無意識下の願い
精神的に参っていたらどんな小説が書けるだろう、とお試しで書いた小説です。即興で書いた拙作のため、粗には目を瞑ってください……。
ある初夏、僕は死んだ。
いや、それよりも、ずっと前から――。
齢十八の少年は家の中の、ぬるい空気を鼻から吸った。普段であれば自然に行う何てこと無い動作も、一度意識してしまったら自分で意識して動かさなければならないところが、どうにも不思議で、そして面倒くさい。
家には少年一人きり。生きているものは、少年以外誰一人としていない。ペットなど飼っていない。親は仕事へ行った。
電化製品が低く唸る音だけを耳に、適当に家の中を歩き回る。別に意味など無い、暇だからなのか気づいたらそうしている、それだけ。
うろうろと、無意識に考え事をしながら、無意識に足が動く。気づいたらこうしてしまうんだ、仕方ないじゃないか。誰に向けるでもない文句が浮かんではどこかへ溜まった。
少年は引きこもりだ。理由として語るものは特別なものではない。社会に居場所を作ることに失敗した、それだけだ。だから唯一の居場所である家にいる、それだけだ。
別の日。今日は家の中の徘徊はしない。ただ、ベッドに仰向けに寝て、天井を見ている。背中に当たるタオルケットの感覚がどうにも心地よくて、これだけは自分を受け入れてくれている気がして、つい全てを委ねそうになる。どうせ、寝たところで現実が変わることは無く、ただ来てほしくない朝が来てしまうだけなのに。いや、今から寝ても朝ではなく夕方になるだけか? それは……それで退屈だな。なんて考えがぼうっと頭に雲をかけた。
天井は相変わらず白い。何年も過ごしたこの部屋だから、もっと黄ばんでもおかしくないはずなのに。それとも、この景色に慣れすぎて、周囲の老化に気づけていないのか。よく考えると、昨日見た親の顔にもシワができていた。親のことならば、昔に撮られた親の写真を、以前どこかで見た気がする。その写真の中の両親は何の不満も無い笑顔を浮かべていて、シワも無かったはずだ。しばらく見返していないため、想像混じりの記憶だが。
……喉が渇いた。ベッドに仰向けになっていた姿勢を横向きへ変える。
ただ水を飲みに行く。それだけの行動さえも、心が怠さを理由に寝転んで行きたがらない。
生きる上での欲求だったか、こういうのは。ならば必ずやらねばならないことなのだろう。視界に映る窓からは外の光が挿している。今日は晴れらしい。ベッドに背中を預けるよりも前にちらりと窓を見た時、確かに青空が上方へ広がっていた気がする。あやふやな記憶だが。
青空を見たって何も思わない。読書感想文でもないのだ、わざわざ言葉を捻り出す必要も無いだろう。
再び天井を向く。白い壁紙……壁紙? 壁ではなく天井にあるものを壁紙と呼んでよいものか? 一般的には壁紙と称しても通じるだろう。だが、天井は天井であって、壁ではない。……待てよ。そもそも壁の定義とは?
こうなったらスマホで調べよう。不確かなままにしておくのは気持ち悪い。枕元に置いていたスマホを手に取り、電源ボタンを押し、手慣れたフリック入力で「壁 とは」で検索をかける。……幾つかのサイトを見たところ、どうやら「部屋と部屋を仕切る間の部分」を指すらしい。天井もある意味で部屋と部屋を仕切ると言えるだろう。つまり壁は天井を指すのか? 指さないのか? どちらだ。
……頭が混乱してきた。もう寝よう。スマホのバックグラウンドアプリを閉じ、背面のタオルケットを引っ張り出し、身を包んで寝る体勢に入った。喉の渇きはどうでもよかった。
別の日。ペットボトルの紅茶が目の前にある。親が「暑いから」と少年に気を遣って買ってきたものだ。冷蔵庫から取り出して、どれくらい経つだろう。まだ一時間も経っていないか? だからなのか、一口飲もうと握ればほんのり冷たさが手のひらに伝わってきた。
くるくると手首を動かして蓋を開ける。一口呷れば、無糖らしい渋みと茶葉本来の甘みが口の中に一気に流れ込む。おいしい。だがそれだけだ。特にそれ以上の感想は無い。
今日の外は何度の予報だったか。興味が無いから天気予報は見ていない。スマホで調べる理由も特に無い。
蓋を締めたペットボトルを握ったまま、何となく勉強机の前に座る。
ふと、今の自分を見返してみる。高卒で働いた会社はすぐに辞め、親は自分を必要以上に叱ることも無く、現状を認めてくれている。が、現実の自分は親の好意に甘えているだけのニートだ。
……申し訳無く思ってきた。無意識に見ないふりをしていた現実が、背後から心臓を貫く。自分だって頑張っている。何を? 生きることを。けれど、それでは不十分だ。しかし、これ以上頑張ることなどできない。誰の期待にも応えられない。生きている価値など無い。死にたい。
またいつもの心の発作が出る。無様に涙と嗚咽を漏らし、無意識に手首で目元を擦る。
何も、無い。自分には何も無い。誇れるものなど、得意なものなど、生きていたい理由など、何も無い。
死にたい。そう思う毎日だ。
――ふと、部屋のコンセントに繋いでいる延長コードが目に入る。無意識に見ないようにしていたもの。だって、意識すれば――。
延長コードを引っこ抜く。スマホで縄の結び方を調べる。扉の上方に延長コードを回し、ドアノブに固定する。椅子を土台にして、乗って、輪っか状にした延長コードに首をかけ――。
「……っ、ゲホッ、うぇっ……」
そう簡単にはいかなかった。当然だ。その後も何度も挑戦したが、いずれも失敗に終わった。そのまま夕方になり、親が帰ってきて。結局、何も成せずに今日も終わった。
それから、死ぬ方法について毎日たくさんの調べ物をした。と言っても、スマホで検索をかけるだけ。なるべく迷惑をかけずに、楽に死ねる方法。そんなものは無いらしいと知ってから理解するまでには二週間の時間がかかっていた。
もう、諦めるしかないのだろう。生きることではなく、死ぬことを。ここまで来ると一周回って意欲的になってくる。いや、社会復帰への意欲はそこまで無い。生きることへの意欲もあまり無い。ただ、死なないことへの意識だけは芽生えてくる。だって、親は今日も自分へ笑顔を向けて出勤してしまったのだ。せめて親不孝だけはしないようにしなければならない。現状、親不孝真っ盛りだ……というのは置いといて、これ以上は、だ。
窓から伺えるこの時期らしい青空が少し憎たらしく見えた少年は自室を出る。そのまま冷蔵庫まで歩き、中のペットボトルの緑茶を引っ張り出した。まあ、おいしいか。そんな小学生並みの感想を浮かべながら、厭らしい青空が見える、南向きの窓の傍へ。
まだ自分は変われないが、少しは社会人らしい行動でもしてみようか。そうだな。慣れないが母親の代わりに料理でも作ろうか。小学校の家庭科で教わったスクランブルエッグしか作れないけれど。
ある初夏、死にたがりの僕は死んだ。
いや、それよりも、ずっと前から――無意識では希望を探していたのかもしれない。