暑さは脳から思考を奪い取っていくようだ。
あの頃と同じ、馬鹿みたいな暑さだけがやたらと記憶にこびりついている夏の日。俺達は……いや、俺はこの暑さと同じように、馬鹿みたいに夢中になって彼女に恋をした。
結局のところそれは、叶わない恋の物語だったのだけど。それでもそこには幾つかのエピソードがあって、それぞれに痛みや苦みや甘酸っぱさがあって、その1つ1つを思う度に、当時の感覚と感情が蘇ってくるのを感じる。
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今から10年くらい前、俺は東京から地元に帰ってきて飲食店で働いていた。
「中川~、この前店長が面接してた子たち、今日の夕方からバイト入るってよ」
日曜日の夕方前、ディナータイムに向けて黙々と仕込みをしている俺の背中に、上司である小田主任の声が響く。
「可愛い子たちだと良いですけどね~小田さん。中川君、好みが被らないと良いよね♪」
小田さんの隣から聞こえてくる楽しそうな声は、同期でお調子者の大木の声だ。実際は同期入社とはいえ3個上だから呼び捨てにはしないんだけど。ただそうやって気を遣ってる分、仕事はちゃんとやって欲しいところだ。
「いやさぁ。可愛いかどうかよりも、戦力として使いものになるかの方が大事でしょ」
微塵切りの手を止めずに俺はそう答える。正直言って「バイトの新人が可愛いかどうか?」なんて今の俺には気にしている余裕はなかった。
実家が料理屋の息子で『将来の店長候補』として入社した大木と、接客経験はバイトで数年あるものの調理未経験で中途入社の俺。当然ながらできる仕事の差は歴然だけど、それでも同列で比べて同じ仕事量を求めてくる管理職。入社して1年経つかどうかの今でも、日々の仕事を卒なくこなす事だけでその時の俺には精一杯だったんだ。
「今日から入りました新人の高田美咲です」
「え……と、私も今日から入りました高田陽菜です」
そんな俺の状況とは関係なく、今日から入ってきた2人が始業前のミーティングで挨拶をすると、夜の部の従業員たちは色めき立つ。
「2人とも高田さんだと呼びにくいから美咲ちゃんで良いかな?」
特に大木は長い髪を後ろでまとめた色白美人の美咲さんの方に狙いを定めたようで、最初からそんな馴れ馴れしい事を言っていた。
「じゃあ美咲さんの教育係は大木で。陽菜さんの方は中川、お前な」
それを察したかのように新人教育の仕事を割り振る主任。本音を言えばその役割も断ってしまいたいぐらいだけど、正社員ともなればそういうわけにもいかない。
こうして俺は入社2年目で初めて自分が教える新人・高田陽菜の教育係をやらされることになった。
新たに書き始めました夏の恋の物語。毎日1話ずつ更新を目標に合計3万文字・15話程度での完結を目安にしています。そんなに長くはならないので最後まで読んでいただければ嬉しいです♪